君さえ


2


 ほろほろと、彼の瞳からは雫が留まることなく溢れ続ける。それはまるで先日降り注いでいた雨粒のようで、あの時彼が見せたあの表情が、ふと私の脳裏を過った。ざあざあという雨音の幻聴が、私の脳を震わせる。

 街灯の白い光によって照らし出された彼の端正な顔。そこに浮かんでいる感情に、私は適切な名前を付けられなかった。悲しそうで、痛そうで、辛そうで、苦しそうで、何かに耐えているような。見つめていると、こちらまで悲しくなってしまうような。
 どうして彼が突然泣き出したのか、どうしてそんな表情で私を見つめているのか分からなくて、私は困惑のあまり声すら失ってしまう。おろおろと中途半端に浮かんだ手があまりにも情けない。

 そんな私をよそに、観音坂さんは静かにその手をこちらへと伸ばしてきた。それがたどり着いた場所は、何もできず、何も言えずに立ち尽くしている私の、中途半端に浮かんだ手。少しの躊躇いと遠慮を見せながらも、彼の両の手のひらはしっかりと私の右手を包み込んだ。じわりと、彼の体温が手のひら越しに私へと伝わってくる。どうして彼の体温をこんなにもはっきりと感じられているのか、という疑問は、その時の私の頭にはひとかけらも浮かんではこなかった。


「───……触れるん、だよなぁ」


 ぽつりと零された彼の声は掠れていたけれど、それでも確かに私の耳に届いた。まるで存在を確かめるかのようにぎゅうと優しく握られた手のひらは、彼のその呟き通り、確かに彼の手のひらと触れ合っている。

 ……生きている彼と、死んでいる私。

 相反する存在であるはずなのに、本当なら触れ合うことなどできないはずなのに、私たちはどうしてだか、お互いの存在をこうして確かめ合えるのだ。

 彼の口元に、小さく笑みが浮かぶ。それは決して喜びを表すものではなく、むしろ何かに絶望したかのような、自嘲にも似た笑みだった。
 また一粒、彼の瞳から溢れた雫が、その頬を伝って地面へと落ちて行く。それは地面に小さな跡を残して消えていった。

「……それなのに、どうして、」

 彼の手のひらは温かかった。
 それは、生きているひとの手のひらだった。


「どうして、こんなに、冷たいんだろう」


 だからこそ、彼のそのたった一言が、私の胸をどうしようもないほどに締め付けるのだ。

 だって、私にはもう、体温なんてものは無いのだから。
 私はもう、──どうしようもないぐらいに、死んでいるのだから。

「あなたが幽霊だってことぐらい、出会った時から知ってた。……知っていた、はずだった」

 ぽつり、ぽつりと彼は静かに語りだす。私は彼を見つめたまま、彼の言葉に耳を傾ける。有るはずのない心臓が握りつぶされていくような、そんな感覚に襲われながら。

「それなのに、あなたが、……まるで、生きているみたいに、」

 私の手を握る彼の手に力が加わって、さらに強く彼の体温が伝わってくる。それはまるで、私に体温を分け与えようとしているかのようで。私は耐えるように自由な左手を握りしめた。

「……俺なんかに話しかけてくれるから。俺なんかに、優しく笑いかけてくれるから、」

 握った私の手を引いて、まるで何かに縋るかのように、彼は私の手をその額へと寄せる。指先に、彼の柔らかな赤茶色の髪が触れた。


「────あなたが、ちゃんとここにいるから」


 その声が、その肩が、その指先が、微かに、それでも確かに震えていて。その震えが私にもはっきりと伝わってきて。それが、幽霊になった今でも私にまとわりついて離れない、“心”というものまで震わせる。奥歯を噛み締めて、揺らいだ視界を鎮めようとした。……でも失敗してしまって、耐えきれなかった一粒の雫が頬を伝っていく。
 伏せられていた彼の瞳がふと私の方を見て、その雫が地面を濡らすことなく消えていく様子を眺めた。視線が交わって、彼は眉を下げ困ったように笑う。

「………それに、こうして俺の前で泣いているから」

 涙の伝った私の左頬を、するりと彼の右手が撫でていく。涙の跡をなぞったその指先に、濡れた形跡は無い。彼もそれに気づいたのだろう、困ったような笑みがほんの少しだけ歪んだ。彼の頬を、またひとつ涙が伝い落ちていく。街灯の光を乱反射させてきらきらと輝いたそれはまるで小さな小さな宝石のようで、その美しさに私は息を呑んだ。

「……避けていたのは、あなたを嫌いになったからなんかじゃないんです」

 ゆらゆらと揺れる彼の瞳に視線を奪われて、今この瞬間、私の世界には彼だけしか存在しなかった。

「むしろ、……あなたが、」

 彼は何かを言いかけて、続く言葉を見失ったように一度口を閉ざした。視線がふらりと揺れて、その言葉を探す。右へ行って、左へ行って、そして私の方へと戻ってくる視線。無事に言葉を見つけられたらしい彼は、再び口を開いた。


「多分、俺は、……あなたと友人になりたいって、そう、思っていたんです」


 言いにくそうに、尻すぼみになりながらも紡がれたその言葉。その意味を理解した瞬間、私の心に湧き上がったのは、喜びと、安堵と、そして、

「………でも、あなたが………自分は幽霊だなんて、あんなふうに簡単に、言うから……」

 ────どうしようもない、やるせなさ。

「なんだか突き放されたような気分に……俺が、勝手になって、………だからつい、あなたを避けてしまったんです」

 喉元が焼けるような、この何とも言えない感覚を私は知っていた。生きている頃の記憶にそれはあった。
 もうとっくに死んでいるはずなのに。身体も、全部、もうとっくに消えてしまったはずなのに。どうして、私はこんな感覚に襲われているのだろう。

 どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう。

「………あなたと俺の間にある、このどうしようもない隔たりを目の前に叩きつけられるのが、怖くて」

 彼の手のひらは温かかった。それなのに、彼の両手にずっと包まれていた私の手はひとつもその温度を変えていなくて。
 ……これこそが、私たちの間にある隔たり。
 越えることなどできない、高い高い壁。

 “生”と“死”という、私たちのようなちっぽけな人間には、どうやったって抗えない現実。

「あなたは、いつ消えてもおかしくはない存在なんだってことを、理解したくなくて」

 彼の言葉の通り、幽霊である私の存在は酷く曖昧で不安定だ。未練がなく、ここにいる理由も明確ではない私は特に。そらに言えば、たとえ未練があったとして、それが今私の目の前にいる彼であったとして、私が本来生きていた世界とは違うこの場所に私がいつまで存在できるかなんて、それこそ『神のみぞ知る』というものだ。
 
 私の瞳と、彼の瞳から、ほぼ同時に一粒の雫が零れる。

「こんなにも思い悩むなら、いっそあなたと出会わなければって、そう考えたりもしました。でも、……なんでか、あなたと出会わなかった今を想像できなくて、……おかしい、ですよね。まだ出会ってひと月ぐらいで、しかもちゃんと話したことなんて数えるぐらいしか、無いのに、こんなの……」

 どこかたどたどしい彼の言葉は、ひとつ、またひとつと、鋭い刃のように私の胸に突き刺さる。

 私だって、彼に出会えなかった今を、もう想像できやしない。
 彼が生前推していたキャラだったからとかそういう理由ではなく、ただひたすら純粋に、私は彼、“観音坂独歩”というひとりの人と過ごす時間を、好きになってしまったから。彼の傍は居心地が良かったから。

 ……彼が望むなら、彼の前から姿を消そうと思った。その決意は本物だった。

 ──でも、本当は。できればずっと、彼の傍にいたかった。
 彼と一緒にいたいと、願ってしまっていた。

 死んだ人間にそんなことを願う権利なんて、ありはしないというのに。

 私もです、という彼の言葉に対する同意の言葉を私は飲み込んだ。
 これはきっと、言ってはいけない言葉だから。許されない、言葉だから。

 口を閉ざし続ける私に、彼は一体何を思っているのだろうか。私には分かりはしない。分かるのはただ、彼が酷く悲しそうな表情を浮かべていることだけ。


「────どうして、俺は、」


 涙に濡れた瞳が私を射抜く。
 ゆらゆらと揺れるその焦点と、赤く染まった頬。吐き出された彼の息は、苦しそうに熱く震えていた。

 ────突然、頭が妙に静けさを帯びる。
 彼の様子がおかしいと、私がようやく気づいた、…………その瞬間だった。

 陳腐な言い回しではあるけれど、まさに、まるで糸の切れた操り人形のように、彼の身体がぐらりと前方へ──そう、私の方へと向かって、彼が倒れ込んできたのだ。

「……っ!? 観音坂さ、……!!」

 咄嗟に腕を伸ばして、彼の身体を抱き止める。衝撃と、体温と、僅かに感じる彼の重さに私はほっと息を吐いた。良かった、彼には触れることが出来て。おかげでこうして彼の身体を受け止められた。そう安堵するのもつかの間、右の肩口に落ちてきた彼の頭、そこから聞こえた荒い呼吸にはっとする。

「観音坂さん!? 観音坂さん、どうしたんですか…!」

 慌てて彼に声をかけるけれど、返事は返ってこない。荒い呼吸音の合間に聞こえる小さなうめき声。これはただ事ではないと、私は彼の身体を支えたまま何とか身じろぎをして彼の顔を覗き込もうとする。しかし、力の抜けた彼の身体を支えながらというのはなかなかに難しい。重さはさほど感じないというのに。

 ……倒れる直前の彼の様子と、荒く熱い呼吸。
 そこから導き出せる、彼が突然倒れてしまった理由は、

 決断はまだ下せないが、それはほとんど確信だった。

 私はなんとか左腕を動かして、彼の額へと手のひらを伸ばす。触れた指先から伝わる温度は、私にはただ“温かい”としか伝わってこない。でも、多分、きっと、

 ────……もしも私が生きていたら、きっと今、すぐにこの温度は異常だと判断できたのだろう。

 そして、すぐに救急車でもタクシーでも呼んで、彼をゆっくりと休める場所へ送り届けることが出来たのだろう。

 ……もしも、私が、生きていたら。

 ひしひしと私の心を蝕む歯がゆさを、奥歯を噛みしめることでなんとか堪えて、私は彼の身体を抱え直す。
 いくら彼が細身だといっても、成人男性の体重なんて、生きている私では到底支えきれなかっただろう。彼をこの場所から移動させることだって、できなかっただろう。
 だけど、今なら、私は彼を支えられる。彼を抱えて、どこまでだって行ける。

 もしもを語っている場合ではない。
 今はただ、私に出来ることをしなければ。
 
「…………ごめんなさい」

 それでも、そのひと言は口をついて飛び出して、音になってしまう。熱に浮かされているだろう彼にはきっと届いていないことだけが、幸いだった。

「観音坂さん、観音坂さん、」

 申し訳なさを感じながらも、彼に呼び掛けてその意識を何とか保ってもらう。

「もう少しだけ、頑張ってください」

 まずは、彼から彼の家の場所を聞き出さなければ。



20181127

- 14 -

*前次#