君さえ


プロローグ


 空は快晴。南西の風は緩やかに地面を撫で、柔らかく海を波立たせてはまた遠い世界へと旅立っていく。穏やかな昼下がりの日差しは世界を暑く照らし、海の見える市場は人々の活気にあふれていた。
 商品を売り出す力強い商人の声に、値下げ交渉を迫る声。楽し気な笑い声に時折交じるガラの悪い喧嘩の声。それらが混ざり折り重なっては世界をにぎやかしていく。
 それを足元に聞きながら、彼女は民家の屋根を蹴った。

「──よし、あとひとっ飛び」

 夜の闇のような色を携えた大きな翼を空に広げると、風がその背を押すように飛んでいく。それに身体を預けて羽ばたけば、目的地まであと少し。


***


 漁業と流通とを主な生業とするその町には、今日も今日とて多くの船が停留している。町の大通りに繋がる表の港には、商船を中心に一般の船が。そして、町の片隅に隠れるように存在する裏の港には海賊船が、長い船旅の疲れを癒すためにゆらゆらと小さな波に揺れている。
 そんな裏の港の中にひとつ、鮮やかな黄色を基調とした不思議な形の船が、周囲に溶け込むように、それでもその存在感を隠しきれないまま佇んでいた。
 丸い骸骨が不気味な笑みを浮かべる特徴的なシンボルを掲げたその船の、他に比べればいくらか小さな甲板の上には数人の乗組員の姿が見える。揃いのつなぎを着た彼らの一部は船の見張りを指示されているらしく、それぞれ武器を携え、船の周囲に視線を巡らせては平和な波打ち際にあくびをこぼした。
 そんな甲板に、突然空から声が降る。

「こーんにーちはー」

 少し間延びしたその声は、落ち着いた女性のものと思しき音色で乗組員たちの意識を空へと攫う。誰だ、と一瞬は臨戦態勢に入った彼らであったが、その声の主が誰かを理解した瞬間にすぐさま武器を下ろして親しげな笑みで声をあげた。

「キャプテーン! ユエが来たぞー!」

 船内へ向けられたその雄叫びに近い合唱から数秒、船内と甲板を繋ぐ扉がゆっくりと開いた。その間に空から甲板へと降り立ち翼をしまったユエは、その向こうから現れた姿にへらりと気の抜けた笑みを浮かべて見せる。

「あはは、お久しぶりですトラファルガーさん。相変わらず酷い隈ですね、ちゃんと寝てますか?」
「心配されなくても自分の体調管理ぐらい自分でできる。……今日はどうした」
「うちの船長から、とある島で見られた興味深い症例とその対処法についてのご連絡です」

 相変わらずの気怠い様子に、棘のある皮肉っぽい口調。元来の強面と長身に普通の人ならば怯え慄くだろうが、もう彼との交流も短くはないユエにとってはそれも慣れたもの。30p以上の身長差を見上げながら彼の問いかけに簡潔な答えを返して、肩にかけていた鞄から束になった紙を取り出し彼へと渡す。そうすれば、「そうか」と短い返答だけをこぼして彼はそれを受け取り、そして静かにその内容へ目を通し始める。

「あと、こっちはお土産のお菓子と、ちょうど良く手に入れられた年代物のワインでーす。よければ皆さんでどうぞ」

 真剣な面持ちの彼を邪魔することは出来ない。だからユエは彼からくるりと視線を外して、甲板にいた船員たちへ手に持っていたそれらを掲げて見せた。すると、すぐさま現金な彼らの歓喜の声で世界が満たされる。

「ユエ、ユエ、久しぶり! 今日は泊まって行くよね!?」
「ベポ、久しぶり。まだ時間も遅くないし用事も済んだからもうお暇しようと思ってたんだけど……」

 掻っ攫われて行ったお土産の品々の行方をぼんやりと見送っていれば、もす、と柔らかな感覚がユエの身体を包み込んだ。視界を色づけた白い色に、その柔らかさと温もりが誰であるかもすぐに分かる。
 ユエに引っ付いて縋るようにそう問いかけてくる彼へそんな言葉を紡いでみれば、すぐさまそのつぶらな瞳がうるうると揺れ始めて、彼のその表情に弱いユエはう、と言葉を詰まらせることになった。

「もう帰っちゃうの……? おれもっとユエと遊びたいぃ……!!」
「気持ちは嬉しいけど流石に迷惑だろうし……」

 素直な彼の好意は嬉しいけれど、事前連絡なしで訪れたのに突然一晩泊めてくれと言えるほどの図太い神経をユエ持ち合わせていない。だから帰ります、とユエが言おうとするよりも早く、ベポの声が飛んだ。

「そんなことないよ! ね、キャプテン! ユエ、今日ここに泊まってもいいよね?」

 その声の行き先は、黙々とユエの持ってきた資料を読み続けるこの船の船長。ベポの声に一瞬視線をそれから上げてこちらへ向けた彼だったが、すぐさまそれも戻って行く。返されたのは簡潔な言葉だけ。

「好きにすればいい」

 相変わらず、ここの船長はこの愛らしい船員に甘いようだ。


 ここはハートの海賊団。船長、トラファルガー・ロー率いる20名の船員が、今日も今日とて遠い海を目指して旅をする。

 その甲板に降り立った彼女は、かつて彼らに救われた小さな海賊団の一員。ハネハネの実を食べた能力者、名をユエ。空を飛ぶことのできるその能力を駆使して、ふたつの海賊団の伝令役を請け負っている。

 これは、そんな彼女と彼らのお話。


***


「ユエー! 帰り道気をつけてね!」

 翌日の朝早く、甲板に立ったユエに抱き着きながら、ベポが少し寂しげな声でそう言った。その背中をあやすように撫でながら、ユエはまたその近いうちに来るよと笑う。

「次もまたうまい酒持って来てくれよ〜」
「そっちの船長にもよろしくな」

 ベポの向こうから、シャチやペンギン、その他の船員たちも口々に声をかけてくれる。冷酷非道な海賊集団とは一体何なのか。その優しさと温もりに、ユエはだらしなく頬が緩むのを止められない。

「マザーもハートの皆さんに会いたがってたので、次は船ごと来ちゃうかもしれませんね」
「ははは、それも面白そうだ!」

 げらげらと軽快に笑う彼らの向こうから、静かな彼がゆらりと姿を現した。何も言わずとも船員が開けていく道を通って、彼は真っすぐにユエの元へと歩み寄る。

「一晩お世話になりました」
「ああ……」

 ユエの声にどこか歯切れ悪く答えた彼は、視線をほんの少しさ迷わせたあとその手に持っていた何かをユエに差し出した。反射的に受け取ったそれを眺めて、ユエは首を傾げる。

「これは……?」
「道中にでも食え」

 それだけを言い残して、彼は背を向け船内へと戻って行く。手の中に残されたのは、シンプルでも可愛らしさの消えないラッピングを施された、甘い甘い砂糖菓子の群れ。カラフルなそれを、一体彼はどこでどうやって手に入れたのだろうか。それが少し気になりはしたけれど、言及はしない。

「ありがとうございます!」

 彼の背中に向けてそう言葉を投げれば、こちらを振り返ることなく彼はひらりと手だけを振って応えてくれた。
 それにまた笑って、ユエは甲板の手すりに飛び乗る。

「それじゃあまた」

 ハネハネの実という悪魔の果実を食べた彼女は、羽根を自在に扱う羽根人間。その能力を解放すれば、どこからか現れた数多の羽根が彼女の背に集まって、大きな大きな翼を形作る。深い黒を宿したその翼を大きく広げて一歩空へ踏み出せば、後はもう風が彼女を連れて行ってくれる。
 波の揺れとは違う風の揺れに漂いながら彼らへ最後に手を振れば、皆が皆、手を振り返して笑ってくれる。窓の向こうにあの仏頂面も見えたから、ユエの笑みも深まるばかり。これ以上は名残惜しくなってしまうからと、後ろ髪を引かれながらもユエは空高く舞い上がる。

 大丈夫、海も空も全て繋がっているから、生きていればまたいつか。


 ──けれど、次に彼らに会うのがまさかあんな状況下でだなんて、その時のユエは想像さえしていなかった。



2019.10.12

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