君さえ


1


 ユエがハートの海賊団を訪れたあの日からひと月余り。進路を目的地へと進める一団は今日もまた、その航路の途中に辿り着いた島で、記録指針を貯めながら物資の補給と羽休めを行っていた。冬島に近いこの場所もその季節は冬を主としており、船を包む空気は冷たく、空は今にも雪を降らし始めそうな分厚い雲に覆われている。

 そんな国の静かな港、彼らの大切な家である潜水艦ポーラータングの甲板の上で、ひとりの男がそんな空を見上げながらひとつ息を吐いた。それは空気に冷やされ白く染まっては空へ空へと掻き消えていく。

「キャプテン、いくら着込んでるからってあんまりこんな寒空の下に突っ立ってたら風邪ひきますよ?」

 彼の背後から飛んできたのは、この船の船員であるペンギンの彼を案じる声。それに一瞥だけを返して、男、トラファルガー・ローは再び視線を空へと向ける。何故彼がここでこうしているのか。その答えは至極簡単。『なんとなく』、だ。
 それも理解しているのであろう、ペンギンがそれ以上彼に食い下がることはない。船長の自由さも気まぐれさもマイペースさも、もう知っているし、慣れている。

「……雪、降りそうっすね」

 だからペンギンも、ただなんとなく彼の隣に並んで空を見上げた。
 雪自体は嫌いではないが、明日の早朝、甲板に積もった雪をかき分ける作業のことを思うと少し気が重くなる。

「ああ……」

 ペンギンの言葉に小さな頷きを返したローの声が、空気の中に解けて消えるのとほぼ同時。ふわ、ふわ、と2人の視界を小さな白が染めた。空から降り注ぐそれは、世界をこのまま白で埋め尽くしてやろうとでも言うように次第にその量と大きさを増し、ゆるりゆるりと2人の体まで覆い隠していく。

「言ってたら降り始めましたね。さ、中に入ってくださいよキャプテン」

 きっと中では寒さに震える船員たちが温かい飲み物でも作って暖をとっていることだろう。寒空の下に立っていた我らが船長を早くそこへ引きずり込んで、冷え切った体を温めてもらわなければ。

 そう言って、ペンギンが空から隣に立つローへと視線を移した、その時。

 真っ白な雪の中に混じったひとつの黒が、ペンギンの視界を色づけた。その世界の向こうで、珍しくも驚きに目を見開いて空を見上げる船長の姿。

 反射的に、ペンギンは再びその瞳を空へと向けた。

 また、黒が視界を埋める。はらはらと舞い落ちるそれに、ペンギンは見覚えがあった。
 分厚い雲に覆われた空を背景に、白い世界の中に、その黒を纏って佇むその姿にも。

 落ちてくる。雪が。黒い羽根が。───その、小さな身体が。


「ユエ……!」


 ペンギンがその人の名前を口ずさんだ時にはもう既に、その身体は目と鼻の先にまで迫っていた。慌てて手を伸ばすが、ペンギンの手は届かない。代わりとばかりに、隣の人影が動いた。

 どさ、と乾いた音が冷えた空気を震わせる。
 ローの腕の中に収まったのは、確かに彼らのよく知るユエの姿。
 けれどその様子はいつもとは全く違っていた。

 ぐったりとローの身体に全体重を預けるその顔色はまるでこの雪のように白く、紫に染まった唇から零れる息は細く掠れ頼りない。
 舞い落ちてきた羽根は甲板の床に触れた瞬間掻き消え、今彼女の背中に残るのはたった数枚。それに反比例するように、その身体には数えきれないほどの傷が刻まれ、その中でも腹部に作られた大きな傷は彼女の命を容赦なく削っている。応急処置で最低限の止血は行われているようだが、それさえ意にも介さぬと赤い色が世界を濡らす。それはこの白い世界ではあまりにも鮮やか過ぎた。
 きっとその肌の温度は酷く低いことだろう。その証拠に、ローは腹部の傷を脱いだ上着で強く押さえつけながら、切迫した表情で彼女に声を投げている。

「ユエ! おい、ユエ!?」
「……、」

 ペンギンもそれに倣って声をあげた。すると固く閉ざされていた彼女の瞼がふるりと震え、睫毛を揺らしながらその奥に隠していた深い色の瞳を露わにする。ゆらゆらと焦点の合わない瞳はそれでもゆっくりと2人の姿を捉え、そして彼女はゆるりと力なく、それでも酷く安堵したように微笑んだ。

「あは、……すみま、せん、突然こんな、」
「何があった」

 自分の状況も顧みず、彼女がまず吐いたのはこちらに対する謝罪の言葉。2人が望んでいたのはそんな言葉ではない。だからそれを遮るようにローが問いかけた。紡がれたその声はユエを刺激しないようにと酷く静かな音色をしていたが、それでもその奥に滲む感情があった。

「ちょっと、ヘマしちゃって……っ」
「撃たれたのか」
「たぶん、毒も一緒……ですね」

 その言葉にローから漏れたのは短い舌打ちの音。もう喋ることも億劫なのだろう彼女に「詳しい話は後で聞く」と言って、ローは彼女の身体を抱き上げた。小柄なユエの身体はすっぽりとその腕に収まる。
 長い彼の足は、迷うことなく船内の医務室へと向かって行く。足早に、それでもユエの傷を刺激しないように細心の注意をはらいながら。

「……すみません、」

 お世話になります。小さくそう呟いて、ユエはふっと意識を飛ばした。それと同時に、彼女の背中に辛うじて残っていた最後の羽根がふわりと空に掻き消えた。
 それを見届けながら、ローは足を止めることなく船内を進む。その後ろにはペンギンが。ただならぬ彼らの様子に異変を感じ取ったのだろう、船内の至る所から船員たちが顔を出し、ローの腕の中にいるユエの姿を認めては驚きの声をあげた。
 慌てふためく彼らに、ローの冷静な声が響く。

「今から治療する。ペンギン、シャチ、ベポ、手伝え」

 彼の声に、一瞬にして船内に統率が蘇った。名前を呼ばれた3人は、短い返事だけをして彼の背中に続く。それ以外の船員たちも、それぞれ心配そうな視線をちらつかせながらも、船長の治療があれば大丈夫だとそれぞれの持ち場へ戻っていった。


2019.10.15

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