君さえ


出会いましょう


 ──ぱちん、と何かが弾けるように私の意識がふっと浮上した。それと同時に瞼が持ち上がって視界が開けたから、それまでの私はきっと目を瞑って眠っていたのだろう。ふわふわとした思考の中で、私は視線を周囲にめぐらせる。私は一体誰で、そして一体ここはどこだろう。そんな疑問の答えを探そうとしたのだ。

 ひとまず分かったのは、自分が今、木々に囲まれた森のような場所にいること。その地面に寝転がっていたこと。立ち上がってみると、自分の視線が何だか随分低いこと。どうして低いと感じたのか、その理由はいまいち良く分からない。
 そして何より、自分の体。特に、視界に映る手足に、私はどうしようもないほどの違和感を覚えた。
 私の視線の先には、地面をしっかりと踏みしめている両手の姿。いや、これは両手と言っていいのだろうか。ふわふわとした短めの黒い毛に覆われたそれは、何故か私の自意識と衝突し合うのだ。それは一体何故だろう。地面にぺたんと座り込んで、私は右手を持ち上げてみる。それを自分の目の前まで持ってきて眺めれば、そこには黒い毛と、その隙間から除くピンク色。大きいのがひとつと、そのうえに小さいのがいくつか。
 これは一体なんだっただろうか。
 知っている気がして、私は思考を巡らせる。

 ──ああ、そうだ。


「……にゃあ」


 肉球だ。
 声を出したその瞬間に自分の鼓膜を震わせた音。その瞬間に私は気づいた。思い出した。
 自分が『猫』であることを。

 それが分かればあとは早かった。
 まだ子猫であった自分は、数日前に母猫や兄弟達とはぐれてしまって、たった1匹この森を彷徨い歩いていたのだ。そして、食べ物を探している途中に疲れてしまってここで眠ってしまったと。なるほどなるほど。

 何となく自分は人間だったような気もするのだけれど、まあそれは深く考えても仕方の無いことだろう。この楽観さは元からなのか、それとも猫特有のものなのか。
 実際人間だったような気がするだけで人間だった頃の記憶なんて何ひとつ無いのだから、どうしようもない。

 さて、状況も理解出来たことだし、今度こそご飯を探しに行こう。思い出した空腹感を携えて、私は森の中を歩き出した。

 子猫の小さな体で森を歩くのは骨が折れたけれど、探検をしているようで少し楽しかった。
 時々見つけた木の実を齧ったり、川の水で喉を潤したりしながら、私は歩く。
 そして、ある場所にたどり着いた。

 森の奥の奥深く、そこにそれはあった。高い柵に覆われた、とても大きな洋館。きれいに手入れされており、今も人がそこに住んでいることが傍目でも分かる。だと言うのに、それはどこか怪しげな雰囲気を孕んでいて、見つめているだけでぴりぴりと肌が痺れるような感覚に襲われた。きっとここは、あまり良い場所ではないのだろう。けれど今の私にとって、それは好奇心の対象にしかならなかった。好奇心は猫をも殺すとは言うけれど、猫だって好奇心には勝てないのだ。
 柵がいくら高く伸びていたって、小さな私の体はその隙間をすり抜けて中に入ることが出来る。
 無事にその洋館の敷地内に足を踏み入れた私は、早速探検だと地面のにおいを時々嗅いだりしながら進んで行った。
 乾いた地面、落ち葉の広がる木陰、青々とした芝生。色々な所を小さな4本の足で踏みしめて、私はとある低木の隙間に体を潜り込ませた。この先には何があるのだろうか。暗い視界と狭い道にも怯えず、私は少し先に見える光に向かって這うように進む。
 そして、ようやく木陰から光の下に戻れたと思った、その時。


「──おや、こんなところに猫が忍び込むなんて」


 誰かの影が、私を覆った。慌てて上を見あげれば、そこには人の形をしたひとがいた。そのひとが人間でないと瞬時に悟れたのは、野生の本能というものだろうか。
 輝くような白銀の髪に、白い肌、空を宿した瞳、すらりと伸びた背丈、高貴な衣服、そして優雅なその立ち振る舞い。

 ──とても、きれいなひとだと思った。

 もしも私が人だったなら、その瞬間、彼に一目惚れをしてしまっていたことだろう。猫である今でさえ、こんなにも彼に目を奪われてしまうのだから。
 そのひとがただの人間ではない不可思議な存在であると気づきながらも、私は無意識のうちに彼へと向かっていく自分の足を止められなかった。にゃあ、と甘えるような声を上げながら彼の足元に擦り寄ってみれば、頭上からくすくすと笑う声が聞こえる。笑い方まで優雅なひとだ。

「私のような存在にこんなにも無防備に寄ってくる猫がいるなんてね。よしよし、お前はどこからここに来たのかな?」

 すっとその場にしゃがみこんだ彼は、優しく私にその手を伸ばして、長く美しい指で頭や顎の下を緩く撫でてくれる。それがとても気持ちよくて、私は堪らず喉をゴロゴロと鳴らしてしまった。

「多分、この様子だと野良猫かな。体も随分と小さいし、生まれてからそんなに経ってないみたいだ。親猫や兄弟とはぐれたのかい?」

 彼の問いかけににゃあと鳴いてみせれば、「なあに、お前は人の言葉が分かるの?」と彼は笑ってくれた。分かるんですよ、実はね。

「この辺りには森しかないし、小さなお前が生きていくのは大変そうだねえ」

 まあ確かに。食べ物は探せば見つかるけれど、他の動物に襲われたりしてしまえばひとたまりもないだろう。

「……私の所で一緒に暮らす?」

 私の頭を優しく撫でながら、彼はぽつりとそんな問いを転がした。何故か躊躇するみたいに。私はただの野良猫なのだから、何も言わずに連れて行ってくれていいというのに。私が同意の鳴き声をにゃあと紡げば、彼はほんの少し安堵するような表情を浮かべて、直ぐに優しく笑ってくれた。

「ふふ、それじゃあお前は今日から私の猫だ」

 自分のことや、彼のこと、この場所のこと。よく分からないことばかりだけれど、一目惚れしたひとが自分のご主人様になってくれるだなんて、私の猫生はとても恵まれている。彼の腕に抱かれて、恐らく彼の家へと向かう間ずっと、私は世界で1番幸せな猫だった。そして、それはきっとこれから先も変わらない。そんな確信があった。理由なんて、私には分からないけれど。


2019.08.07

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