君さえ


与えられましょう


「とりあえず、何より先にお風呂だね」

 彼の住まいらしい洋館の一室に辿り着いてから、彼は真っ先に私を浴室へと運んだ。まあ確かに、私は今の今まで野山を駆け回っていたうえにお風呂なんてない世界を生きていたので、彼の判断は至極正しい。浴室で湯の張られた桶に浸けられ、彼にわしわしとシャンプーされる間、私はとても大人しくされるがままになっていた。そんな私に「お湯をかけても逃げないって、お前本当によくそれで今まで野良猫をやってこられたね」と彼は呆れたような声をあげたのはまた別の話だ。こんなに無防備なのはあなたの前でだけですよ。その言葉は彼には届かない。


「……うん、きれいになったね」

 タオルで丁寧に水気を拭われた私を抱き上げて、彼は満足そうに笑う。自分でも分かるぐらいにシャンプーのいい匂いに包まれ毛並みがふわふわとした私に、彼もご満悦のようだ。あまり気にしてはいなかったけれど、やはり野良生活の結果私の体にはたくさんの汚れが着いていたらしい。そんな体で擦り寄ってしまって、彼には申し訳ないことをしてしまった。
 謝罪の代わりに彼に頭を擦り寄せれば、くすぐったいよと笑いながら言われてしまった。嫌がられてはいないようだ。

「さっきは分からなかったけど、こうしてみるとお前はなかなかの美猫だね。血統書付きといい勝負が出来るんじゃないか?」

 それは多分贔屓目があると思いますけど。まあでも、大好きな飼い主様に褒められて悪い気はしない。嬉しくさににゃあと鳴けば、「おや、自覚があったのかい?」と彼は言う。ちょっと違うけどまあいいや。彼が笑ってくれているから。

「体は全体的に黒で、足の先だけがちょっとだけ白いね。種類は……雑種かな?」

 私の右前足を指でつまんで、彼はふにふにと肉球を揉む。どうやら彼はその感触がお気に入りらしい。彼に喜んで貰えるなら私も本望だ。いくらでもふにふにしてくれ。相変わらずされるがままの私に、彼はふと思い立ったように声を上げた。

「ああ、そうだ。君の名前も決めてあげないとね。どんな名前にしようか」

 椅子に腰掛けて私を膝に乗せた彼は、その手で私を撫でながら、あれでもない、これでもないと様々に私の名前を考えてくれる。彼が私のために頭を捻ってくれているのが申し訳ない以上に嬉しくて、私は思わず必要以上に喉を鳴らしてしまう。

「君は女の子だから、きれいな響きの名前がいいね。……そうだ、これはどうだろう」

 どうやら彼は何かいい名前を閃いたらしい。彼につけてもらえるのなら、たとえどんな名前だって私は嬉しい。彼が私に与えてくれるものを嫌がるだなんてそんなこと、できるわけが無いし、したいとも思わない。


「ティナ」


 ──その音を聞いた瞬間、私の中で、何かがあるべき場所にすとんと収まったような、そんな感覚が響いた。

 ティナ、ティナ。

 心の中で、私は何度もその音を繰り返す。
 彼が私に与えてくれた名前を、確かめるように。

「にゃあ!」

 嬉しさのあまりひときわ大きな声で鳴いてから彼に擦り寄れば、私の感情が彼にも伝わってくれたらしい。

「気に入ってくれたみたいだね。そんなに喜んで貰えるとは思っていなかったから、私も嬉しいよ」

 擦り寄る私の背中や頭を撫でる手は、やっぱり正しい人間のそれに比べると随分冷たくて、そしてどこか作り物めいていた。けれど、私にとってその手のひらはこの世界の何よりも温かい。ずっと、ずっとこのひとのそばに居たいと願うほどに。

「……そうだ、ついでにこれもあげよう」

 ふと思い立ったように、彼は私を膝から下ろして鏡台の棚へと向かって行った。大人しくそれを見守っていると、そこから何かを取り出した彼が、それを手に再び私の元へと戻ってくる。
 ひょいと私を抱き上げて、彼はまた私を膝に乗せて椅子に腰掛ける。彼の膝の上はどうしてこんなにも居心地がいいのだろうか。私が彼のことを大好きだからなのかもしれない。

「少しじっとしているんだよ」

 彼の言葉に従って、私はその場で動きを止め、彼の次の言葉を待った。しかし、私に降ってきたのは声ではなく彼の優しい指先と、首もとに柔らかい感覚。

「……うん、いいね。ティナの黒い毛並みに、黄色はよく映える」

 視界に全ては映らないが、それでも確かに私の世界を色付けたそれは、彼の髪を飾るそれと同じ色。

「私の予備のリボンだけれど、どうかな?」

 私を抱き上げて、彼はステップを踏むような軽い足取りで鏡像の前へと向かった。そして、私が鏡越しに自分の姿を見ることができるようにと、彼は少し私の体を持ち上げてくれる。

 磨きあげられた鏡に映ったのは、予想通り、彼とおそろいのリボンを首に飾られた自分の姿。確かに、彼の言う通り黒い私の毛並みに鮮やかな黄色はよく映えていた。

 また彼に与えられた。大切な宝物が増えた。それがどうしようもないほどに嬉しくて、嬉しくて、幸せで、


「ふふ、そう。うんうん、とても似合っているよ、ティナ」


 ──このひとのそばに居ると決意した。


「それじゃあ、改めてこれからよろしくね。ティナ」


 たとえこの先の未来に何があろうと、この命が尽きるその日まで。


2019.08.07

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