君さえ


Don't let me say goodbye. (残り60日)


60
※女監督生夢主/捏造過多ご都合主義


 彼女の生まれ育った世界では、6日に咲いた菖蒲と10日に咲いた菊は役に立たないものとして扱われてしまうらしい。何でも、それではその花々が用いられる5月5日と9月9日の行事に間に合わないが故に、そんな言葉が作り出されてしまったのだとか。

 たった1日間に合わなかっただけで役立たず扱いなんて、酷い話ですよね。

 その話をジェイドに語った時の、どこか悲しげな彼女の笑みが脳裏に蘇った。

 折角こうしてきれいな花を咲かせているのに。

 全くだ。花の価値をひとの物差しに合わせて勝手に測るだなんてあまりにも傲慢すぎることだと、ジェイドも彼女に同調して深く頷いた。そんなあの日ことを、今もなおジェイドは確かに覚えていた。

 ──だからこそ今、この瞬間、その記憶がまるで降り注ぐ雨粒のようにジェイドの脳内へとこぼれ落ちてきたのだ。

 からん、とガラス瓶が床に転がる音が響く。
 その残響にさえ掻き消されてしまいそうな程に小さく掠れた誰かの声が、ジェイドの探し求める彼女の名前を紡いでいた。
 それが自らの発したものであるということを理解する余裕もなく、ジェイドはもぬけの殻になったベッドへと我も忘れて駆け寄った。部屋の奥に佇むそれは、他でもないあの人がいるはずの場所。つい数時間前までは、確かにあの人がいたはずの場所。
 その証拠に白いシーツには皺が寄って、つい数瞬前までは確かに誰かがそこにいたのだと言いたげな様子を見せていた。だからこそ、さらにジェイドの心臓は強くけたたましく泣き喚いたのだ。まるで、ジェイドがこの部屋に足を踏み入れる直前まで、あの人は『ここ』にいたのだという現実を突きつけられているかのようだったから。

 まるで、魔法薬を手にしたジェイドが胸を弾ませながらこの部屋の扉を開くその直前に、ここにいたはずのあの人が、儚い泡沫に溶けてしまったのだという事実を目の当たりにさせられているかのようだったから。

 呼吸が喉に蟠る。吸って、吐いて、そしてまた吸ってを繰り返さなければ成り立たない肺呼吸を、酷く苦々しい酸素が邪魔してくる。いや、違う。呼吸をしたくないと嘆いているのは、他でもない自分自身だった。

 ジェイドの愛するあの人を襲ったのは、言ってしまえば奇病や難病と呼ばれる類のそれだった。あまりにも突然、あまりにも無慈悲に彼女の命を蝕んでいったその病を、陸の人間は『人魚姫病』と呼んでいるらしい。その病の名と有様を知ったジェイドは、あまりの皮肉さに乾いた笑い声をこぼすことしか出来なかった。

 ジェイドという人魚が愛した彼女というたったひとりに、まさかそんな病が牙を剥くなんて、と。

 初期症状は焼けるような両足の痛み。その痛みに耐えかねて歩くことを止めれば、次は痛みごと両足から感覚が失われていく。下半身が不随となり、最早自力で歩くことなどままならなくなった頃、そんな身体をあざ笑うかのように『それ』が姿を現す。
 爪先からゆっくりと、ゆっくりと、両足の肌という肌を覆い隠していく魚の鱗のような痣。それが足の全てを覆い隠してしまえば、そこで終わり。
 発病者の末路は酷くシンプルだ。陸に打ち上げられた人魚のような姿のまま、泡となって消えてしまう。
 その症状と最期に、かの有名な『人魚姫』が連想されてしまうというのも確かに頷ける。けれど、この病の一番に残酷な部分は、その発症や完治に『恋』だの『愛』だのという感情論が一切関与していないことだ。
 つまり、王子様からの真実の愛のキスでこの病が治ることはない。その特効性が解明されている唯一の魔法薬を処方する以外に、発症者の命を救う術はない。
 きっと、特効薬が存在しているだけでも幸いだったと言うべきなのだろう。そのたったひとつの手段さえもが無い世界では、ジェイドは彼女の病床に立ち尽くし、そしてその死をただ見守ることしかできなかっただろうから。
 ジェイドはその魔法薬を作り上げようと必死になった。彼女を知り慕う全ての人々からの協力を得ながら、貴重な素材と複雑な調合を必要とするそれを。

 ──けれど、たったひとつだけがどうしても手に入らなかった。

 100年に一度咲く花に宿った朝露。その魔法薬を作るうえで欠かすことの出来ない重要な素材。その輝きが保たれる24時間以内に魔法薬を調合すること。それが、彼女の命を長らえさせる無二の方法だった。
 100年。3万6千5百と20数日。その中のたった1日を、彼女が泡となってしまうその前に迎えなければいけない。それは言葉にすれば酷く簡単なことに聞こえるけれど、もちろんそんなはずもなく。いつまで経っても咲く様子を見せないその花の姿と、1枚、また1枚と彼女の足を覆い隠していく忌々しい鱗の痣。衰弱していく彼女のあまりにも儚い笑み。その全てに、ジェイドは何度も何度も世界を呪った。あまりにも無力な自らを憎んだ。彼女を襲ったその非運を嘆いた。
 明日こそは、明日こそは。抱く希望もその端から丁寧に手折られていき、残されるのは彼女の死を迎えるために淡々と進みゆく時計の針ばかり。

 鱗が膝に及んだ。花はまだ咲かない。

 なんだかそういう柄のタイツでも履いているみたいですね、なんて彼女は明るく笑ってみせた。
 花はまだ咲かない。

 眠りに落ちるその瞬間、彼女が酷く恐ろしそうな表情をその瞳に滲ませるようになった。
 花は、まだ咲かない。

 もとより体温の低かったジェイドのそれ以上に、彼女の指先が冷たくなってしまった。
 花は、まだ、咲かない。

 彼女の足の付け根にまで鱗の痣が。
 花は、まだ。

 ──ああ、咲いた!
 花が咲いた。ようやく。ようやく!

 まだ若い朝陽に輝くその朝露を、ジェイドは丁寧に、丁寧に掬い上げた。
 彼女の命を救ってくれるそのたった1滴を、決してこぼさぬように。喪ってしまわぬように。

 そしてようやく、魔法薬が完成した。
 彼女が人魚姫病を発症してから、丁度100日目のことだった。

 魔法薬を詰めた小瓶を抱きしめて、ジェイドは走った。彼女のいるあの部屋へ向けて、ただただ一心に。
 再び彼女と手を繋いで陸を歩くことが出来る明日を夢見て。お日様のような彼女の明るい笑顔を脳裏に思い描いて。
 彼女の命を早くこの世界に繋ぎ止めなければと。

 走って、走って、走って。
 走って、来たのだ。

 息を切らしながら、柄にもなく必死に。

 世界から音が消えた。色彩すらも喪われてしまった。
 いなかった。いなくなっていた。
 彼女が。
 ジェイドの指先の届く場所から。泡のように。

 花が咲いた。彼女の命を救うためのたった1滴を、祝福を、朝陽の中に淡くこぼした。けれど、結局それも6日の菖蒲にしかならなかった。9日に咲いた菊でしかなかった。あの日嘲笑ったことわざが、どろどろと濁流のように溢れ出していく。
 ああ、本当だ。意味などない。役に立たない。たった1日、されど1日。それで終い。あの人の命は、あの人の姿は、声は、温もりは、色彩は、この手のひらの中にはもう戻らない。
 シーツに指先を滑らせた。氷のように冷え切っていた彼女の温もりは、そこにはもう残されていなかった。
 全てを壊してしまいたい衝動と、喉が壊れるほどに叫びたくなるほどの激情と、どうしようもないほどの空虚感。全ての感情が頭の中で複雑に絡まり合って、結局どんな言葉もどんな行動も、表に出てきてはくれなかった。
 ぼんやりとした意識の中で、ジェイドはゆっくりと視線を揺らした。その網膜が捉えるのは、出入り口付近の床に転がっている小さなガラス瓶の姿。あの人がいなくなってしまった今となってはもう、何の意味もないガラクタ。
 緩慢な動きでそれに歩み寄って、拾い上げた。小さくて軽いそれは、すっぽりといとも容易くジェイドの手のひらの中に収まりきってしまう。
 その事実を握りしめて、ジェイドはわらった。

 彼女の命がこんなにも軽く小さいもので救えるものか。彼女の命が、ジェイドの手のひらの中に収まるようなものであるものか。

 100年に一度咲く程度の希少さしかない花の朝露1滴程度で、あの優しい温もりが取り戻せるものか。

 だって、あの人は、

「……折角、貴方のためにと、あれほどの苦労を背負ってまで調合して差し上げたと言うのに、それを受け取りもせず勝手に消えてしまうなんて、少々酷すぎはしませんか?」

 こんなものであの命が救えてしまう世界に、それでもなお救うことが出来なかった事実に、ジェイドの瞳から透明な雫があふれてこぼれ落ちた。ああ、本当に、嫌になる。それを拭うことも出来ず、床にしゃがみこんだジェイドは、ただただその小瓶を握りしめた。

「僕をこんなにもこき使って、挙句の果てには惨めったらしく泣き喚かせるだなんて、そんなことをする人は、後にも先にも貴方だけですよ」

 ほろほろと、止まることも知らずに雫が世界を濡らしていく。このままこの涙が海になって、世界の全てを自分ごとその水底に沈めてしまってくれたならば、どれほどよかっただろう。
 彼女のいない世界で生きていくぐらいなら、彼女と過ごした日々の記憶を抱きしめたまま共に消えてしまいたかった。人魚らしく自分も、彼女と共に泡と溶けてしまいたかった。
 人魚の僕が残されて、人間の貴方が泡になってしまうだなんて、主客転倒にも程があるでしょう。

「この対価をまだ頂いていないというのに。どうしてくれるというのですか」

 僕、タダ働きなんて性に合わないんですよ。
 貴方もよくご存じでしょう? なんて、いくら言葉を紡いだところでそれに対する答えは帰って来ない。
 その部屋の中には、悲しいぐらいにジェイドたったひとりだけしか存在していなかったのだから。
 存在していないはず、だったのだから。

「……ィド、せんぱい……?」

 声が聞こえた。遠く、小さく、微かに。
 けれど、ジェイドがその声を聞き間違えるはずがない。聞き逃してしまうはずもない。
 だって、それは。その声は、他でもない。

「……先輩、……どうして、泣いてるんですか?」

 まだ昼には遠く、けれども朝陽と呼ぶには些か輪郭のはっきりとした陽光の差し込む窓辺に、彼女は佇んでいた。もうひとかけらだって動かせはしないだろう両足を横たえて、白いレースのカーテンの向こうに瞼を擦っていた。
 ジェイドの瞳が丸く瞬く。心臓を壊すほどの驚きと、その光景のあまりの美しさに、言葉どころか呼吸さえ忘れてしまった。
 床に情けなくしゃがみ込んだまま、ジェイドは彼女の名前を口ずさむ。ほとんど無意識的に、小さく掠れた声で。けれど、それでも彼女はしっかりとそれを受け止めて、そうして答えを返してくれるのだ。


 はい。どうしました?

 ……貴方、どうしてそんなところに?

 なんだか今日は調子が良くて。お日様も温かそうだったので、がんばってここまで這いずってみたんです。

 這いずって。

 やっぱりお日様っていいですね。さっきまでずっと寝てたのに、また眠気が来ちゃって。今の今まですっかり寝こけちゃってました。

 ……そう、ですか。

 はい。それはそうと、一体何があったんですか?


 何が、あったのだろう。清涼飲料水からしゅわしゅわと炭酸が抜けていくように、ジェイドの身体からも、ありとあらゆる感情の塊が綻び消えていく。

 ──貴方が消えてしまったのかと思って、僕は。

 その代わりに湧き上がって来るのは、羞恥と、情けなさと、ほんの少しの苛立ちと、それら全てを覆い隠して打ち消すほどの安堵感。ようやく呼吸の正しい方法を思い出すことが出来た身体に酸素が満ちる。
 息を吸って、吐いて。瞳からまたひとつこぼれ落ちた涙を拭って、その手に小瓶を握りしめて。まだこの世界に在る彼女を真っ直ぐに見据えて、ジェイドは勢いよく立ち上がった。そして歩く。歩み寄る。彼女へ。
 その両腕で、何よりも愛おしい彼女の輪郭と温度を抱きしめるために。
 その最愛を、人魚姫になどしてやるものかと。

「──花が、咲きましたよ」

 呑気な貴方。僕の心をこんなにもかき乱しておいて、自分は麗らかな朝寝に浸っていた貴方。
 いやまあ、僕の勘違いのせいでもありますけれど、それにしたって酷すぎる。
 ……ねえ、僕、頑張りましたよ。
 だから、ちゃんと対価を下さいね。タダ働きなんて死んでも御免ですから。
 そうですね。何が良いでしょう。僕に心臓が止まる程の心配をさせた分も、しっかりと支払って頂かなくてはいけませんし。

 ──貴方のこれからの人生全てぐらいは貰ってもいいんじゃないかと、僕は思いますけれど。

 まあ、貴方も沢山沢山頑張ったことですし。その話はまた後にしましょうか。……ええ、本当に、よく頑張りましたね。

 ジェイド先輩。彼女の声が呼ぶ。
 だからジェイドも、何度だって彼女の名前を呼んだ。拍動を刻む心臓のように、何度も、何度も、何度も。胸に溢れる全ての感情を声に詰め込んで。
 彼女へのありったけの愛を乗せて。


 生きていてくださって、ありがとうございます。


 窓の向こうに広がる空からあふれる陽光と、真白に輝くレースのカーテン。
 静かに息づくひとりの人魚とひとりの人間。
 空になった小さなガラス瓶が、そんな世界の中で酷く眩しく輝いていた。


2020/9/6

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