君さえ


天文学的恋愛譚(2020/11/5)


Happy Birthday Jade Leech & Floyd Leech!!
生まれてきてくれてありがとう、君たちの命に最大の感謝と祝福を

※女監督生夢主(誕生日固定)/ありとあらゆる捏造とご都合主義/双子の過去捏造/各種ストーリーのネタバレ要素有



「──ジェイド先輩とフロイド先輩のお誕生日って、11月5日なんですね」

 ツイステッドワンダーランドにおける名門魔法士養成学校・ナイトレイブンカレッジでは、学年を越えての選択授業が1週間にふたコマだけ行われる。1年生から3年生までが同じ教室内で同時に授業を受けるその時間は、普段の授業とは一風異なった雰囲気を纏っており、生徒たちにも程よい刺激を与えるものとなっていた。
 そのうちのひとコマが設けられているのは、金曜日の3限目。昼食を終え、1週間の疲れも滲み始め、魔法史を始めとする座学が行われようものなら、たちまちに生徒の半数以上が夢の世界へ旅立ってしまうだろう時間帯だ。そこへ敢えてこの選択授業を割り振ったというのは、生徒たちの居眠りを少しでも抑制するには効果的な采配だったのかもしれない。それでも寝る奴は寝ているけれど。
 そんな選択授業に名を連ねた数ある科目の中から、「何となく一番とっつきやすそうだから」という何とも適当な理由で選んだ「占星術」の授業の中。監督生は目の前に座った浅瀬色の麗人から聞き出したその情報に、冒頭の頷きを落とした。
 2人1組のペアを作って、お互いの誕生日と出身地からペア相手のホロスコープを作成し、それをもとに相手のこれから1週間の運勢を占い、その結果をレポートとして提出する。それが、この授業における期末試験の代わりとして彼ら生徒諸君に言い渡された最終課題だった。
 学年末を目前に控えた6月の15日。夏の暑さがピークを迎えようとくすぐり始めた頃。
 7月の中頃に待ち受ける学年末試験に被せないようにという配慮でこの最終課題を早めに提示し、さらには提出期限にも余裕を作ってくれたうえに、今日の残りの授業時間はレポート作成に当ててもいいと言った占星術の教師には、十数分前に受講生徒たちから感謝の言葉と拍手喝采が飛ばされた。もちろん監督生も手を打った。これで、占星術に割り当てる予定だった時間を他の教科の勉強に回すことが出来るのだから。世界の違いによる周囲からの遅れがあまりにも大きすぎる監督生にとって、それは天の救いとも呼べるほどの恩情だった。
 課題についての説明とペア組が滞りなく終わった教室の中には、それぞれに課題へ取り組む生徒たちの声が静かなさざめきを生み出している。それをバックグラウントに聞きながら、机の上にだらりと座り込んで今にも眠りについてしまいそうなグリムをペンの頭で軽く突き、監督生は手元にあるルーズリーフの天辺に彼の名前と誕生日の日付を書きつけた。

 ジェイド・リーチ、11月5日。珊瑚の海出身。

 名の文字列の美しさに、それを自らの悪筆で表してしまうことへの罪悪感が仄かに募った。けれど、そんなことにいちいち拘っていては終わるものも終わりはしない。
 そう結論付けた監督生はぴたりとペンを止め、手元から持ち上げた視線をゆるりと目の前の彼へ向けた。そうした方が占いの精度がよくなるから云々の理由でカーテンの閉め切られた薄暗い部屋の中、ぷかぷかと魔法で空中に浮かべられたランタンの仄かな灯りに、鮮やかなターコイズブルーがオレンジ色の輪郭を孕んで静かに佇んでいる。
 一分の隙もない、たおやかな微笑み。小さく傾げられた首に、さらりとその髪先が柔く揺れた。その一部始終に網膜を焼かれながら、監督生はただただ彼の唇から紡がれる声を聴き続けるのみ。ゆるりと形の良い唇に、どこか海のさざめきを連想させる声。

「ええ。11月5日生まれのさそり座です。ウツボですが」
「それを言ったら私もさそり座ですよ、人間ですが」

 鋭く切り返した監督生の言葉に、ジェイドの瞳がおや、とひとつ瞬きを落とした。夕暮れの終わりに瞬く一番星の錯覚をそこに覚える監督生をよそに、ジェイドはその微かな驚きのまま、さらに言葉を繋げていく。

「おや、そうだったのですね。監督生さんのお誕生日は?」
「11月1日です。ぞろ目で覚えやすいでしょう」

 黒い革手袋に覆い隠された指先がマジカルペンを握り、そのペン先をルーズリーフの上に走らせ始めた。視線は真っすぐにこちらへ向けたままだというのに、その動きにはひとかけらの迷いも見当たりはしない。
 さらり、さらりと、1枚の紙の上に彼の紡ぐ文字が並んでいく。名前と、誕生日と、異世界出身である私の仮の出身地として定義された、「賢者の島」の3つの情報。几帳面に整ったその筆跡は、監督生のそれと比べるまでもなく美しい。どうして手元も見ずにそんなにもきれいな文字が書けるのだろうか。本当にどこまでも隙のないひとだ。そんなことを心の中に独り言ち、監督生は小さく眉を下げた。

 11月。今から4か月半後へ思いを馳せて、ふと、ひとつの気づき。11月1日に16歳から17歳になる監督生と、11月5日までは17歳の彼。

「……ということは、あれですね。次の私の誕生日が来たら、ジェイド先輩の誕生日までの4日間は私たち同い年になるんですね」

 学年は違いますけど。と最後に転がすけれど、「同い年」という響きへの胸のときめきはその程度では収まらない。計画的愉快犯としての一面を持ちながらも、やはり実年齢にしては酷く大人びているように見える彼と自分が、同い年。
 何度頭の中に繰り返してみてもなかなか実感の得られないその事実に、一周回って笑いが込み上げてくる。

「あのジェイド先輩にフロイド先輩と同い年なんて、なんだか変な感じですね」
「ふふ、いいじゃないですか、同い年。素敵な響きで僕は好きですよ。──……ただ、そうですね、」

 きらり。ひとつの瞬きの先で彼の瞳が鋭く輝いた。同時にゆるりと深い弧を描いた唇と、微かに細められた目元。監督生は直感的に理解する。これはきっと、経験則的にろくなことを考えてはいない表情だな、と。
 その予感の正しさを監督生が理解するのは、それから数拍も置かない未来でのこと。悪どいとも称せるだろう彼の笑顔は刹那の間にその姿を変え、下げられた眉に悲壮感を漂わせ始めた。
 お涙頂戴、と言わんばかりのその表情に、それが演技であると察しながらも監督生は思わず口を噤んでしまう。どうにも顔が良すぎるのだ。この男は。


「僕の本当の誕生日は、実は11月5日ではないので……貴方と僕は本当の同い年にはなれないのですよ、残念ながら」


 彼の紡いだ言葉の意味を理解するまでに、数秒の時間を要した。本当の誕生日が、違う? ──それが事実ならば、

「……なら、先輩、の、本当の誕生日は?」

 突然、乾燥した熱い砂漠にでも突き落とされてしまったかのようだ。ひりりと乾いた喉に、声が微かに引き攣った。
 嘘、だと思った。嘘だろうと思った。何故なら、彼が笑っていたから。それなのに、どうしてか心臓がじくりと疼くものだから。監督生は、困惑に立ち止ろうとする自らの思考回路へ必死に鞭を叩きつけた。
 座ることも諦めて机に突っ伏し寝入ってしまっているグリムへ意識を向けるさえも、今の監督生には出来はしない。
 微笑みが浮かぶ。

「さあ、分かりません」

 わずかに肩をすくめて、随分と簡単に彼はそう答えた。あっけらかんとしたその様子は、彼の言葉の[D:22099]くささを助長する以外にないはずだというのに。どうしてか、だからこそ逆に真実味を深く帯びているようにも見えてしまって。
 喉が小さく鳴る。嘘ですよね? の一言も、今の監督生には紡ぎあげることが出来ないまま。

「……僕たち人魚は、貴方ももうご存知の通り、人間と違って卵から孵ります。小さな小さな稚魚として海の世界へ放り出された僕らは、刻み込まれた本能のままに海を泳ぎ、そして両親のいる安全な場所を目指す。自らの力で餌を採り、海流を読み、鮫を始めとする脅威を避け、必死に、ただ生きるために」

 まるで、御伽噺を諳んじるかのように。彼はぽつり、ぽつりと静かに言葉をこぼし続けていく。
 本当の誕生日がいつなのか分からない、という言葉は嘘だと思った。けれど、それは。その話だけは、どうしてか嘘だと思うことが出来なくて。それがどうしようもなく彼の過去であるのだと、理解出来てしまって。

「11月5日は、あくまで僕とフロイドが両親の下へ無事に辿り着いた日であって、僕とフロイド、そして他の兄弟たちが生まれた日ではないのです」

 海の世界は過酷なのだ、と、いつか彼が言っていたそんな言葉を、監督生は不意に思い出した。弱肉強食の世界と、そこに産み落とされる数万個の卵たち。そして今を生きているのは、たったふたりのウツボの人魚。彼らの兄弟たちがどうなってしまったのか、どうしてそんなことになってしまったのか、なんて、それだけの情報があれば想像に容易い。
 陸に生きる人間には想像も出来ない、あまりにも酷薄で非情な海の世界。そうか、彼はその世界に生まれ、その世界を生きてきたのか。それを理解した瞬間、目の前に佇む『彼』という存在が、まるで自分の全く知らない別の『誰か』であるように見えてしまって。ぞくり、と震えた背筋に、監督生は小さく息を[D:21534]む。
 目の前には、相変わらず静かな光を携えた彼の双眸が、真っ直ぐに真っ直ぐに監督生を見つめていた。表情こそ穏やかだけれど、その笑みこそ優しげだけれど、ゆるく弧を描いたたおやかな唇の向こうには鋭く尖った歯列が隠されている。それを、監督生は知っていた。『それ』を、監督生は理解してしまった。
 教室の中に満ちたさざめきが遠ざかっていくような錯覚。頭上を通り過ぎるランタンが温かな橙をこぼし、世界に影を落としていく。彼の髪先に、瞳に、輪郭に、仄かな光が反射して、きらきらと瞬いて。陶器の如く白い肌を濡らした橙は、まるでその皮膚の下に流れる血潮の色を表しているかのよう。

 生きているのだ。彼は今、自らの目の前に、確かに。過酷な世界の中を、まるで奇跡の如く、けれど確かに彼と片割れとの実力によって。生まれて、生きて、生き抜いて、そして生きている。

 思考を埋め尽くしたその事実に、心臓が奇妙な疼きを落とした。不快感、ではない。むしろ、それは。


「──……なんて、信じてくださいましたか?」


 ぱちん、と脳裏に風船が弾けるような感覚。それまでの微笑とは違う、にっこりと嫌に楽しげで愉快そうな笑みを浮かべた彼の言葉に、監督生はようやく呼吸の方法を思い出した。
 同時に胸を襲ったのは、「ああやっぱりか」という、呆れにも似た言いようのない感情。どこまでが嘘でどこまでが本当であったかに関わらず、彼は確実に、自らの重たい過去を聞かされた監督生がどんな反応をするのかを見て楽しんでいたのだ。
 薄々と察してはいながらも、結果的には彼の手のひらの上でいいように転がされてしまっていた自分自身に気付いて、釈然としない思いばかりが監督生の中に込み上げてくる。そのやるせなさのままに目付きを鋭くして彼を睨みつけてやるのだけれど、目の前の麗人と言えばくつくつと楽しげに笑うばかりで。

「ふふ、すみません。色々と言いはしましたが、僕の誕生日はちゃんと11月5日で間違いありませんよ。課題には何も影響しませんので、ご安心ください」
「……それはなによりです……いやもう、ほんと、そういうの反応に困るのでやめてくれませんか……?」
「おやおや。ちょっとしたジョークのつもりだったのですが……」
「海ではどうか知りませんが、陸では確実に笑いは生まれないので止めた方がいいと思います」

 監督生からの切実な指摘に対してこぼされた「それは困りましたね」というひと言に、本当に困ったと言いたげな様子などひとかけらも含まれてはいない。それこそが彼というひとの在り方だということを監督生はもう既に痛いほど理解しているので、必要以上に食い下がることはせず、むしろ適当にあしらってしまうことにした。
 これ以上彼の言葉を真面目に聞き続けていると、貴重な自習時間があっという間に無くなってしまいそうだ。時は金なり。この先に待つ学年末試験のことも考えると、この時間の間に占星術の課題を可能な限り進めておきたいのだ、こちらは。
 呆れ混じりの溜息をまたひとつこぼして、監督生は机の端に置いてあったホロスコープを記入するためのワークシートを引っ張り出す。机の隅で完全に寝落ちているグリムについては無視してやることにした。鍋の具材にでもされる夢を見て精々うなされればいいさ、とそんな呪いだけを微かに飛ばして。
 出生時間は不明の生徒が多いため、全員が一律で正午に。彼の出生地である珊瑚の海の緯度と経度は──と、監督生がそれぞれの国や地域についての情報が纏められた授業資料へと手を伸ばそうとした、その時。


「──怖くなりました? 僕のことが」


 ぱちり、と瞬きを落とす。そしてそのまま、視線を目の前に座っている彼の方へ。監督生と同じく手元にワークシートを用意しながら、彼は相変わらずたおやかに微笑みを浮かべていた。
 その皮膚の向こう側、監督生の目には見えない場所で彼が一体何を考え、何を思っているのかだなんて、もちろん監督生には分からない。その言葉に込められた意味も、そもそも、そんなものがあるのかさえも。
 薄く開いた唇で小さく呼吸を繰り返した。息を吸う、言葉を紡ごうとする。失敗する、息を吐く。数秒間の試行錯誤の末、監督生がようやく口に出来たのはなんともたどたどしい言の葉だった。

「……いえ、いいえ。…………むしろ、」
「むしろ?」

 むしろ、何だというのだろう。自らの言葉の意味も分からず、監督生は彼から手向けられた問いかけと同時に、自分でも内心に首を傾げた。
 彼の過去を、監督生は正しく知らない。けれど、先程の彼の言葉──彼自身が嘘だと言った、誕生日が分からないという点以外──が正しいとするのならば、彼はきっと、自分自身が海の世界を生き抜くために様々なことをしてきたのだろう。
 あまり人には言えないようなことさえも。……と、邪推することは容易い。監督生にとっての彼という存在は、それぐらいに底の知れない深淵であったから。
 確かに、彼をおそろしいひとだとは思う。
 それでも、彼を「怖い」とは思わない。紙一重にも等しいそのニュアンスの違いは、それでも監督生にとってあまりにも決定的なものだった。

 だから、「怖くない」は嘘ではない。 
 しかし、何故「怖くない」のかはどうしてか分からなくて。


「……なんでもないです」

 
 煮え切らない言葉だけを残して、監督生は再び視線を手元のワークシートへと落とす。ペンをぎゅうと握りしめれば、彼からのそれ以上の追究は飛ばされてこなかった。
 落ちた沈黙の中、紙上に描かれた大きな円の中に、これまでの授業で習ったことを思い出しながら彼のホロスコープを記入していく。

「……そういえば、ツイステッドワンダーランドでの成人年齢って18歳なんでしたっけ?」

 その空気に少々耐えがたくなってしまった監督生は、手を動かしながらも雑談とばかりにそんな話題を彼へ振った。目の前の彼は、4か月後にその18歳、つまりはこの世界での成人を迎えるひとであるため、話題としてそう可笑しなものではないだろうという考えの
もとに。

「ええ。国や地域、種族によっては特例も認められていますが、基本的には世界全体を統一して18歳とされていますね」
「世界で統一されてるってすごいですよね……私の世界では国ごとにそれぞれが決めていたので、なんか変な感じがします」
「監督生さんの住んでらっしゃった国では、何歳が成人年齢とされていたのですか?」
「20歳です。お酒やたばこは20歳から……なんですけど、ちょっと面白いことに、選挙権がもらえるのは18歳からだったり、結婚出来る年齢も女性が16歳で男性が18歳だったりするんですよね」

 全部まとめちゃえばいいのに、何で別々なんだろうってずっと思ってましたね。くすくすと笑いながら監督生がそうこぼせば、その言葉を拾い上げたジェイドもまた、その口元に小さく笑みを浮かべた。

「それはまた、随分と複雑な決まりですね」
「こっちは全部18歳から、ですか?」
「はい。僕も次の誕生日を迎えると全てが解禁になりますね。まあ、カレッジを卒業するまでは、酒類や煙草、結婚のあたりは相変わらず疎遠なままだと思いますが」
「あはは、なるほど」

 確かに、法律で許されているとはいえ在学中に酒やたばこや結婚や、というのは社会からもいい顔をされないだろう。成人済みという肩書にはやはり憧れるが、それを考えると、その魅力も半減してしまう。
 まあ、この世界の法律に沿えば、自分も来年の11月には成人する身。焦らずとも、時間さえ経てば成人することは叶うのだ。そう胸の内に頷きを落とした監督生は、ふと、手元のホロスコープから読み取った内容に小さく声を上げた。

「……あ。ジェイド先輩、何か行動を起こすならこの1週間がいいかもしれませんね」

 正直に言ってあまりホロスコープの読み取りに自信はないので、それが正しいのかどうかはよく分からないけれど。
 元の世界で朝のニュースの中によく見ていた星座占いを脳裏に思い浮かべながら、上手くいけばいいですねぇ、なんて言葉を転がす。彼が一体今何を望んでいるのかも、どんな行動を起こすのかも知らないまま、ただ呑気に。

「おや、それは嬉しいですね。参考にさせて頂きます。……監督生さんの運勢は……、」

 作業の取り掛かりはほとんど同時、むしろ監督生の方が少し早いぐらいであったはずなのに、彼の手元にあるホロスコープは、監督生のものよりも随分と進捗がよさそうに見える。それに少しの羨望と嫉妬を覚えながらも、監督生は彼が読み取ってくれた自らの運勢に耳を傾ける。
 正直に言うとあまり星座占いなどに信用は置いていないのだけれど、「彼が占ってくれた結果」というものには興味があったから。
 ワークシートに落とされていた彼の視線が、ゆるりと監督生を見やる。左右に色を違えた双眸が監督生の輪郭をその虹彩に映し出し、そしてひとつ瞬きを落とした。

 ──刹那、その瞳がまるで水面のように揺れたような、滲んだような、気がして。

 息を[D:21534]んだ監督生の視線の先で、彼は何事もなかったかのように、全てを覆い隠すかのように、笑みを浮かべた。穏やかに、たおやかに微笑んで、彼は形の良いその唇を震わせる。


「──……何か願いが叶うかもしれない。だそうですよ」


 願い。
 何とも抽象的なその言葉に、監督生は小さく首を傾げた。

「…………ねが、い?」

 彼の言葉を反芻し、再び考える。この1週間の間に叶いそうな自分の願いとは一体何なのだろうかと。
 頭上を通過していくランタンに周囲が照らされる。ペン先に反射した一筋の光があまりにも眩しくて、眩んだ視界がふらりと揺れた。
 グリムと一緒に大魔法士に、や、無事に学園を卒業できますように、といった内容は、この一週間で叶うものではないため除外する。そうなると、残される願いごとといえば。
 美味しいものを沢山食べたい。試験でいい点数を取りたい。来週の錬金術の授業で錬金を成功させたい。オンボロ寮の敷地内に作った小さな畑で育て始めた夏野菜たちが無事に実って欲しい。頭に浮かんでくるのは、そんな些細な願いごとばかり。

 ──だって、もう、自分にはそれ以外に願うことなど。
 願える、ことなど。


「ああ、それともうひとつ。とても重要なことが」


 真剣な面持ちに声色を宿した彼が、口元に手を添えて監督生の方へと身体を傾ける。内緒話を促すその動作に、監督生は無意識的に自らも彼の方へと耳を寄せた。
 近づいた距離に彼の輪郭や色彩がより一層鮮明に網膜を焼いて、心臓が微かに跳ねる。瞬きの度に揺れる長い睫毛の影に、どうしようもなく意識が惹き付けられた。
 彼は一体、自らに何を伝えるのだろう。そんな疑問を燻らせながら、監督生は待つ。彼の紡ぐ言葉を、ただ、ただ。


「貴方のことが好きです」


 世界が止まる。言葉を失う。その言葉はきっと、今この瞬間の自らにこそ適用されるべきものだと、監督生は硬直した思考回路の片隅に理解した。
 瞠目し呼吸さえもままならない監督生を置いて、彼はその酷く整ったかんばせをゆるりと和らげた。困ったような……いや、普段とは違い、本当に困っているような表情。微かに細められた瞳が、石像のごとく固まった監督生の姿を見つめ続けている。
 あなたのことが、すきです。
 混乱と困惑と衝撃に支配された脳内へ、先の彼の言葉を反芻した。ぐるぐる、ぐるぐる、と思考回路は空回るばかりで前に進まない。それは、だから、つまり、彼は。


「冗談でも、嘘でも、勘違いでもありません」


 まるで監督生の思考回路を方向付けるかのように、彼は静かな声を世界に落とす。深い海の底に沈んでしまったかのような錯覚に襲われながら、監督生は彼の姿を網膜に焼き付けた。
 ランタンの光が、彼の輪郭を橙に色づけていく。


「僕は、貴方に恋をしています」


 人魚が人間に恋をする。御伽噺めいたそれは、けれども確かに現実として監督生の目の前に佇んでいた。
 ……いいや、違う。監督生にとって、「それ」はずっと、ずっと前から現実だった。

 異世界人が人魚に恋をする。
 そんな現実の中に、監督生は生き続けていたのだから。

 軋んだ心臓が、どうしようもないほどに熱い血潮で全身を苛んでいく。ままならない呼吸に、酸素が足りないと肺が泣いていた。
 頭の中に誰かの声が響く。

「もう帰れない」
「帰り道はない」

 つい3日前の月夜に言い渡されたあまりにも非情な現実。その時にはこぼれなかったはずの涙が、どうしてか今、この瞬間、ほろりほろりと監督生の瞳からあふれていった。
 種族と世界を超えた恋。きっとどれだけ手を伸ばしても届きはしない場所にいるひと。諦める他ないと理解するのは早かった。その時の監督生には残されていたから。元の世界に戻るという、最大の願いと、唯一の逃げ道が。

 けれど、その願いは砕かれ、逃げ道は閉ざされた。

 監督生に残されたのは、この世界で生きていかなければならないという現実と、死に場を失った叶うことのない恋ばかり。
 それでも、いつか。生きているうちにいつかはこの恋も忘れることが出来ると自らに言い聞かせていたというのに。

 叶うはずだと思い込んでいた願いが叶わなかった。
 叶わないはずだと思い込んでいた願いが叶ってしまった。


 ああ、世界は今日も、こんなにも意地悪だ。


 監督生の涙に柄にもなく焦った様子を見せる彼のことにも、何かを感じ取って目覚めたグリムがそんなふたりの有り様に騒ぎ始めたことにも応えることが出来ぬまま、監督生はただただ涙をこぼし続けた。


  ***


「──……そう言えば、どうしてあのタイミングだったの?」

 4か月と少し前の出来事を思い出して、監督生はふと、自らの隣で細身のグラスを傾けている彼へそんな言葉を飛ばした。
 監督生の脳内から地続きに飛び出したその言葉は、彼からしてみればかなり突飛なそれだったことだろう。証拠とばかりに、監督生へと向けられた彼の瞳は意表を突かれたと言わんばかりに丸く見開かれ、ぱちりと大きな瞬きをこぼしていた。
 けれどその表情もすぐさま普段通りの優しげな笑みに姿を変え、残されたのは、今日、11月5日をその生誕祭とする男の優雅な佇まいばかり。
 新年を迎えた時と同じ。ただ日付が変わって次の日が来ただけだというのに、それでもどうしてか、昨日までとは何かが決定的に変わってしまったように感じられる日。それが『誕生日』と呼ばれるものだ。
 つい数日前に監督生も迎えたそれではあるが、彼にとっての今日はそれ以上に重要な意味を持つもの。18歳の誕生日という今日を迎えた彼は、その身分こそまだ学生ではあるものの、法律上は大人に区分される存在となった。
 お酒も、たばこも、選挙も、結婚も、全てを許される存在。監督生にはまだ1年分手の届かない、近いようで酷く遠い世界の住人。早く私も成人したいなぁ。丁度4日前に監督生が吐いたそんな言葉へ、目の前の彼は「そう急がずとも、生きてさえいれば必ずその日は来ますよ」と笑っていた。
 そんなことぐらい十二分に理解しているはずなのに、それでもなお胸にわずかな不満がくすぶるのはきっと、『折角追いついたのに、また突き放されてしまった』という、なんとも子供じみた思いが監督生の中で息づいてしまったから。
 彼と「同い年」でいられたこのたった4日間。それが終わってしまった今日から先のおよそ360日間は、監督生と彼との間に再び何とも高い壁が立ち塞がってしまうのだ。それを思うと、やっぱり自分も早く成人したい、早く彼と同じ土俵に上がりたいと考えてしまうのも仕方のないことだろう。

「それは一体何についてのお話でしょうか?」

 モストロ・ラウンジにて開催された、ジェイドとフロイドの誕生日を祝うオクタヴィネル寮全体を挙げてのパーティーも、じきに終わりを迎える頃。ひと足先にその喧騒から抜け出してきた監督生とジェイドは、モストロ・ラウンジのスタッフルームの片隅でふたり、肩を並べて座り込み、他愛のない言葉を交わし合っていた。
 彼らがいわゆる恋びと同士となってから4か月と少し。監督生が正式にこの世界の住人となってから、同じく4か月と少し。
 その時間の中に彼女が学んだことと言えば、何があっても世界は案外変わらないこと、そして、人間の適応力というのは存外高く設定されているのだということ。元の世界へ戻ることが出来なくなったという悔しさも、悲しみも、この世界で日々を生きている間にもう随分と薄れてしまっていた。

「ジェイドせんぱ、」
「ジェイド」
「…………ジェイド、が、その、……私に突然告白してきたあれ。占星術の授業中の」
「ああ、そのことですか」

 監督生の言葉に得心が行ったと言いたげに笑みを深めた彼は、指先にグラスを揺らして視線をふわりと空へ向ける。その様子が昨日までの彼以上に大人びて見えてしまったのは、きっと、監督生が「成人」という言葉に対して憧れを抱いてしまったがゆえのことだろう。
 かっこいいなぁ。そんな呟きを内心に転がして、監督生は彼の言葉を待つ。なんだかんだと今まで言及するタイミングを逃し続けてきたそれを彼に問い質すのならば今しかない。そんな気がしたのだ。
 思考するようにわずかばかり視線を彷徨わせた彼は、ひとつ瞬きを落としたその双眸に監督生の姿を映し込む。普段は涼しげで怜悧な印象を与える切れ長なその目元が、今は酷く穏やかに綻んでいて。自らを見つめる彼の瞳の奥にじわりと熱が広がっていく様を見つめることが、監督生は堪らないほどに好きだった。

「……怒りませんか?」
「え、怒られるような話なの?」
「ふふ、もしかすると」

 少しおどけたような、それでいてほんの少しの躊躇を孕んでいるような、彼にしては少し珍しい口調。監督生はそんな彼の言葉に慌ててもう一度自らの記憶を遡るけれど、自分が彼へ怒りの感情を向けなければいけないようなことなど何ひとつ思い当たりはしなくて。
 ひとまず話を聞かなければ怒る怒らないの判断も出来はしないと、監督生は彼に続きを促す。
 微笑みを浮かべたまま眉を微かに下げた彼は、やはり言葉を紡ぐことにいくらかの抵抗を覚えているらしい。そんなにも言いにくいことなのか、と疑問や興味や驚きを燻らせる監督生の視線は、それでもまだ彼へと真っ直ぐに向けられたまま。

「……貴方に、『何か願いが叶うかもしれない』と」
「え、……ああ、あの時の占いの」
「はい。実はあれ、嘘だったんです」

 占いの結果が、嘘。
 まさかその点に対してのそんな暴露が為されるとは予想もしておらず、監督生は驚愕のままに瞳を丸く見開いた。
 そんな監督生の様子にくすりと小さく笑みをこぼした彼は、そのままぽつりぽつりと言葉を繋げていく。監督生の知らない、彼の話を、彼の想いを。四か月の時を経て、ひとつずつ丁寧に解いていく。


「本当の占い結果は、……『道筋が見つかる』、『望む場所に辿り着く』といった内容でした」


 その時の僕は、まだ貴方の『帰り道』について何も知りませんでしたから。考えてしまったんです。占いなんてものに然したる信頼も置いてはいませんが、それでも、考えずにはいられなかった。

 微かに伏せられた彼の瞳に、影が落ちる。


「──貴方が元の世界へ帰ってしまう、と」


 貴方はずっと、それを望み願っていらっしゃいましたから。
 ……けれど、僕はそれを貴方に教えたくはなくて。伝えたくはなくて。だから、あえて『願いが叶うかもしれない』と、そう言葉を濁しました。

 自嘲するような笑みをひとつ。怒るのならどうか怒ってくれ。軽蔑するのならどうか軽蔑してくれ。そう言いたげに細められた彼の瞳。けれども微かに揺れるその色彩は、「怒らないで、軽蔑しないで、──嫌いにならないで」と、そう、訴えかけているように見えて。
 紡ぐべき言葉も見失った監督生は、ぎゅうと唇を噛みしめた。

 
「そこに貴方から伝えられた占い結果もあり、今しかないと思ったのです。……だから僕は、貴方に打ち明けました。僕の想いを、言葉にして。……ずるいことを言ってしまうと、僕は知っていましたから。貴方が、僕を少なからず想ってくださっていることを」


 だから、……そう、ですね。言ってしまえば、利用したんです。貴方の想いと、僕の言葉を。

 貴方を、この世界に引き留めるために。
 貴方を、元の世界になんて帰らせないために。


「僕の存在で貴方を捕まえておくことが出来ればと、そう思って」


 最低でしょう?
 こちらを伺うようにそんな言葉を転がして、彼は一度言葉を途切れさせた。落ちた沈黙の中に、ふたり分の呼吸と鼓動だけが残される。監督生の視線は彼から外され、抱えた膝に落とされたまま。


「……本当は、もう少し頃合いを計って伝える予定だったのですけれど。貴方が帰ってしまうかもしれないと思うと、どうにも冷静になれなくて。我ながらなんとも情けない」


 困りましたね、と言いたげに肩を竦めた彼は、目の前の小さな存在へと視線を注ぐ。膝を抱えたその体勢は、もとより小柄な体躯をさらに小さなものに錯覚させて。こんなにもあえかな命に自らは世界を捨てさせようとしたのだなと、そんな思いがジェイドの心の中に芽生えた。
 実際のところ、彼が世界を捨てさせる前に、彼女は世界を捨てざるを得ない状況に追い込まれていたのだけれど、ジェイドは確かに、はっきりとした彼自身の意志で彼女の未来を奪い取ろうとした。それは決して褒められたことではない。
 けれど、彼はその選択を後悔などしていなかった。
 彼女をこの手の中に捕まえておくことができるのなら、どんな罪も罰も飲み込んで笑ってみせようと覚悟していたから。

 視線の先で、監督生の肩が震えた。まさか泣いてしまう程に彼女を怒らせてしまったのだろうかと、ジェイドは内心に微かな焦燥と狼狽を孕む。けれど、考えてみればそれも当たり前の反応ではあって。彼女からのどんな感情も罵倒も受け入れる義務が自らにはあると、彼は彼女の髪先へ自らの指を伸ばした。
 その指先が監督生に触れる間際、こぼれ落ちた彼女の声が、世界に満ちた沈黙を切り裂いた。


「……ふ、ふふ、……あはははっ!」


 もう耐えられない、とでも言いたげに上げられたそれは、まごうことなく笑い声と呼ばれるもの。ジェイドの覚悟していた負の感情など一切含まれてはいないおおらかなその響きに、彼は呆気に取られて瞠目する。
 腹を抱えてひぃひぃと涙目になるほどに笑い続ける彼女は、その視線をようやく彼の方へと向けた。
 真っ直ぐにジェイドを射抜く彼女の瞳には、やはり怒りも悲しみも色づいていなくて。困惑ばかりが募ってしまって仕方がない。どうして彼女は笑っているのだろうか。どうして、笑い飛ばしてしまえるのか。

「何それ、そんな『行かないで』の言い方ある? ……ほんとさ、ジェイドって変なとこで不器用だよね」
「……怒らないのですか?」
「怒らないし、怒れないよ。……だって私、今の言葉を聞いて『嬉しい』って思っちゃったんだから」

 それぐらい、ジェイドが私を好きでいてくれているってことでしょ? そんなの、怒れるわけがないじゃない。

 元の世界に帰りたい。家族がいて、友達がいて、過去があって、未来があったはずの元の世界に。それは確かに監督生にとっての本音で、本心だった。
 けれど、あの日。彼に好きだと告げられたその瞬間、監督生は思ってしまった。考えてしまった。安堵してしまった。

「帰る方法が見つからなくて良かった」、と。

 ぱちり。瞬きを落とした彼の双眸に、今度は監督生が優しく笑みをこぼした。

「それとね、その時は自分でもよく分かってなかったんだけど、あの日、ジェイドの話を聞いた時も今と同じで、──……『嬉しい』って思ったの、私」
「……嬉しい?」
「うん。ジェイドとフロイド先輩と一緒に生まれてきた他の兄弟たちじゃなく『ジェイド』が生き残ってくれてよかった、って。喜んだの。……不謹慎でしょ?」

 軽蔑する?
 小さく首を傾げてそう言葉を紡いだ監督生に、彼のかんばせが微かに歪む。込み上げた感情を必死に押し止めるような、そんな表情。心境の複雑さを反映して揺れるその瞳には、けれどもやはり監督生の懸念した軽蔑や嫌悪の感情は滲んでいなくて。

 ああ、ほら、やっぱり。


「結局、『お互い様』なんだよ、私たち」


 酷く利己的に、あまりにも盲目的に、愛しているのだ。彼らは。どうしようもないほどにお互いを。
 言ってしまえば、ただそれだけの話。

 身体ごと彼の方へ向き合った監督生は、そのまま指先を彼の頬へと伸ばす。その身動ぎに合わせて彼女の胸元に揺れたネックレスは、澄み渡った浅瀬を閉じ込めたかのような美しいターコイズブルーをきらきらと世界に輝かせている。
 指先に触れた滑らかな肌に宿る温度は、相変わらずどこかひんやりとしていた。けれど、そこには確かに温度が、血流が、鼓動があって。自分の手の届く場所に存在するその命のかたちに、思わず涙がこぼれそうになった。
 彼の胸元に輝くジェードグリーンは、監督生の胸元を飾るものと同じデザインのネックレスに嵌め込まれた煌めき。お互いの誕生日にとプレゼントしあったそれは、まるでふたりの存在を繋ぎ止め合うかのようで。
 慈しむように彼の頬を撫でていた監督生の右手を、彼の左手が包み込むように捕まえる。

「僕も嬉しいです。とても」
「……そっか」
「はい。貴方からそんなにも愛して頂けているのだと思うと、堪らなく嬉しくて……これが、幸せと呼ばれるものでしょうか」

 彼の右手が監督生の左手を攫って、そしてその薬指の根元を愛でるように優しく撫ぜた。落とされた視線に、さらりと揺れる彼の髪先。高鳴った心臓の音は、きっとあまりにも大きすぎて彼にも聞こえてしまったことだろう。
 世界が変わっても、『左手の薬指』が示す意味は変わらない。
 

「……来年の貴方の誕生日には、指輪をプレゼントさせてください。そして僕の誕生日には、──貴方の未来を、僕に」


 来年。未来の話。何の躊躇もなく彼とそれを語り合えるという事実に、監督生の心はまた喜んだ。打ち震えるほどに、涙をあふれさせるほどに。嬉しいと、思った。
 ひとかけらの罪悪感をその海の中に溶かして、監督生は笑う。この世界で迎える十八歳を、この世界で生きる未来を、全てを、彼に捧げるために。


「お誕生日おめでとう、ジェイド。生まれてきてくれて、生きていてくれて、私と出会ってくれて。本当にありがとう」


 生まれて、生きて、生き抜いて。世界を越えて、陸に上がって、出会って、愛して、結ばれて。そうして彼らはここにいる。
 まるで夢のような、御伽噺のような恋愛譚。けれどもそれは、確かに彼らにとっての現実だった。

 人間を愛した人魚はもう二度と、儚い泡に消えはしない。
 人魚を愛した人間はもう二度と、その愛を諦めはしない。

 ふたりは共に生きていく。未来を。
 


2020/11/5

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