百十五年越しのハッピーエンド(残り1日)
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※元監督生女夢主/死ネタからの転生ハッピーエンド/捏造ご都合主義/年齢操作
「──ねえジェイド、私たち、お別れしましょ?」
しわがれ掠れた声が、海のさざめきのような静かな響きを伴って世界に落とされる。それが紡いだ言葉の意味を頭で完全に理解するよりも早く、言葉を与えられた男、ジェイドは、ほとんど反射的に「いやです」と答えていた。
ベッドに横たわった彼女の手のひらを両手に握りしめ、縋りつくように額を寄せる。しわだらけになったその手は力なく、弱々しく、そして悲しいぐらいに冷え切っていて。最期の時が目の前まで迫っているという事実に、また喉がしみるような痛みを訴えた。
そんなジェイドの様子に、彼女はくすくすとおかしそうに、ほんの少し困ったように笑みをこぼす。手のひら越しに伝わってきたその振動があまりにも愛おしくて。愛おしくて。あまりにも切なくて。たまらなく悲しかった。
自らの温度を彼女に分け与えることが出来たなら、どれ程良かっただろう。自分の時間を、彼女に分け与えることが出来たなら、どれ程。
いくら考えたって意味など持ちはしない言葉ばかりを胸の内に燻らせて、ジェイドは乾いたその唇を薄く開いた。
「いや、です」
自分らしくもない情けなく震えた声で、先程と同じ言葉をもう一度繰り返す。彼女に、自分に、世界に、説き伏せるかのように。
「……私、このままジェイドのことを置いていっちゃうんだよ?」
そんなことぐらい、最初から分かっていた。こうなることぐらい、ずっと前から知っていた。だって彼女はどうしようもなく人間で、ジェイドはどうしようもなく人魚だったから。
種族が違う、寿命が違う、生きる世界が違う。
「……それでも、僕は貴女のことを愛していますから」
別れるだなんて、そんな悲しいことを言わないでください。
そう言って眉を下げて見せれば、彼女もその目元をゆるりと綻ばせて笑った。じわりと滲み揺れた瞳があんまりにも美しくて、目頭が熱を帯びていく。
ジェイドと彼女が出会ったあの日から、もう90年近い時が過ぎていた。異世界からやって来た少女と、海の底からやって来た人魚。そんなふたりの間に芽生えた恋は、障害ばかりを引き摺りながらも温かく、優しく、そして狂おしく。彼女は世界を、ジェイドは海を手放し、お互いの手を取り合った。
幸せ、だったのだ。
彼女と生きる時間はジェイドにとってあまりにも幸せで、満たされていて、──堪らないほどに、愛おしくて。
長く生きても100年余りの人間である彼女と、短命でも300年をゆうに生きる人魚である彼。いつの頃からか年を重ねるスピードが衰えたジェイドの隣で、彼女は着実に年老いていった。
彼女は何度も何度も気にしたけれど、ジェイドには見た目も老いもどうでもよかった。彼女が彼女であってくれるのなら、それだけでよかった。
しわが増えて、背が曲がって、視力が衰え、髪が白く染まり、体力がなくなり、自らの足ではもう歩けなくなって、物忘れが増えて。それでも彼女の笑顔は、言葉は、ジェイドに注がれる愛は、変わらずそこにあった。だからジェイドは後悔などしていないし、これから先も決してすることはない。
彼女を愛したことを、ジェイドは。
「私が死んで、心の整理がついたら、ちゃんと次の誰かを見つけるんだよ?」
「お断りします」
「また即答かぁ……」
「僕は貴女以外の誰かなんて求めていませんから。ずっと、ずっと、この身が尽きるその日まで、貴女だけを想い続けます」
その事実が揺らぐことはありませんよ、絶対に。
往生際悪くジェイドに未来を促す彼女に、ジェイドは頑なな姿勢で否を唱え続ける。いくらそれが他でもない彼女からの提案だろうと、ジェイドは彼女を忘れて生きていく未来など許容出来はしなかった。
本当ならこのまま彼女と共に眠ってしまいたいのだけれど、優しい彼女はきっとそんなことは許してくれないだろうから。ジェイドは生き続ける覚悟をしたのだ。彼女のいない世界で、彼女の記憶と彼女への愛を抱きしめたままひとり生きていく覚悟を。
……ジェイド先輩ってほんと、相変わらず頑固ですよね。
懐かしさに満ちるその呼び方に、思わず涙がこぼれ落ちそうになった。きゅう、と瞳を細めることで何とかそれを堪えて、ジェイドはその指先で彼女の髪を梳いた。
「仕方のないひと」
手のかかる子どもを相手取るかのような声色は、けれどもその奥にどうしようもない嬉しさを孕んでいて。ゆるりと眠たげに瞬きを繰り返し、彼女はその視線をゆらりと虚空へ揺らした。どうやら、思考をどこかへ巡らせているらしい。それを理解したジェイドは、右手に彼女の手を握りしめ、そして左手で彼女の髪を梳きながら、じっと彼女の言葉を待った。
視線がジェイドへ戻される。細められた瞳に、目尻のしわが優しげな表情を描いた。唇が薄く開かれ、声が紡がれる。
「──100年、待っていて」
ぱちりと目を瞬かせた。
微笑みを浮かべた彼女の言葉が、ゆっくりと、ゆっくりと、地面に雨水が染みていくようにジェイドの心へ響き渡っていく。
肺呼吸が咄嗟に上手くできなくなって、喉元に情けなく空気がひっかかった。
「また、きっと逢いに来るから」
視界が滲んだことを知覚した時にはもう既に、ジェイドの瞳から涙がほろりとこぼれて、世界を濡らし始めていた。
ひと粒、またひと粒。止まることも知らずに、その小さな海たちは、ジェイドの心のかけらを抱きしめて彼女へと降り注いでいく。ぽたり、とジェイドの握りしめる彼女の指先に水たまり。
それにくすぐったそうに笑って、彼女は弱々しくも確かにジェイドの手のひらを握り返してきた。
心臓がじくりと疼く。目頭が焼けるように熱い。喉がひきつってしまって、呼吸が上手くできない。
それでも、ジェイドはただただ彼女を見つめ続けた。彼女の言葉を聞き続けた。ひとつも、ひとかけらも、取りこぼしてしまわぬようにと。
「見た目が変わってるかもしれないし、もしかしたら人間でもないかもしれなけど。また向こうの世界に生まれちゃうかもしれないけど。それでも、ちゃんとジェイドに逢いに来るから」
だから、待っていて。
「……ええ、ええ。もちろんです。100年でも、200年でも、待っています。貴女がもう一度、僕に逢いに来てくださる日を」
彼女の瞳からもひとしずくがこぼれ落ちて、米神を伝っていったそれがシーツに小さな水跡を残した。
酷く幸せそうな、満たされた笑み。その姿に胸が締め付けられるのは、これから訪れるしばらくのさようならが、堪らなく寂しいから。悲しいから。辛いから。
けれど、けれど大丈夫。
だって、また、逢えるから。
「またね、ジェイド」
「はい。また、未来でお逢いしましょう」
おやすみなさい、僕の最愛。
温度の抜け落ちた力のない手のひらに縋り付いて、ジェイドはまた涙をひと粒こぼした。
日が登っては暮れていく様を眺めながら、ジェイドは待ち続けた。彼女と過ごした海辺の小さな家の中でひとり、彼女と約束した百年後を。ただただ静かに。
春が来た、花が咲いた。夏が来た、蝉が鳴いた。秋が来た、紅葉が舞った。冬が来た、ま白い雪が降った。空が晴れて、曇って、雨が降って、嵐が来て。海が荒れて、凪いで、満ちて、引いて。
命が生まれて、命が還って。星が巡って。世界がり移り変わって。
彼女のいない世界に生きる百年は、気が遠くなるほどに長い時間だった。
モノクロに変わり果ててしまいそうになる視界を、彼女と生きた日々の記憶をなぞることで必死に耐え忍んで、100年待てばいいだけだと自らを何度も慰めた。この悲しみは、苦しみは、未来の幸せのためにあるのだと、何度も言い聞かせた。
フロイドやアズールからの心配も受け取りながら、ジェイドはひとり、1日1日を刻むように生き続けた。時間と共に掠れていく彼女の記憶に怯えながら、彼女の言葉と約束だけを頼りに。
1年が過ぎた。
花を植えた。彼女を眠らせた、家のすぐ近くにある海の見える小高い丘の上に、彼女がいっとう好きな薄青色の花を。
5年が過ぎた。
新種のキノコの栽培を進めた。彼女が驚く姿を頭の中に浮かべれば、研究も酷く捗った。
20年が過ぎた。
紅茶の淹れ方をさらに極めた。この紅茶がないと生きていけない、と彼女に言わせるほどの紅茶を用意したくて。
53年。
美しい空の表情に、星空に、波打ち際に、この世界を彼女に見せてやりたいと思った。
78年。
美味しいお菓子に、楽しい出来事に、早くこの全てを彼女と分かち合いたいと願った。
90年。
彼女に逢いたくて、仕方がなかった。
100年。
彼女は、まだ逢いに来てくれない。
窓の向こうに広がった空が青く遠く澄み渡っていたから、お手製のサンドイッチをバスケットに詰めて家を出た。
向かう先は、歩いて5分とかからないあの小高い丘。彼女の眠る、薄青色の花畑となったあの場所。彼女の傍で、青い空と凪いだ海を見つめながら、ただ静かに時間を過ごしたいと思ったのだ。
115年目を迎えた世界は、今日も穏やかに回り続けている。
ジェイドもただ、ただ、生き続けている。彼女のいない世界の中で、確証もない彼女の帰りを待ちながら。
貴女が時間に遅れてしまうなんて、珍しいこともあるものですね。揶揄い混じりの言葉を胸の内に転がして、ジェイドは青い空の下を歩いた。
確かに悲しくも寂しくもあったけれど、彼女を責めようとはかけらも思わなかった。彼女に振り回されることには、もう慣れていたから。
でも、僕を待たせた分の対価はちゃんと頂きますからね。
遅刻者の貴女が顔を出したら、呼吸も出来なくなるほどに抱きしめて、何度も何度もキスをして、そして僕が満足するまで何度だって「好き」と「愛している」を言って貰わなくては。だって、ちゃんと貴女の言った100年と、加えて15年もをちゃんと待ち続けていたのですから。それぐらいのご褒美は許されて然るべきでしょう?
まあ、ご褒美も何も、彼女の言葉があろうがなかろうが、ジェイドはどうしたって変わらず彼女だけを想って生き続けていたのだけれど。そこはそれ。結局はただの口実だ。
道を抜けて、丘を登る。
空があまりにも眩しいからと微かに伏せていた視線を、ふと丘の上に向けた。青い青い空の下、薄青色の花の群れが揺れている。
──その世界の中に、誰かの姿があった。
長い黒髪と白いワンピースの裾が、風にくすぐられてふわりふわりと踊っている。まだ年若い華奢な少女の後ろ姿が、どうしようもなくジェイドの視線を惹いて、惹いて、仕方がなくて。
ああ、ようやく『100年』が来てくれたのか。
ジェイドの存在に気が付いたのか、少女がおもむろにこちらを振り返る。指先からバスケットが滑り落ちていくことも意識の外に追いやられたジェイドは、浅く呼吸を繰り返す唇に彼女の名前を呼んだ。
丸い瞳が視線の先に瞬く。
「──ジェイド、」
記憶の中にある彼女のそれと全く同じ姿、同じ声、同じ瞳、同じ笑顔。
ジェイドの愛した、唯一無二。
彼女という存在が、そこにいた。
気づけば足裏が地面を蹴って、ただ一心不乱に彼女の下へと駆け出していた。空の青さも、海のさざめきも、花の美しさも全てを置き去りにして、全てを忘れて。ずっと、ずっと、115年間恋焦がれ続けていた最愛の姿に手を伸ばす。
相変わらず小さくて柔い身体を腕の中に閉じ込めて、何度も何度もその名前を呼んだ。指先に触れる輪郭に、肌に感じる温かさに、鼓動と呼吸の振動に、ようやくジェイドは理解する。
「……100年は、長かったです。とても」
「だろうね。だって、100年だもの」
「でも、僕は、貴女にもう一度逢いたくて、──貴女のことが、ずっとずっと、大好きで。貴女のことを、愛していて」
「……うん」
また、逢うことが出来たのだ。100年以上の時を超えて、彼らは。
「……ありがとうジェイド、私を待っていてくれて」
当たり前ですよ。だって、僕には貴女だけですから。
新しいキノコを見つけました。紅茶の淹れ方だって前よりもずっと上手になりました。美しい景色が沢山あって、世界も随分と変わって、けれど、僕の貴女への想いは変わらなくて。
伝えたいことが山のようにあるのに、胸に溢れる感情の波があまりにも多すぎて、そのたったひとつも確かな言葉にはなってくれない。けれど、今はどうかこのまま。ただ彼女を腕の中に抱きしめていたかった。
「100年分、抱きしめさせてください」
「うん」
「100年分のキスを、言葉を、愛を、受け止めて、」
「うん、もちろん」
「──100年分、僕を愛して」
貴女のいない100年を、忘れるほどに。
そしてこれからまた100年、ずっと僕の傍に居て。
今度こそ、僕は貴女と一緒に眠りたい。
そうしてひとりの人魚と1人の人間は、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
2020/11/4
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