君さえ


深海のあい(ジェイド)


 空を飛んでいるのだと思った。
 けれど、揺れる視界に、息を吐く度こぼれる気泡に、ゆらゆらと柔く揺れる髪先に、違うと気付く。そこは、あおいあおい水の中だった。
 陽光の注ぎ込む遥か遠い水面を見上げていた身体を動かし、視線を巡らせる。
 遠く、遠く広がる薄青の世界。魚の踊る海の空。淡く明るい頭上に、深く暗い足元。水流に揺れる身体は少しずつ、少しずつ、水底へ向けて闇に飲まれ落ちていく。冷たく暗い、世界の果てへ。
 ふと胸に浮かんだのは、形容し難い朧な恐怖感。慣れ親しんだ陸を求める郷愁。空を請う切望。
 指先で水を掻いた。手を伸ばすのは、水上から差し込む明るい光。太陽。水底には届くことのない、あたたかい光。けれどもその肌に触れたのは、太陽のあたたかさではなかった。

 ふわりと優しく、柔く、何かに手のひらを包み込まれる。

 それは誰かの手のひらだった。
 私の手を引いて、その誰かは泳ぎ始める。水の中を、軽く優雅なあしどりで。ふわりふわり、ゆらりゆらりと、まるでダンスのステップを踏むように。
 その手を振り払うことも出来ず、私はただ一緒に踊る。ふたりを包む世界は、少しずつ闇に飲まれていった。あの光も、やがては遠い空の彼方に。

 気づけば世界は全てが闇に染まり、視界を彩る色は黒。
 それでも何故か、怖くはなかった。
 優しく、それでもしっかりと握られた手のひらが。闇に瞬いた浅い海の色が。
 彼が、そこに居てくれるから。

  ***

「──監督生さん、」

 その声に、意識が急速に浮上した。ぱちりと咄嗟に開いた瞳へ飛び込んで来た世界の光があまりにも眩しくて、思わず瞬きを何度も繰り返す。くたりと落ちていた頭を慌てて持ち上げれば、まだ覚束ない視界に鮮やかな浅い海の色が煌めいた。

「……ジェイド、先輩?」
「はい。おはようございます」

 放課後。青い空と、風に揺れる木の葉。それらを背景に私を見下ろしているその人の名前が、ほとんど無意識に口端からこぼれ落ちていた。
 それに優しく微笑んで応えてくれた彼は、次の瞬間困ったように眉を下げて言葉を紡ぐ。

「慣れない生活にお疲れなのは分かりますが、仮にも男子校の屋外で、女性の貴女がひとり無防備に昼寝をするというのは感心できませんね……。いつも一緒にいらっしゃるあの小さな狸さんはどうされたんです?」
「あ、す、すみません……! お日様が丁度良く温かくてつい……。グリムなら今、エースくんたちと一緒に学園長に呼び出されています」

 彼からのごもっともな忠告に首を竦めながら、慌てて私はそう答えた。膝から滑り落ちそうになっていた教科書を胸に抱きしめて彼を見上げれば、「次からは気をつけるように」、と優しい声が降ってくる。それにしっかりと頷いた私へ再び笑みを浮かべた彼は、空を仰いで瞳をゆるりと細めた。

「確かに今日は天気が良いですし、日向ぼっこにはうってつけですね」
「あはは、ですよね。……先輩は何をなさっていたんですか?」

 場所は校庭の隅にある木陰。時刻は放課後のまだ浅い夕方。そして私の目の前にいる彼は何故か体操着を身に纏っていた。部活動かとも思ったが、それなら彼がこんな場所にいるはずがない。
 首を傾げた私に、彼はやや言いにくそうな様子で口を開く。

「ああ、……実は明日、二年生全体で飛行術の試験があるのですが、ご存知の通り僕たち、特にアズールは飛行術が苦手で……その特訓を行っていたのです。情けないことに僕は少し飛行酔いしてしまいまして、休憩に」
「なるほど……あ、良ければここにどうぞ! 風もあるので休憩に丁度いいですよ」
「ふふ、ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」

 そう言って私の隣に腰を下ろした彼の横顔は、確かに普段に比べいくらか顔色が悪いように見受けられる。本人はたいしたことのない風に装っているが、かなり辛いのだろう。

「これ、良かったらどうぞ。まだ未開封なので」

 傍らに置いてあったペットボトルの水を彼へ差し出す。すると左右で違う色彩を孕んだ一対の瞳が、驚きを宿して私を見つめた。

「いいんですか?」
「はい。先輩辛そうですし、迷惑じゃなければ受け取ってください」
「迷惑だなんてそんな……ありがとうございます。気を遣わせてしまってすみません」

 眉を下げる彼にお気になさらずと笑ってみせれば、彼の表情もいくらか和らいだ。

「飛行術、やっぱり大変ですか?」
「そうですね……僕たちは海の中で生まれ育ち、陸に上がってきたのもつい最近なので。やはりまだ『空を飛ぶ』という概念もよく理解できなくて。泳ぐのは得意なんですけれどね」
「ああ……確かに、生まれてこの方ずっと陸で生きている私でも突然箒で空を飛べ、何て言われたら困りますね……」
「誰しも未知には戸惑うものです。こればっかりは慣れるしかありませんからね」

 視界に揺れた彼の髪に、その色に、空には苦悩する彼らもひとたび水に潜れば見間違うほどの優雅さであおいろの中を泳ぐのだろうなとふと考える。脳裏に浮かんだその光景は、想像でしかなくとも酷く美しいものだった。

「……ああ、海といえば、さっき海を泳ぐ夢を見ました」
「おや、そうだったんですか」
「はい。きれいな海を自由自在に泳ぎ回っていました。楽しかったなぁ……」

 淡くもまだ記憶に残っている夢を辿りながら、私はその美しさを少ない語彙力でも必死に称える。そうすると、やはり海には関心が深いのだろう彼が興味深そうに瞳を輝かせた。

「海はお好きですか?」
「そうですね、先輩の故郷の『珊瑚の海』に憧れるぐらいには」

 ──その言葉を紡いだ瞬間、背筋がぴりりと痺れるような感覚に襲われた。原因も分からず、私はただ疑問符を胸裏に浮かべながら彼を見つめるのみ。視線の先に瞬いたふたつの色彩が、どうしてか私の呼吸を浅くした。

「……それはそれは、有難いことですね。では、いつか僕が貴女を我が故郷にご招待しましょう」

 そこに宿る光の正体を探る間もなく、それは刹那に掻き消えた。戻って来た呼吸の代わりに、奪われてしまったのは鼓動の穏やかさ。ばくばくと早鐘を打つ心臓の音が、鼓膜のすぐ傍に聞こえた。
 穏やかに笑う彼の瞳に、もうあの光はない。
 きっと、あれは私の気のせいでしかなかったのだろう。その証拠にほら、瞬く光はこんなにも優しく私を見つめている。

「ありがとう、ございます」

 頬が小さくひきつるのを感じた。私は今、ちゃんと笑えていたのだろうか。
 身体が何かに囚われるような重さにじわりじわりと溶けていく。そんな錯覚に襲われた。


「──あれぇ、小エビちゃんだ〜? こんなところでジェイドと何してんの?」


 けれどそんな錯覚も、突如舞い降りてきた誰かの声にかき消され霧散する。はっと視線を向けた先には、今私の隣に存在するそれと全くうり二つの姿。けれどその声や口調、纏う雰囲気は全く違う存在のそれ。彼の双子の兄弟である、フロイド先輩がそこにいた。
 木陰に並んで腰かけている私たちを見て首を傾げた彼へ、ジェイドが言葉を返す。

「休憩ついでに少しお話させて頂いていたんです。ところでどうしたんですか? フロイド」
「あ、そうそう〜、アズールがジェイドのこと探してたよぉ。それで呼びに来た〜」
「なるほど、それは急がなくてはいけませんね。監督生さん、くれぐれもお昼寝は自室に戻ってからにしてくださいね」

 立ち上がった彼の姿を視線で追いかける。太陽の光に輝くその浅瀬色は、水の中にはどんな色彩を見せてくれるのだろう。
 念を押す彼の忠告に頷いて、私もグリムを迎えに行こうと立ち上がる。

「良ければまた、お茶でもしながらゆっくりお話ししましょう」
「はい、ぜひ」

 立ち上がった状態でもなお、背の高い彼の視線は私のそれより随分上に。双子が並ぶとまるで壁のような威圧感さえ感じられた。

「それでは、失礼しますね」

 フロイドと共に去っていた彼の背中を見送って、私も踵を返す。
 もう、彼の眼差しに感じたあの不思議な感覚のことは、私の記憶に残っていなかった。

  ***

「……ねぇジェイド。小エビちゃん、ほんとに海に連れてくの〜?」

 浅瀬色を宿した二人の男が、青い空の下を並び歩いていた。地面を踏みしめるのは、人間と同じ立派な二本の脚。歩くその姿に不自然さは欠片も感じられない。

「おや、貴方は反対ですか?」
「ん〜ん、むしろ大賛成。でも小エビちゃん、海の底で生きられるかなぁ」
「人魚が人になることが出来たのです、人が人魚になれない道理はないでしょう?」
「それもそっかぁ〜」

 ひとりが笑えば、もうひとりも笑う。まるで姿鏡のように。同じ姿で、おなじ顔で、同じ表情で、同じ瞳で、同じ温度で。凪いだ水面のように、穏やかに。

「……確かに、彼女には陸で太陽の光を浴びながら生きる姿が似合いますが、」

 にこにこと笑う二人の姿は酷く楽しそうで、愉快そうで。

「──まあ、彼女には僕の傍に居て頂かなくてはいけませんし、致し方ありませんよね」

 そして、深海の水底のように底の知れぬ恐ろしさをその陰に孕んでいた。

「水底に沈んだ彼女の姿も、きっとそれはそれは美しい」

 人間を愛した人魚はもう二度と、儚い泡沫になりはしない。
 


2020/3/24

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