君さえ


朝に目覚める君と僕(ジェイド)


 まるで空高くから足を滑らせて落ちてきたように、意識がふわりと身体に宿った。まだ開かない瞼の向こうから、眩しい朝日が薄く網膜を焼いている。その眩しさにぎゅう、と一度目を強く瞑り、そうしてゆっくりと開いた。

 ぼんやりと霞む視界の中には、陽光をたっぷり透過する大きな窓と、もう見慣れた自室の姿。それらを眺めながら、ぱちぱちと幾度か瞬きを繰り返す。身体を預けたシーツと、包み込んでくれる掛け布団。そこに存在する体温はふたり分。
 腹部に回された腕の重さを確かめて、背中に感じる体温の存在を確かめて、昨夜から今朝までずっと、彼が傍に居てくれたことを思い出す。眠りの中に息苦しさを感じていたのは彼の腕のせいだったのかと理解して、それにどうしようもないほどの愛おしさが溢れた。全く恋などと呼ばれるもののなんと愚かなことか。それでも、その感情を私はもう嫌いにはなれやしない。

「……ジェイド先輩、朝ですよ」

 このまま彼と一緒に朝寝を楽しむというのも悪くはないが、今日は平日。そろそろ起きて身支度を整えなければ、朝食を食べられぬまま授業へ向かうことになってしまう。流石にそれは体にも勉強にも良くない。
 心を鬼にして、私は身体を後ろへ捩らせながら、私の腹部をしっかりと抱き込んでいる彼の腕をとんとんと叩いた。
 どうやら彼は、珍しくも私が起きたことに気づかずぐっすり眠っていたらしい。小さく唸るような声が聞こえたかと思えば、ぎゅうと身体がさらに強い力で彼の胸に抱き込まれた。
 彼の髪先が首筋をくすぐる感覚にどきりとする。こんなにも寝惚けた彼の姿は始めて見た。思わず胸が高鳴るのを必死に抑えて、私はさらに言葉を紡ぐ。

「ジェイド先輩、そろそろ起きないと朝ごはん食べ損ねちゃいますよ」

 体格差や物理的な力量差も相まって、彼にこうもしっかりと抱きしめられてしまえば私の身体はもう自由になど動かせない。まだその戒めを受けてはいない腕を必死に動かして、私は彼の目覚めを呼んだ。
 ジェイド先輩。
 三度目に私が彼の名前を呼んだ、その瞬間。

 ──首筋に、鋭い痛みが走った。

 硬い何かが皮膚に突き立てられ、それを刺激する感覚。ひ、とこぼれた声は、痛みに対するうめき声というよりは突然のことに対する驚愕の声。
 慌てて頭を動かしたが、ぬるりと肩口を這って行く濡れた感覚に思考回路までショートしてしまった。背筋がぞくりと波立つのを感じながら、固まった身体で、思考回路で、それでも必死に考える。今もなお私の皮膚を柔く刺激している硬く鋭い何かと、傷口をなぞる熱。そして、時折感じる吐息の揺れ。

 寝惚けた彼に首筋を食まれているのだと気付いたその瞬間、痛みも全て忘れた身体がぶわりと熱を帯びる。湯だってしまった頭では、もう冷静な判断など下せはしない。気づけば私の身体は、力いっぱいに動いて彼の身体を自分から引き剥がしていた。

 彼の腕から解放された私はベッドの上に座り込んだまま、上半身だけを起こして彼を見下ろした。きっとその顔は酷く赤い。それぐらいに頬が熱かった。
 衝撃で彼も漸く目を覚ましたらしい。ぱちぱちと驚愕を宿した瞳が、眠気の名残も感じさせぬほどに丸く見開かれていた。

「──っ、すみません、その肩は……!」

 数秒の沈黙。彼の視線は私の表情とその首筋を二度ほど往復し、そうして脳はそれらの情報から全てを理解したようだ。ば、と勢いよく起き上がった彼は、いつになく慌てた様子で私にそう言葉をかける。そのまま土下座でもしてしまいそうな程の様子だ。これもまた初めて見た彼の姿に、私の頭があっという間に冷静さを取り戻してくれた。

「すみません、寝惚けていました、……貴女に傷をつけてしまうだなんて……!」
「あ、いえ、ちょ、ちょっと落ち着いてください! 確かに吃驚しましたけどもうそんなに痛くは無いですし、血も出ていないので……!」
「ですが、……怖がらせてしまったでしょう?」
「う、それは……確かにちょっと怖かったですけど……」

 その言葉に眉を下げた彼へ、私は必死にその先を紡ぐ。確かに痛かったし吃驚したし怖かった。けれど、


「……ジェイド先輩なら、大丈夫です」


 それは、只々純粋に私の本心だった。
 痛みも、驚きも、怖さも、彼から与えられるものなら全て許せてしまう。きっと、彼が本気で私を食べようとしても、私はそれを受け入れてしまえるのだろう。それぐらいにはもう、私は彼に堕ちてしまっているのだ。
 私の言葉に、また彼の瞳がまるく形を変えた。こちらを真っ直ぐに見つめるふたつの色彩に何だか落ち着かなくなって、私は視線をシーツへ落とした。

「──ふ、」

 鼓膜を揺らしたのは、彼の小さな笑い声。持ち上げた視線の先で、彼が困ったように、呆れたように、それでいて、……酷く愛おしそうに、私を見つめながら笑っていた。

「本当に、貴女という人は……今が朝であることと、僕の自制心に感謝してくださいね?」

 彼の指先が、こちらへ伸ばされる。それから逃げる私は居ない。
 首筋に触れた彼の温度は、酷く優しく私を包み込む。

「……すみません、噛み跡が残ってしまいましたね」
「ああ……まあ、今は冬ですし、包帯を巻いてタートルネックを着込めば隠せますよ」

 申し訳なさそうな彼の表情に、私はあっけらかんと笑ってみせた。そうすれば、彼も微笑みを返してくれる。彼には笑顔が一番だ。噛み跡が残ったぐらい、どうってことはないのだから。

 ……それに、

「──なんだか、僕のものだという印みたいでいいですね」
 
 心の中にだけこぼしたはずの言葉が、何故か音になって私の鼓膜を震わせた。それに驚いて目を見開いたけれど、世界にいるのは相変わらず私と彼のふたりだけ。つまりそれは彼の声に他ならない。成程、私達の思考回路は随分と似通ってきてしまっているようだ。胸を柔く締め付けた感情は、喜びと愛おしさと幸福感。ああもう本当に、私はどれだけ彼のことを好きになれば許されるのだろう。

「ああ、すみません。ちゃんと反省はしています。もう二度と、貴女の許可なくこんなことはしませんから」

 その言葉に「いつでもどうぞ」、と返せば、彼はどんな反応を返してくれるのだろうか。
 そんな子供じみた私の企みは、部屋のドアを叩く音とグリムの呼び声にかき消されてしまった。
 彼と一緒にベッドから降りて、身支度を整える。

 今日もまた、彼のいるこの世界での一日が始まった。



2020/3/25

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