きたのかた


好きで、好きで、好きで。自分でももうどうしようもないくらい好きで、好きすぎて涙が出る。
運命だと思ったのだ。あの日、桜の舞う六波羅で出会ったときに、確かに。一目見ただけで惹かれた。その強さを知るたびにときめいた。その弱さを垣間見て恋に落ちた。愛しくて、守りたくて、触れるたびに想いは強くなって。いつからか分からないくらい自然に、愛してしまっていた。
だから、あの時。望美が元いた世界に譲と九郎を伴って帰ると告げた日。私は彼らとは違う道を選んでしまった。望まれずに来てしまったこの世界に居残ることを決めてしまった。
生涯あちらには帰れないことを知りながら。そして、ヒノエが私の想いには応えてくれないことを知りながら。それでもいいと思ってしまうくらいに、私は彼を好きになってしまっていた。



***



熊野には春の足音が聞こえつつあった。庭を散策していると、花の香りが微かに漂う。あちこちで名前も知らない花が蕾を膨らませていた。季節は春。ここ、熊野を訪れてから、初めての春。
京に残ると決めた私を、望美や八葉はあの手この手で説得しようとした。当然だ。この世界がなんとなく気に入ったから、なんて曖昧な理由で残ろうとしたら、誰だって後悔すると思うだろう。私はそれらをきちんと聞いて、けれども意見を変えなかった。聡い人たちなんかはそんな私を見て別の理由があるのだろうと核心を突いてきたが、それでも私は本当の理由を話さなかった。ヒノエが好きだからなんていったらもっと止められることが分かっていたからだ。九郎があちらに渡るのとはワケが違う。愛しい人と生涯を共にするために元の世界を捨てるのなら、他の人だって容易に説得できただろう。でも私は片恋を続けるために生まれた世界を捨てるのだ。叶わないと知りながら思い続けるそのためだけに。
どれだけ説得しても私が意思を変えないと知ると、彼らは諦めて私の決意を受け入れてくれた。そして、朔と景時に頭を下げて、働くからここにおいてほしいと頼もうとしたときに、ヒノエが私の元を訪れたのだ。
ヒノエに会うのは久しぶりだった。最初に私が残ると決めたと告げた後に、ふうんと言ったきり顔を見せなかったから。ヒノエに帰れといわれると決心が揺らぎそうだったので助かったが、そんなにも関心がないと考えると流石に少し辛かった。そんな、複雑な思いを抱えた私に、ヒノエは告げたのだ。

『なんなら、熊野に来るかい?』
と。
私は思わず頷いてしまっていた。ヒノエはそうかと無表情に言ったきり、その日は帰って行った。だから後日、迎えだという人が来るまで半信半疑だった。
けれど、夢ではなく、私は確かに熊野に迎えられていた。どういう間違いが起きたのか、龍神の神子が来るという噂が流れていた熊野で私は熱烈に歓迎された。けれど、望美と一緒に会ったことがある湛快さんのおかげで誤解は解け…解けたものの、なんとなく居づらい雰囲気になってしまった。熊野の人は私が望美じゃないと分かっても良くしてはくれたが、わだかまりが残ってしまった。
これはきっと、ヒノエのためだけに世界を捨てた私への罰。
どの道この世界に私の居場所はなかった。ならば、多少居づらくてもヒノエの傍にいられるだけで感謝するべきなのだ。
分かっているから、文句などあるはずもない。ヒノエも時間があれば私の元を訪れてくれていた。たまに熊野の散策に連れ出してくれる。弁慶や敦盛も気遣ってくれている。それだけで、これ以上望むべくもなく幸せだ。

「幸せ、なんだ」

私は自分に言い聞かせるように呟いて、ため息を飲み込んだ。うかつなことはできない。王様の耳はロバの耳、どこで誰が見ているか分かったものではないのだ。ため息も、沈んだ顔も、全部隠してそうして幸せだと笑わなくてはいけない。このままヒノエの側にいたければ。一時でも気を抜いてはいけない、この恋心を悟られてはいけない。

『オレかい?オレは…いるよ、愛しい姫がね』

ヒノエの声が耳に甦って、私は思わず耳を塞いだ。そんなことをしても無駄なのに。
あれは確か、秋だった。闇夜に浮かぶ名月と涼やかな虫の音を、ヒノエと楽しんでいた時。何の流れか分からないが、ヒノエに好きな男はいるのかと聞かれた。いるのなら、協力してやろうかと。それだけで痛んでいた私の胸は、その一言で止めを刺されたのだ。ヒノエは?と問いかけたときの答え。その、初めて見る微笑。敵わないと、それだけで感じさせる一言。
だから私は、高望みはしない。叶いはしないこの恋心を抱えて、ヒノエの側にいられることを幸せと思わなくてはいけない。吐き出せないこの想いが辛いと、認めてはいけない。私が選んだのだから。
ふと、桜の蕾を見つけて立ち止まる。見ればもういくつか花開いていた。今は弥生の終わり。春はもう、そこまで来ている。
4月1日。エイプリルフールがヒノエの誕生日だと知った時には、思わず笑ってしまった。似合いすぎだ、たくさんの口説き文句の中に本当の気持ちを隠してしまうヒノエには。
でも、私もそれを利用させてもらおうと思う。吐き出せないまま大きく膨らんでしまったこの恋心に、密かな終止符を打つために。ヒノエとの関係を変えずに、この辛い気持ちだけ軽くしたい。
卑怯なことは分かっていたが、私にはもうそれ以上どうしようもなかった。


***



「ヒノエ!忙しいときにごめんね」

迎えた4月1日、私はヒノエを呼び出した。こんなことをするのは初めてだったが、どうしてもこの日に話したいことがあるのだと言うとヒノエは分かったと笑ってくれた。

「いや…遅くになってしまって、悪かったね」

ヒノエが私のために整えてくれた部屋はとても広く、そして趣味が良かった。私は歴史には詳しくないから、それがどういった意味を持つのか分からないが、たまにその部屋の名前で呼ばれたりもする。ヒノエに聞いても「特別なお客様って意味さ」とはぐらかすばかりで教えてくれるつもりはない様だった。

「仕事の服のままなんだね…着替える?」

暗がりの中、僅かな灯りで物を見るのは夜でも明るい町に慣れた私には一苦労であったが、目が慣れればヒノエの服がいつもと違うことくらいは分かる。それはいつか見せてくれたとても重そうな正装で、いつものヒノエとは雰囲気からして違っていた。

「オレが着替える所を見たいのかい?」
「な!何言ってんの!」
「冗談さ。着替えは持っていないんだが、お言葉に甘えて二、三枚脱いでも良いかな?」

でも、暗がりでは表情も見えない。それがかえってやりやすいような気がした。
ヒノエは私の返事を待たずに脱ぎだす。一枚、二枚、三枚。私はヒノエが器用に脱いでいくそれらを、大事に衣文賭けに掛けた。三枚脱いでも現代より遙かに厚着のはずのそれが、何故かすごく色っぽくて、目を逸らせなかった。

「惚れ直したかい?」

私の視線に気がついたのか、ヒノエがくすりと笑う。私は慌ててそっぽを向くと、誰が、もとから惚れてないわよ、といつものように返事をしようとした。でも、ふと気がつく。これはチャンスかもしれないと。

「…そうだといったら?」

その一言を発しただけなのに、酷く心臓が騒いだ。今日はエイプリルフール、嘘の赦される日。すべては嘘だと嘘を吐くんだから、と言い聞かせても、心臓は鳴り止まない。とても続けられない。

「由佳?」
「ごめん、疲れてるよね。座って?この前ヒノエにもらったお菓子がまだあるから、一緒に食べよう!お茶もらってくる」

私の様子がいつもと違うとでも思ったんだろう、訝しげに名前を呼ばれ、臆病な私が一気に出てしまった。逃げるようにその場を後にする。ばくばくとうるさい心臓を抱えながらでは物事が覚束なくて、私は角で止まると深呼吸をひとつした。
こんなはずじゃないのに。これから、もっとすごいことをしようとしているのに。隠れることに慣れてしまった気持ちは、極端に出てくることを拒む。心臓に、胸に、呼吸に圧をかけて何とか胸の内に留まろうとする。
けれど、もう後戻りは出来ないのだ。全ての準備は整っている。これは、これからもヒノエの側にいるための仕掛けなのだから。

「ごめん、遅くなった!」

お茶を入れてもらい、ついでにお代わり用のお湯とお茶葉をもらってヒノエのもとに戻る頃には、結構な時間が経ってしまっていた。

「いや、構わないよ。姫君を待つのはオレの特権だろ?」
「…はいはい。じゃ、これお茶!待ってて、今用意するから!」

お茶とお菓子を用意する。燈台の仄かな灯りで向かい合っても、顔には影が落ちる。近いのに遠い、今のヒノエとの心の距離を表すみたいで少し切なくなった。

「…で、話ってなんだい?」
「あ、そうだ、忘れるとこだった」

ヒノエに促され、私は部屋の隅に置いた包みを手に取る。これを渡してしまえば本当に最後。もう、後戻りは出来ない。だからこそ、敢えて他のプレゼントは用意しなかった。

「誕生日、おめでとう!」
「…ああ、ありがとう」

何の前振りもなく告げても、ヒノエはあっさりと包みを受け取る。望美からそういう習慣があることを聞いていたのだろう。少し面白くないが、説明しなくても済むのは楽だ。開けてもいいかい、と尋ねられ、どうぞ、と答えると、ヒノエは静かに包みを開いた。中身を分かっている私は、手持ち無沙汰でお菓子を食べる。

「…これは…?」

ヒノエが箱から摘まみ上げたのは、薬包である。

「ここで何か買っても全部ヒノエのお金だし、それじゃなんか違うと思って、作ってみた」
「作った?由佳がかい?」
「弁慶と山に登って、弁慶と一緒に煎じたから大丈夫なはずだけど」

弁慶の名前を聞くと、ヒノエはわずかに眉をひそめた…ような、気がした。暗い部屋のなかでは、定かではないけれど。

「ふうん?薬効は?」

でもそれも一瞬で、すぐに普通の声が返ってくる。

「滋養強壮!ヒノエ、最近忙しかったでしょ?」

一瞬動揺したことを、悟られてしまったろうか。必要以上に声が大きくなってしまったのは、震えを隠すためだ。

「オレのことを気遣ってくれたのかい?…それは、嬉しいね」

けれど、ヒノエはそのどれにも気づかなかったようで、薬包を机に載せると私に微笑みかけた。いつもの笑み。誰にでも聞かせる言葉。ヒノエにとってなんの意味もないのだと言い聞かせても、私の心は甘く弾んでしまう。

「当然でしょ?ヒノエにはこうして、生活の全部を面倒見てもらっちゃってるし」

だから、ついそんな可愛くない言い方をしてしまった。本当は違うのに。確かに生活の面倒は見てもらっているが、だから心配なわけじゃない。ヒノエが好きだから、愛しているから無理をして欲しくないのだ。でも私には、そんなことを伝えることすら出来ない。

「早速頂こうかな」

ヒノエがお茶を飲み干し、白湯を汲む。さらさらと音がして、そこに薬が溶かされた。
私は返事も出来ずにただそれを見つめる。どうしよう、と、いよいよという二つの意味でドキドキが治まらない。呼吸が乱れないようにするのが精一杯で、とても声なんか出せなかった。

「いただきます」

ヒノエはそれに気がつかずに、茶碗を持ち上げて私を見た。頷くのが精一杯だ。ヒノエの顎が僅かに上を向くと、その喉仏がはっきりと見えた気がした。口に茶碗が当てられる。角度がきつくなって、喉仏が動いて…動かな、い?
ヒノエはそれを口に含んだまま茶碗を降ろすと、私を見た。射抜くような、鋭い目。訳が分からず動けないでいると、腕を引かれる。逆らえない強い力。気づけば私は腕の中でヒノエを見上げていた。布越しに感じる温もりに、近づいてくる顔。心臓が別の意味で高鳴った。そして…唇が、重なった。
訳が分からず、私は呆然としたまま動くことも出来ない。唇に触れているのがヒノエの唇だと、視覚は訴えても心は納得しなかった。ただ、熱が鼓動を生み出す。ばくばくと小指の先まで波打つようで、私は手に触れた布を強く握り締めた。やがて、唇が割られ、そこから何かが口の中に入ってくる。
それが先ほどヒノエが口に含んだ薬だと理解する頃には、私はそれをすっかり嚥下してしまっていた。何かぬめっとしたものが口の中に入り込んできて、口の中を動き回る。ぞくりと背中に何かが走る。けれど、それはすぐに離れていった。

「ヒノ、エ…?」

何が起こったのか分からない。どうして、と震える唇で問いかけると、ヒノエは口の端だけを吊り上げた。

「オレを騙そうなんて、千年早いよ?姫君」

いくら暗くても、表情が見えてしまうこの距離が憎らしい。私は驚きを隠せずに、ただ目を見開いてヒノエを見つめた。

「弁慶の薬なんか、生まれたときから散々飲まされてんだ。あいつの滋養強壮剤は、この世の終わりかってくらい苦い薬湯だよ。でも…これは飲んだことがないね。本当の薬効は、なんだい?」

そうか、と、私は後悔に苛まれた。唯一恋心を暴露し、協力を頼んだ弁慶がやめた方がいいと言ったのはこのためかと今更ながらに思う。弁慶は私の身体や心を心配したのではなく、計画そのものの甘さを指摘していたのだ。

「…オレを殺そうとでもした?」

いつまでも答えない私に、ヒノエが意地悪な問いを重ねる。ヒノエを殺すなんて、ましてや弁慶の薬でなんて、私に出来るはずがないのに。…それに、これが毒でも構わないと思って私に飲ませたのかと思うと、今更ながらに切ない。
私は目を瞑って、首を左右に振った。喉に冷たい氷の塊を詰められたみたいで、上手く声が出せない。
や、と意味のない呻きだけをもらして腕を突っ張ると、ヒノエは私を簡単に解放した。触れられていた所が寒い。いつの間にか強く握っていたヒノエの着物をはなすと、そこにはしわが刻まれていた。

「滋養強壮も、ホントなんだけどな…」

もう、計画の失敗は明らかだ。私は机の上の包みを手に取ると、ピンと指先で弾いた。擦れた指先がいつもと違う感覚を脳に送る。まずい、薬が効き始めた。

「これには、睡眠薬が混ざってるんだよ。ヒノエ、最近ちゃんと寝てないでしょ?だから…」

必死に言葉を探す。症状が本格的に出始める前に、ヒノエをこの部屋から遠ざけなければいけない。こうなってしまってはフォローは後だ。ヒノエにこれがどんな薬か知られてはいけない。

「…私、眠くなってきちゃったみたい。ねえヒノエ、ちゃんとしたプレゼントは明日贈るから、今日はもう帰ってもらっていい?」
机の上の包みを集めて、数える。もともと回収するつもりで、数はそう多くない。1、2、3、4…全部集めた所で、懐にしまおうとすると、ヒノエに腕を取られた。

「っ」

それだけで。たったそれだけで、思わず変な声が漏れそうになる。身体に熱が集まってくるのが分かって、私は思わず顔を伏せた。

「姫君…由佳。だから、オレを騙そうなんて千年早いって」

手に力が入らなくなってきて、私は思わず包みを落としていた。ヒノエに触れられている腕が酷く熱い。

「本当だって。お願い、もう寝かせて…」
「…それが本当なら、オレが褥まで運んでやるよ」

ヒノエを長い間留める自信がなくて、即効性にしたのが運のつきだった。いいから、と答える間もなく抱き上げられ、ヒノエの香りを吸っただけでも身体が小刻みに震える。

「…由佳?」

それがヒノエに伝わらない訳も無く、ヒノエは訝しげに私の名前を呼んだ。けれど私は声をこらえるのにやっとで、返事どころではない。

「…寒いのか?」
「っん」

腕を撫でられ、ついにこらえきれなくなって喉を鳴らしてしまった。ヒノエの動きがぴたと止まる。…まずい、さすがにばれてしまった。

「もしかして…」

軽蔑されたろうか。あさましいと。ヒノエへの気持ちも、きっとばれてしまった。むしろ、嫌悪されたかもしれない。
ヒノエが言葉にしなかったそれを、私は小さく頷いて肯定した。

「…お願いだから、今日はもう帰って…熊野も、出て行くから」

懇願する声も途切れ途切れで、か弱い。熱を持ったからだが憎く、けれど全てが自業自得なら、どこにもぶつけられないそれが胸で涙に代わるだけ。ここで泣き出すような真似はしたくなかったから、私は心と裏腹に熱くなる身体を抱きしめた。

「…オレにそんな薬を持ってまで、オレが欲しかった?」

けれどヒノエは、それすら叶えてくれない。耳元に囁きかけられて、私はいやいやと首を振った。

「そんなに欲しいなら…くれてやるよ」

冷たく言い切ったヒノエの足がどこに向かうのかなんてことは、火を見るよりも明らかだった。



***



ちゅん、ちゅん…
光が目を刺激する。耳に鳥の鳴き声が入ってきて、私は静かに目を開けた。何故か、身体がだるい。何でだっけ、と、昨日の記憶を探しても、頭が重くて上手く思い出せない。昨日はヒノエの誕生日だった。ヒノエが来て、プレゼントを渡して…その後、どうしたんだっけ?

「…起きたのかい、姫君」
「っ!?」

不意に視界が紅い髪でいっぱいになって、私は驚きのあまり声を上げる。喉がやけに枯れていて、そのまま咳き込んでしまった。
脳裏に一瞬、ヒノエの顔が浮かぶ。ただの顔じゃない、キスをしているときの顔。現実のはずがないのに何故かリアルで、私の混乱を誘った。

「大丈夫かい?」

ヒノエの手が伸びてきて、私の背をさする。そこで気がついてしまった。ヒノエは服を着ていない。朝、寝起きでヒノエがこの部屋にいることも、裸でいる理由も分からずに、私の混乱は酷くなるばかり。咳が治まっていないのになんで、と問いかけて、また咳が酷くなった。

「しゃべるなよ。…ほら、水、飲めるか?」

ヒノエの手に助けられながら、ゆっくりと起き上がる。はらりと肩から布団が落ちて…

「…!?」

むき出しの胸が、外気に晒された。驚きで咳すら止まってしまう。
そこまで来れば、流石に昨日何があったのかくらい分かってしまう。それでも記憶がないのは…

「…薬、私が飲まされたんだっけ…」

ようやくそれだけを思い出せて、私は合点がいった。
弁慶に頼んだ薬は、催淫剤。それに少しだけ、記憶が飛ぶような作用を加えてもらったものだ。ヒノエと一夜だけ過ごしたら、それを私だけの思い出にして、ヒノエへの想いを最後にするつもりだった。朝になったら何食わぬ顔をしてプレゼントを本当のものに摩り替えて、ヒノエは疲れて眠ってしまったのだと笑うつもりでいた。
なのに、ヒノエが全部覚えていて、私が全部忘れているなんて…計画倒れもいいところだ。

「…本当に効いてるみたいだね、薬」

昨夜の私が洗いざらい話してしまったのか、ヒノエは呆然とする私を見てふうんと喉を鳴らした。怖くて伏せた顔が上げられない。きっと私は、ヒノエへの気持ちまで全部話してしまったことだろう。そう思うと、一刻も早くヒノエの前から消えてしまいたかった。
きっと昨日さんざん痴態を晒したのだから今更だろうとは思ったが、裸の身体を晒しているのが心もとなくて私は布団を手繰り寄せた。ヒノエはそんな私を鼻で笑って、私の手を掴み上げると布団に磔る様に押し倒す。身体がむき出しになるだけじゃなく、必然的に目があってしまって…思わず顔を背けると、首筋に生温かいものが這った。

「…っや、」

意味のない声が漏れると、くすりと笑われる。

「今更、恥ずかしがらなくてもいいんだぜ?」

揶揄するように言われて、頬に朱が走るのが分かった。やっぱり昨日、散々痴態を晒してしまったに違いない。記憶がないだけに何をしたか分からずに、余計恥ずかしさが煽られる。

「昨日はあんなに大胆だったのに…な」

手首が左手だけで押さえ込まれて、右手が肌をなぞっていく。背筋にぞくぞくした何かが走って、私は思わず暴れだしていた。すると、あっさりとヒノエの身体が離れていく。
遊ばれていたのか、なんて、傷ついている暇はない。私は慌てて布団を引き寄せると、横を向いて膝を抱えた。叶うなら、このまま消えてしまいたい。

「…お願いだから、昨日のことは忘れて」

我ながら勝手だとは思う。でも私はこの期に及んでまだヒノエの傍にいる方法を探していた。

「昨日はエイプリルフールだったから、ちょっとしたいたずらのつもりで、私…」
「だから、オレを騙そうなんて千年早いって。由佳…」

けれど、懸命に重ねる言葉を一蹴されて、私は唇を噛んだ。布団をぎゅっと握る。

「…姫君。こっち向きなよ」

急にヒノエの声が優しくなって、私はますます落ち込みが激しくなった。ヒノエの顔なんか見れない。せめて、ヒノエから何かをいわれることだけは避けたいと思って、私はそのまま声を上げた。

「熊野から、出て行くね」
「おい、由佳?」
「今まで、本当にありがとう。私、ここでいられてすっごい楽しかった。…ヒノエが、好きだから…」

これで最後なら、せめてきちんと伝えておきたい。ちいさく告げると、強い力で肩を引かれた。ごろりと転がされて、ヒノエと目が合う。すぐに逸らすと、顎をとられて無理に顔を向けさせられた。

「オレも、お前が好きだよ」

そして、唇が重なった。
触れるだけのそれはすぐに離れ…私は思わず、ヒノエの顔をまじまじと見つめてしまう。

「…信じてないね、その顔は」
「だって、…だって」

私は驚きのあまり、それしか言葉にすることが出来ない。

「まあ、いいさ。また教えてやるよ、その身体に。…オレがどれだけお前が好きか」

ヒノエが不敵に口の端を吊り上げて、私を抱き寄せる。私は抗えずに、その胸に頬を摺り寄せた。嘘でも夢でも何でもいい。ヒノエの傍にいられるなら。

「…そうだ。手始めに、いいこと教えてやるよ、姫君。“北の方”の意味を知りたがってたろ?」

それは、私がたまに呼ばれる部屋の名前だ。脈絡が分からないけれど、知りたかったのは確かなので私は小さく頷く。

「“北の方”って言うのは、屋敷の奥方…つまり、オレの奥さんってことさ」

思いも寄らない答えに、私は思わずえ?とだけ答える。ヒノエはそんな私の耳元に唇を寄せて、囁いた。

「…お前はオレへのプレゼントだから…もう一生、逃がさないぜ?」

…ああ、どうか、夢なら覚めないで。

けれどヒノエはすぐに、これが夢ではないと、嫌というほど分からせてくれたのであった。


end

しおり
<<[]>>

[ main ]
ALICE+