きっと、何度も、恋をする。
「……ちゃん、由佳ちゃん!」
肩をがたがたと揺さぶられて、私は強制的に起こされた。頭がガンガンする。ぶらぶらと首が前後するせいで、余計に。
「んー……やめ、」
「望美、ストップ」
目を開けるよりも先に止めてと訴えると、耳に心地よい声がその意を汲んで望美を止めてくれた。ようやく身体が落ち着き、目を開ける。そこにはみんなが集合していた。望美、将臣、譲、それから紅い髪の男の子。
「……よかったあ!由佳ちゃん、死ななかった!」
「縁起でもないこと言うなよ望美」
私に抱きついてくる望美を将臣が叩くものだから、その勢いを殺しきれず望美ともども砂浜に倒れてしまった。普段ならこんな無様なことをしないのに、身体に力が入らないのだ。
「……あ、そっか、溺れたのか」
そこでようやく、私は我が身に起こったことを思い出した。
夏の思い出作りに訪れた海。遠泳に繰り出して、足をつって、そのまま溺れた。息も吸えず、水を飲み込んで、苦しみから遠ざかる意識の中最後に見たのは水に散らばる紅い髪だった。
「そうだよ!びっくりしたんだから!ヒノエくんが助けてくれたから良かったものの……」
紅い髪の男の子に目を移す。それは、最後に見た紅と同じで、彼が“ヒノエ”なんだろうとぼんやりと思う。変わった名前だが、命の恩人に変わりはない。
「えっと、貴方…ひのえ、くん?助けてくれて、ありがとうございます」
礼儀正しくお礼を言ったつもりなのに、その場の空気が一瞬にして凍りついたのが分かった。しまった、間違えたろうか。でもあんなに綺麗な紅髪、そういないと思うのに。
「……えと、助けてくれたのは貴方ではない?」
勘違いか、と恥ずかしさから声が小さくなる。でもなんだろう、この空気は。誰かちゃんと教えてくれても良いのに、誰も話そうとしない。みんな怖い顔をしてこちらを見るばかりだ。
「由佳ちゃん、ヒノエくんが分からないの?」
「ふざけないで下さいよ、先輩。こんなときに」
…ようやく発せられた言葉は、意味が分からないもので。
「……え?えと、…え?」
私は訳がわからず、そう繰り返すしか出来なかった。
***
記憶喪失。
望美に引きずられて医者にかかった私は、そう診断を下された。長ったらしい病名は覚えられなかったが、つまりはそういうことだ。でも、ヒノエのことを忘れているという以外にはどこも悪いところはなく、私はその日のうちに帰途についていた。記憶喪失だけは医者でもどうすることができない。とにかく焦らないことです、と医者は繰り返していたが、私は何をどう焦って良いのかすら分からなかった。
「……もう一回聞くよ?」
帰り道、電車に揺られながら私はもう何百回と繰り返した言葉をもう一度口にした。だって、本当に信じられないことを聞かされているのだ。
「本当にヒノエと私は付き合ってたの?」
「だから、本当だって!なんで信じてくれないの?」
答える望美も、もう半ば怒り気味だ。けれどどれだけ怒られようと覚えてないことは仕方ない。なんでって…と、ヒノエを見やると、彼は何を思っているのか探らせない無表情でそっぽを向いていた。その派手な外見に、海で垣間見えた運動神経の良さ。短時間でも分かる。彼は完全に私の好みではない。
「もう、ヒノエくんも、何か言いなよ!」
望美に話をふられ、渦中のヒノエがようやくこちらを向く。逸らし損ねた目線がぶつかって、まっすぐに見つめられた瞬間、どくりと心臓が騒いだ。
なんだろう。表情はないのに、どこか悲しそうなこの顔を見ていると、すごく胸が痛い。
さっきもそうだった。ヒノエくん、と呼び、敬語で話した私に彼が向けた悲しそうな目に胸を締め付けられて、初対面なのに呼び捨てにしてしまった。人見知りをする私にはハードルの高い芸当だ。
「……携帯見てみなよ、由佳」
その胸の痛みを探っていた私は、ヒノエが言った言葉を理解するのが遅れた。言葉をかけられたことにびくりと肩を震わせ、そして言葉を反復する。
「……え、あ、携帯っ!?」
そうだ、なんで気付かなかったんだろう。携帯の履歴を見ればいいじゃないか!着信履歴、発信履歴、メールの送受信。付き合っていたならその痕跡がしっかりあるはずだ。
私は早速鞄からお気に入りのブルーの携帯を取り出す。開けば暗証番号の入力を求められた。メールを見られるのが恥ずかしくてかけたロック。暗証番号は0401、誕生日。
「……って、あれ?」
おかしい。私の誕生日は、9月20日なのに。これは、誰の誕生日だ?
「由佳ちゃん?」
「あ……もしかして、ヒノエの誕生日って、4月1日?」
思い付いて聞いてみれば、望美は目を輝かせた。まずい、ビンゴだ。
「思い出した!?」
「出してない!」
慌てて否定すると、望美はしゅんと小さくなってしまった。どうしてあんたが、と言いたくなるが、他人事を自分の事のように心配出来るのは望美の美徳だ。けれどどうしてこうも熱くなれるのかは私には未だに理解できない。もっとも今に限れば望美が心配しているのは私じゃなくてヒノエの方みたいだけど。
期待させたとしたら、申し訳ない。ヒノエをちら、と見ると、彼は肩をすくめた。
「お前の携帯の暗証番号は、確かにオレの誕生日だよ」
なんでもないことのように答えられ、由佳は黙って携帯に視線を戻した。なんだろう、この違和感。さっきから、ヒノエのクールさが気になって仕方ない。彼女に忘れられたはずなのに、取り乱しもしなければ思い出せとも言わないのはどうしてだろう。そう言えば、ヒノエと由佳が付き合っていると最初に言い出したのも望美だった。
ずきん、と胸が痛む。なんだろう、今日は心臓がせわしない。
「……………うわ」
携帯の発信履歴は見事にヒノエで埋まっていた。メールの受信にも送信にも、『ヒノエ』の名がついたフォルダがある。
「分かったかい?」
ここまで証拠を突き付けられれば、答えるべき言葉は一つだけだった。
「……………はい、すみませんでした」
本当だったとしたなら、悪いことをした。素直に謝って顔色を窺うと、ヒノエは無表情だった眉を僅かに寄せて、ため息をついた。
「いや、気にすることはないさ」
…その意味が測れずに、私はただ痛みを訴える胸を押さえた。
ゆっくりでいいさ。
ヒノエが繰り返すそれが口癖のようになってからも、私は記憶を取り戻すことが出来なかった。構わない、いいよ、大丈夫。優しい言葉をかけられる度に、何かが失われるような気がして、私は次第に焦りを隠せなくなっていった。
それだけの時間が過ぎれば、分かったこともある。
ヒノエは望美が異世界から連れてきた「八葉」のうちの一人で、去年のクリスマスに付き合いはじめるようになったこと。お揃いの携帯ストラップをしていたこと。初デートの場所、初キスの場所、それから初めて泊まりに行った場所。けれどそれら全てが教えられたことでしかなく、胸が痛むことはあっても思い出すことは何もなかった。
それから、無くなったのはヒノエとの記憶だけだったことも分かった。八葉の存在も、望美があちらでしたことも、他の八葉も、私はちゃんと覚えていた。まるで狙ったかのように、ぽっかりと空いたヒノエのかたちの穴。それが埋まらなくても構わないんだとでも言いたげなヒノエの態度に、何故か私が悲しくなった。
そうして気が付けば、かつてヒノエと交わしたメールを見返すことが私の習慣になっていた。
「…必死だな…」
メールを見返していると、いかに私がヒノエを好きだったかがよく分かる。その哀れなまでの必死さを他人事のように見ていても何も思い出すことは出来ず、ため息が漏れるだけだった。
“由佳”の必死さとは裏腹に、ヒノエのメールにはいつもどこか余裕がある。まるで、気に入らなかったらいつでも別れる用意があるとでも言うように、深入りせず、深入りさせずの態度を貫いている。記憶を失う前の私はこれに気付いていたのだろうか。気付いていてなお別れられなかったのだとしたら、今回記憶を失ってしまったのも分かるような気がした。
思い出したくないと思ってしまう。
思い出したくない、でも思い出さなくてはいけない。思い出さないと、ヒノエが離れていってしまうから。
電源ボタン一つでメールの画面を消すと、私はそれをベットに投げ出して身体を横たえた。何気なく画面を見ると、投げ出した拍子にどこかのボタンを押したのか、着信履歴が表示されていた。
ヒノエの頑なな態度は、着信履歴にも表れている。ヒノエへの発信はキリがないくらいなのに、着信は数えるほどしかないのだ。私にはどうしても、“由佳”が滑稽な片想いをしているようにしか見えない。
「………本当に、付き合ってたの………?」
思えばヒノエから直接それを聞かされたことはなかった。思い出の場所も、私が頼めば必ず連れていってくれたが、ヒノエから誘われることはなかった。思い出して欲しいと請われることすらない。
それだけじゃない。望美の存在も気になっていた。ヒノエの望美に対する態度は、明らかに私に対するものとは違う。そしてそれは、彼女だった私に対するものより、遥かに大事そうに見えるのだ。私が記憶を無くしたことが、原因かもしれない。でも見ている限りはそれだけとは思えなかった。多分ヒノエは、望美を大事に思っている。
私とヒノエは本当に付き合っていたんだろうか。付き合って、いるんだろうか。
うじうじするのは好きじゃない。性に合わない。聞いてしまってすっきりしたいのに、ヒノエの顔を見ると何も言えなくなる。そうしてもやもやが溜まっていく。いつまでもうじうじ悩んでしまう。こんなの、私らしく、ない。
どうして聞けないのだろう。何度となく繰り返した問いを口に出して呟いてみても、答える声は当然ない。
……本当は、もう分かっていた。どうして聞けないのか。でも認めたくなかった、認めるわけにはいかなかった。
認めたら、忘れた意味がなくなるから。
ごろりと寝返りをうって仰向く。眩しい電灯からかばうために顔の上で両腕をクロスすると、訪れた闇の中にヒノエが浮かんだ。
派手な外見、無駄のない肉体、強靭な精神、よく回る口。判断力も推察力も運動能力もずば抜けて高く、年に似合わないくらいに完成されたヒノエ。どれをとっても私の好みではない。私が好きなのは、ちょっと頼りないくらいの年下の男なんだから。母性本能をくすぐるような、危なっかしい男の子がタイプなんだから。
…でも。ヒノエが時折見せる、悲しそうな顔。年相応の笑顔。それらが、ヒノエを完全さを不安定に見せる。危うい均衡の上にヒノエが立っているかのような、そんなイメージが頭を離れなくなる。
「……ああっ、もう!」
私は勢いをつけて身体を起こした。もういい。もう耐えられない。ヒノエに直接聞いてやる!
私はわざと足音をたてながら、歩いても1分かからない将臣の家へと向かった。
***
「お邪魔しますー」
普段となんら変わらない大きさで宣言しても、広い家の中には届かない。分かっていながらそうしたのは、慣れた家だということもあったが、玄関で望美の靴を見つけたせいでもあった。
靴下のまま廊下を進めば足音はしない。そうしてリビングの扉にたどり着いた時だった。
「姫君の麗しい双眸を曇らせるのはいったいなんだい?」
「ヒノエくん…」
耳に慣れた声が聞こえてきて、私は動きを止めた。ノブに伸ばそうとした手が不自然な形で止まる。
いけない、ここから去らなくては。そう思うのに、身体が動かない。息を潜めて、耳を澄ませてしまう。
「最近浮かない顔ばかりしてるね?どうしたんだい……なんて、オレが聞くのは間違っているのかな?」
「そうだよ。ヒノエくんのせいなんだから」
ここからでは、二人がどうしているのかは見えない。ただ声だけが聞こえて、それが想像力を余計に刺激する。
「オレの心配なんか、するだけ無駄だって言ったって、お前は聞かないんだろうね」
その声はどこまでも優しく、望美を見つめる眼差しが見えるようだった。きっと優しい微笑みを湛えているにちがいない。
「心配するよ!仲間なんだから、当然でしょ?」
「……仲間、ね。」
ざわり、と心臓が騒いだ。仲間。望美にとって、ヒノエは仲間。でも、ヒノエは?ヒノエにとっての望美は、何?
「姫君が心配してるのは、由佳のこと、だろ?」
「うん。…ヒノエくんは、由佳ちゃんが今のままでもいいの?このままお別れして、本当にいいの?」
「…やっぱ、望美はイイ女だね。九郎なんかにはもったいない。今からでも、オレの女にならないかい?」
音をたてないようにゆっくりと、私は胸を掴んだ。痛い。どうしようもなく、胸が痛い。
「ごまかさないで!」
望美が語気を強める。
「本気だと言ったら?」
衣擦れの音がした。どこかで聞いたことがある、記憶のどこかをくすぐる音。
「いや!何するのヒノエくん、やめて!ちゃんと答えて!!」
私は初めて耳を塞いだ。拾える微かな物音から、起こっていることを想像してしまうのが嫌だった。脳裏にはヒノエが望美を抱き締める映像がちらついてはなれない。見ていないのに、見たこともないのに、それはごく自然なイメージで。
「オレは……」
急に静かになったのは、耳を塞いだせいではないと思う。静まった部屋、硬くなった声。それだけでヒノエの真剣さが伝わる。
「今のまま、由佳がオレのことを忘れればいいと思う。…このまま別れるつもりだ」
“だから、オレのことは忘れな”
ヒノエの声が頭を過る。それを引き金に、全ての記憶が戻ってきた。どうしてヒノエを忘れたのかすら、思い出してしまった。それは皮肉にも、忘れていればいいというヒノエの言葉によって。
「ヒノエくん……っ」
ここに来た目的は図らずも果たしてしまった。私は扉に背を向けると、ゆっくりと歩き出す。このまま静かに家を出て、家に帰ってしまおう。一人のベッドで気が済むまで泣いたら、ずっと忘れたままの振りをすればいい。……そう、思ったのに。
『〜〜♪』
不意に携帯が鳴り出して、私は慌ててポケットに手を入れた。扉の向こうでは声が途絶えて、代わりにこちらへ近づく足音がする。
「〜〜、はい、もしもしっ!」
『…っだよ、無駄に元気だなお前?』
私はその足音を無視して電話を取った。ここにいることがバレてしまえば、不自然に逃げ帰るよりも今来ましたとばかりに笑う方がいいに決まっている。逃げ出そうとする足を叱咤して、私は懸命にその場に留まった。電話の向こうから幼馴染みの呑気な声が聞こえて、思わず力が抜ける。
「うるさいわよ。何の用なの?わざわざ電話なんかくれなくても、今あんたん家にいるんだけど」
背後で扉が開く音がする。私は大きく息を吸うと壁に寄り掛かって、顔を見せたヒノエに手をあげて挨拶をした。その顔を見ることは、できない。目を俯かせて電話に集中する振りをする。
『あ?なんだ、家いんのかよ。じゃあお前そのまま待ってろ。ケーキ買ったから』
「ケーキ?どうしたの突然」
『別に、お前が好きな店の前通りかかったからさ。いいか、ちゃんといろよ?』
「何よ、別に逃げないわよ。もともといるつもりで来たんだから」
…視線を痛いくらいに感じるのは、ただの自意識過剰だろうか。いずれにしろ、ヒノエは私の電話が終わるのを待つようにそこに立ったままだ。
『ならいい。じゃあな』
「うん。…あ、将臣」
『ん?』
「……お願いだから、早く帰ってきてね」
『…なんだ、お前?どうかしたのか?』
「早くケーキ食べたいから、よ」
逃げたい。でも逃げられない。今逃げれば、話を聞いていたと証明するようなものだ。そんなバカなことは出来ない。
……でも、どんなにバカでもいいから今すぐそうしたいのが本音だった。戻ってきた記憶と感情、記憶がなかった頃のヒノエの態度、そして今聞いてしまった話。頭の中がごちゃごちゃで、ゆっくり考えて整理したかった。
『食い気かよ!わかった、じゃあな?』
「…うん、じゃあ、待ってる」
…ああ。電話が切れてしまった。ぱたん、携帯を閉じる音が、やけに大きい。
「はろー、ヒノエ。驚かそうと思ったのに、バレちゃったね?ちぇー」
自然に、自然に。そう自分に言い聞かせながら、私はヒノエに歩み寄る。その脇を通りすぎて、リビングに入り、お邪魔〜、とわざと大きな声をあげた。ソファーに座った望美が固い表情でこちらを見ている。
「…由佳ちゃん、いつからそこに…?」
「ん?今来たばっかだよ?…何、何かまずい話でもしてたの?そんな驚いた顔して」
望美の表情があまりにも分かりやす過ぎて、私はついそうからかってしまう。
「大丈夫、盗み聞きなんて趣味の悪いことしないよ。……あ、それともラブシーン邪魔した!?それは悪かっ…」
「由佳ちゃん!ヒノエくんは、由佳ちゃんと付き合ってたんだよ!」
分かってる。冗談が過ぎた。望美が青い顔で大きな声を出すのは、仕方ないこと。でもさっきのヒノエの話を聞いていながら、今なおそう言い張ろうとする望美に、私は胸がすっと冷えていくのを感じてしまった。
「付き合ってた、でしょ?今ヒノエが誰と何しようが、私には関係ないもの。遠慮しなくていいのよ?」
「由佳ちゃん!」
「…それに…」
もうこれ以上、言うべきではない。分かっているのに、言葉は止まってくれなかった。
「初めから、ヒノエが私を好きなようには見えなかったのよね」
くるり、振り向けば、ヒノエは扉のところに立ったままでこちらを見ている。そこにはまたあの無表情が浮かんでいて。ぷちん、と何かが切れた音が、聞こえた気がした。
「ね、ヒノエ?」
遊びだったんでしょ、と、言葉は続かなかった。嗚咽を抑えるのに大きく呼吸をする。泣かない。そう言い聞かせながら。
「私ばっかり。二回もヒノエに恋するなんて、バカみたい」
驚くほど自然に、絶対認めまいとしていたその事実が口をついていた。そう、そうだ。記憶を無くした私も、やっぱりヒノエに恋をした。その危うさに惹かれて、気付けばヒノエのことを考えるようになってしまった。うじうじとその表情の下にある気持ちを探ってしまうくらいに。
ヒノエの無表情が僅かに壊れる。それを見れば少し胸が空いたような気がした。…でも、それだけ。口を開くそぶりも見せない。
私はもう一度望美を見た。私以上に傷ついたような、辛そうな顔で望美はこちらを見ている。これは望美の美徳だ。言い聞かせていないと、私の中で黒い感情が爆発してしまいそうだ。
「望美、将臣に謝っといて」
もう、限界だ。ヒノエの近くにいるのも、望美を見ているのも。約束を破るようで申し訳ないが、帰らせてもらおう。
「え、由佳ちゃん…!」
望美の声は無視。ヒノエの脇を通り過ぎる一瞬、緊張に身体が強ばったが、何もなかった。肯定も否定も何一つ与えられず。
「…好きじゃないなら、初めから抱き締めて欲しくなかったよ…!」
最後に一言だけ言い残すと、後は脇目もふらずに走り出した。
『……オレは熊野に帰る』
そう遠くない未来に、その決断が必要だなんてことは分かっていた。元より住んでいた世界が違えば、いつかは選ばなくてはいけない。住んでいた世界か、愛しい人か、はたまたその両方か。
『…え?』
けれど、私はヒノエがその話を一切切り出さないのはまだその時ではないからだと思っていた。思い込んでいた。その時が来たならば、二人でじっくり話し合って、二人にとって一番いい結論を導き出すのだと、そんな風に先伸ばしにしてしまっていた。
『お前は連れて帰らない』
…だから、ヒノエが何を言っているのか、私は理解が出来なかった。理解を、拒んでいた。
『ちょっと待って、だって…』
混乱する私の言葉を遮って、ヒノエはその言葉を告げた。
『だから、オレのことは忘れな』
どこまでも冷静で、いつも通りな声。それで私は察してしまった。ヒノエの気持ちを。
だから私は、言われた通りに全部忘れることにしたのだ――。
履いてきたサンダルに足を引っ掛けて、玄関を飛び出す。
「うわっ」
扉が閉まるばたんという音を背中で聞きながら、私は柔らかい何かにぶつかっていた。
「…由佳?お前、何してんだ?」
声をかけられ、私はその柔らかい何かの正体を知る。厚い胸板に、勢いのまま縋りついた。
「お?どうした?ケーキ、買ってきたけど…」
「…将臣…」
耳に馴染んだ声。なぜか酷く安心する。涙が落ちる。
「…泣いてんのか?」
「泣いて、ない…!」
涙声で否定する私に、将臣はひとつため息をついた。そして頭を撫でられる。
「はいはい。素直じゃねーな」
「うるさいわ、よ…!」
頭に載せられる手のひらが温かい。それが余計に涙を誘う。
「…ヒノエに、ふられちゃった」
声が震えているのが分かった。自分でもどうしようもなくらい、涙が溢れてくる。将臣の服をぎゅっと握り締めた手が、白くなっているのが見える。でも、力の抜き方が分からない。しわになるかな、なんて頭の片隅で考えてしまうのがおかしい。
「…ヒノエに、って…」
「私、バカみたいだよね。ヒノエのこと、想ってるのが辛くて忘れたのに。またヒノエのこと好きになった。…何度忘れたって、何度だって好きになる」
ばたん、と、玄関の扉が閉まる音がしたのは、その時だった。
驚いて振り返ろうとした私を、将臣の腕が押さえつける。ぎゅっと強く抱かれ、身動きが取れない。
「由佳を離せ、将臣」
聞こえてきたのは、ヒノエの声だった。
「お前はこいつをふったんだろ?だったら俺が何してようと関係ないじゃないか」
「…離せ」
将臣の服を掴む手に、更に力が入った。どうして、それだけが頭を巡る。どうしてヒノエが、ここにいるの。分からない。それにもう、考えたくない。
「聞けないな」
「将臣!」
怒りを含んだ声に、私の方がびくりと震えてしまう。それを感じたのだろう、将臣がわざとらしく背中を撫でた。大きな手のひら。いつの間にこんなに大きくなったのだろう。
「大きな声出すなよ。由佳が怯えてるだろ」
「……」
ヒノエの応えはない。姿が見えないから、沈黙してしまえばそこに本当にヒノエがいるのかも分からなくなってしまう。
「…要らないんなら、俺がもらったって良いだろ?」
将臣のその言葉の意味が分からないほど、私は鈍感なつもりはない。けれど、一瞬その意味が分からずに固まってしまったのは、それが将臣らしくなかったからだ。だって将臣は私のことなんかなんとも思っていないはず。それに、こんなに棘のある話し方、普段ならしない。将臣が何を考えているのか計りかねて、私は黙ったまま身を預けていた。
ヒノエの答えは、ない。当然といえば当然だ。ヒノエは私ををふったのだ。別れるとそういった、一度ならず二度までも。二度も恋をして、二度もふられた。そう考えるとここで期待するなんて…なんて、愚かな。
私は沈黙に耐えられず、将臣の袖を引いた。気が付いた将臣がん?と喉を鳴らして、少し腕の力を緩める。
「もういいから…将臣、私の家に行こう」
ヒノエがいるとおちおち泣いても居られない。それにもうこれ以上、ヒノエと将臣の会話を聞いていたくない。
「はいはい、おヒメサマ」
ようやく解放される。抱きしめられていたのは短い間であるはずなのに、どこか胸の辺りが虚しかった。振り返ればヒノエが居るのは分かっていたから、振り返らずにそのまま行こうとする。けれど。
「きゃっ」
後ろから急に腕を引かれ、バランスを崩した私は悲鳴を上げてしまった。誰かなんて、考えなくても分かる証拠に抱きとめられた瞬間に、すっかり馴染んでしまった匂いが鼻をついた。
「ヒノエ!」
咎める声は、私ではない。将臣だ。私は不用意に受けた背中への衝撃に、息が上手く吸えなくなっていた。不安定な足元を掬われ、抱き上げられる。抵抗よりも、呼吸を取り戻すことが精一杯で、私はヒノエの胸に縋って咳を繰り返すしか出来ない。
「…悪いけど、渡せないね。他の男の胸で泣かせるために手放したわけじゃない」
――何を勝手なことを。 呼吸が落ち着かず、睨みつけることしか出来ない。下から必死に睨んでいると、気が付いたヒノエがこちらに視線を向けた。
「誘ってるのかい?」
「!…最低…!」
けれどヒノエは全く動じずに、私を抱えたまま私の家へと向かった。 抱かれたまま帰宅した私に、母親は何事かと目を丸くしたが、「少し足を痛めてしまったようなので、送ってきました」とヒノエが嘯くと簡単に信じてしまった。すっかり声を出せるようになった私が助けて、と母親に訴えても、「拗ねているんです」とのヒノエのひとことであっさり無視される。結局勝手に部屋にまで上がりこまれ、「ヒノエ君に迷惑かけちゃダメよ?」と母親にまで窘められてしまった。
部屋まで来ればおろしてもらえると思ったのに、ヒノエはベットに座ると器用に私を抱えなおした。向かい合うようにして膝に座る。この体勢なら簡単に腕から抜け出せると思うのに、背中に回った二本の腕に勝てない。これが育った世界の違いだというのだろうか。
「…誰が拗ねてるって?」
抵抗を諦めると、沈黙に耐えかねて口を開いてしまった。
「由佳が変なこと言うからだろ?」
「信じらんない」
信じられない。ヒノエと居たくなくて逃げ出してきたというのに、どうして二人きりで部屋になんかいなきゃいけないのだろう。
いろいろな思いが絡み合って上手く言葉に出来ない。その分を睨むことが解消しようとすると、ヒノエは肩を竦めた。
「…誘ってるのかい?」
思いも寄らない一言に固まっていると、ヒノエは顔を近づけてくる。せめてもの意趣返しに、と私はそのおでこに思いっきり頭突きをかましてやった。
「っ」
それは流石に予想外だったのだろう、ヒノエが痛みに声を上げる。でも、頭突きの弱点を挙げるとしたら私も同じように痛いということだ。手加減なしにやってしまったから、その反動も半端ではなく…
「あれ?」
私はその痛みに、思わず涙をこぼしていた。そしてそれは何故か一度流すと止まらない。ヒノエの前でなんか泣きたくないと思うのに、自分の意思ではどうにもならない。せめて泣き顔を見せまいと俯けば、ヒノエの力強い腕が私の顔を肩に押し付けた。
「…どうして」
ようやくそれだけが言葉になったが、疑問は尽きず、自分でも何を問いたいのかが分からなかった。ヒノエの気持ちか、ヒノエの行動の意味か、それとも自分の涙の訳なのか。
ぽん、ぽんと一定のリズムで頭を撫でられる。将臣とは違う手だ。泣かせてるのはヒノエなのに宥めてるのもヒノエなんて、絶対におかしい。
「…私のことなんか、どうでもいいくせに…」
小さく呟くと、ヒノエの肩がぴくりと反応した。頭を撫でる手が止まり、何故か力いっぱい抱きしめられる。
「好きじゃなかったら、はじめから抱きしめたりしてない」
それは、さっきの私の言葉へのあてつけのつもりなのだろうか。
「じゃあなんで、忘れろなんていうのよ…!」
ヒノエが恋しい。でも、裏切られたことを赦せるわけじゃない。好きだからこそ、愛のない関係なんか耐えられない。少しの期待と、不安と、怒りと、戸惑い。いろんな感情が押し寄せて、言葉に出来ない分私はヒノエの背中を思いっきり叩いた。ヒノエは黙ってなすがままにされている。
「なんで、私が忘れたまま平気そうな顔してるのよ!大事なこと、勝手に独りで決めるのよ!ヒノエなんか、望美の半分も私のこと見てないじゃない!」
自分が何を言っているのかも分からない。それでも溢れる気持ちは止まらない。
「他の女の子口説いたり、望美をデートに誘ったり、平気でするじゃない!私、私ずっと我慢してたのに…」
抱きしめる力が強くなった。手に力が入らなくなって、私は肩を叩くのをやめる。
「嘘つき…!」
そう、ヒノエは嘘つきなんだ。
「嘘つき!ヒノエの言うことなんか、全部嘘じゃない!もうやだ、離してよ…!」
胸の間に手をねじ込もうとして叶わず、私はヒノエの肩に手をかけると身体を離そうとした。でもヒノエが抱きしめる力の方が強い。
「ヒノエなんか、…ヒノエなんか…!」
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。ただ、そこまで言ってしまうと、急に力が抜けてしまった。しゃべることも抗うことも出来ずに、私はただ嗚咽を漏らした。
ヒノエはただ私を抱きしめていた。苦しいくらいに強く。まるで、嘘じゃないんだと伝えようとしているようで、私は胸が痛くなる。まだ期待をしてしまう自分が憎らしい。まだ期待をさせるヒノエが、…。
「好きだ」
不意に耳元で囁かれた。信じられるわけがない。私はゆるゆると首を振った。何がしたいのかは、自分でも分からないけれど。
「好きだ、由佳…お前が好きなんだ」
耳を塞ごうとすると、初めて抱擁が緩んだ。胸が離れると妙に寒い気がする。両の腕をそれぞれに捕まれ、足の上に縫い付けられる。そうして間近から覗き込まれた。
「好きだ」
真っ直ぐに見つめる紅の二つの瞳。私はそれに魅入られたように、動けなくなってしまった。…でも、その言葉を信じることはできない。
「別れるんでしょ…?なんで今更、そんなこと言うのよ…」
「…オレは、ここに残ることがお前のためだと思ってた。だからオレのことは忘れろと言ったし、本当に忘れたんなら思い出す必要はないと思った」
「どうして私のことを勝手に決めるのよ」
「実際、迷っているようだったからね。いつまで続くか分からないこの恋に、一生をかけていいのか」
ずばり、図星を言い当てられて、私は押し黙った。でも私は、二人で悩んでいるつもりだったのだ。この恋ともとの世界、二人で悩んで結論を出すつもりだった。
「…オレはお前が本当に大事だから、お前が幸せならそれが俺の傍でなくてもいいと思ったんだ」
いつもくさい台詞を平気で並べているくせに、照れたように少し笑っているのは、それが本音だから?
「でも、もう止めにする」
ヒノエはキッパリと言い切ると、再び私を抱きしめた。不意を打たれ、抵抗も出来ずに強い力で閉じ込められる。
「もう離さない。お前を熊野に連れて行くよ」
「ばか…また、勝手に…」
「お前が記憶を無くしてから、ずっと考えてた。いつもと同じ声で、同じようにオレを呼ぶのに、オレのことを覚えてないってのは…正直、辛かった。忘れろなんていっておきながら、勝手だけどな…幸せでいてくれたらそれでいいと思ったけど…それがオレの隣なら、もっといいって思うようになってた」
ヒノエの肩が微かに震えている。きっとこれは、力を入れているせいだけではない。
「お前が忘れたままなら、このまま帰ろうと思ってたよ。でも、またオレに恋をしたって言われて…ようやく覚悟した」
ヒノエが大きく呼吸をするのが分かる。胸が膨らんでしぼむのも、心臓が打つ早さも、全部伝わってくる。
「オレが幸せにするから…熊野に来なよ」
震えてるのはきっと…私の返事が、不安だから。
「…私がどんだけ辛かったか、分かる…?」
だからこそ私は、その返事を先延ばしにした。せめてものお仕置きだ。
「ヒノエにとっての熊野がどんなに大事かなんて、話聞いてたら分かるよ。いつかそんな話されるだろうって思ってた。その時になったら二人で話し合って、納得の行く結論出そうって」
でも、実際は違った。ヒノエは勝手に決めて、私に宣告をした。その時の私がどんなに辛かったか、ヒノエは本当に分かっているのだろうか。
「私なんか、どうでもいいのかなって、思うじゃん…!」
その絶望感が、あの日溺れたショックと相まって、私からヒノエを奪った。ヒノエを説得するとかどうとか全部通り越して、言われた通りに忘れてやると意地になってしまった。
「…思い出したのかい?」
「思い出したよ、全部!辛かったのも、悲しかったのも!」
ヒノエの力が強くなる。苦しいよ、と訴えても聞いてくれない。
「悪かった。お前が嫌なら、もう他の誰も口説かないよ。望美とも必要以上に近づかないように気をつける」
「そういう話じゃない…」
「じゃあ、どうしたら頷いてくれるんだい?」
見えるはずもないのに、ヒノエの表情が分かるような気がした。少し瞳を揺らして、それでも毅然と見つめようとしてくる。不安を隠そうとするその姿が不安定さを際立たせる…私がどうしようもなく、惹かれてしまうところ。
「約束して。この先、何があっても、離さないって…」
「由佳が嫌がっても、もう離さないよ」
「ホントに?」
「本当さ」
「…じゃあ、…」
私は少しだけ意地悪を思いついて、こっそりと微笑んだ。本当はもう熊野に行っても良いと思っているけれど、すぐに許してしまうのは、なんとなく割に合わない気がするから。
「私にそれを信じさせてくれたら、熊野に行っても良いわ」
私がそれを信じるのは、そう先の話じゃない。
「…じゃあ…オレの全部で、わからせてやるよ」
挑戦的なヒノエの台詞に返事をする前に、私の唇は塞がれていた。
end
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