すべてのひとがゆくところの続編です



 初めて#name#さんに会った時、#name#さんは俺の顔を眺めまわして「お父さんによく似てるのね」と言った。
「顔がそっくり。あっ、でも髪の毛はお母さん似なのか。かわいい」


 #name#さんは、ある日突然俺の前に現れた。
五条先生に連れられて。
五条先生が俺の後見人になってから、しばらく後のことだったと思う。俺はまだ小学校の低学年だった。
五条先生は「#name#だよ」とだけ言って、あとは少し離れたところで黙ってこっちを見ていた。
それ以上の説明はなかった。
だから、それが目の前の女性の名前の名前だということだけがかろうじて分かっていた。
#name#さん、はにこにこしながら、長い時間俺の顔を眺めていた。それから、満足したような表情でふっと頷いて、帰っていった。


 その頃、俺の周りにはろくでもない大人が多かった。
五条先生なんかはその筆頭だった。
だから自分の前に現れる人間が善い人間なのか、ろくでもない人間なのかをすぐに見極める必要があった。それは多分、自分の生きるテリトリーを確保するための行動だった。
#name#さんがどんな人間なのかは……よく分からなかった。
変な人だとは思う。しかしその笑顔には一切の屈託がなくて、眩しいものでも見るみたいに俺の顔を見つめていた。
 そして俺はその笑顔を前にして、判断を保留にしてしまった。

 #name#さんは、それ以来、時々うちに来るようになった。
 俺と津美紀の暮らすアパートに、手土産を持って遊びに来る。手土産はいつも高そうな菓子折りだった。甘いものばかり。
「これ、悟君から」
#name#さんは必ずそう言った。
包装用紙で厳重に包まれて、デパートの紙袋に入っているそれを受けとる。
適当に茶を用意して、菓子の箱を開ける。
#name#さんは、俺の学校のことや、普段の生活の様子を訊いてきた。俺は適当に答えた。あとは、近所に住み着いている野良猫の話とか、テレビのニュースの話とか。それにも俺は適当に答えた。
どんなに適当な相槌を返しても、#name#さんはいつも嬉しそうに聞いていた。

 #name#さんと津美紀はいつの間にか仲良くなっていた。
先に津美紀が学校から帰っていて、俺が後から帰ると、既に#name#さんが来ていることもあった。
玄関を開けると、二人の談笑する声が聞こえてきて、居間に入ると二人に「おかえり」と言われる。そのまま俺が帰ってくる前の話の続きに戻っていく。そういう時はなんだか妙な気分になった。学校で、津美紀とその同級生の女子がいるところに鉢合わせた時のような気分に。#name#さんは大人のはずなのに。


 俺は将来呪術師になることを担保として差しだして生きていた。やがて五条先生の任務に同行するようにもなっていった。
呪術界のこと、禪院家のこと。五条先生が断片的にしか教えてくれなかった事柄は、家入さんや伊地知さんが少しずつ教えてくれた。
#name#さんは呪術師か、補助監督か窓なんだと思っていた。五条先生の関係者で、俺の前に突然現れた人。誰かに改めて確認したわけではなく、まあそうなんだろうと自分の中で納得していた。
中学に上がるぐらいの時だったと思う。その頃には否が応でも呪術界に知り合いが増えていた。でも#name#さんが任務に出ているところは見たことがないなと、ふと気がついた。

「#name#さんって、何級ですか?」
「なんきゅう……軟球?」
「術師じゃないんですね。補助監督なんですか?」
「かんとく……?」
「……」
「監督?なに?野球の話?」
「いや……いいです。忘れてください」

 五条先生は肝心なことを教えてくれない。訊かれない限りは。
 任務の後、二人だけでいるときに自分から切り出してみた。
「#name#さんって、何者なんですか」
「何者?」
「術師か補助監督だと思ってました。違うんですね」
「えー、全然違うよ。見て分からない?今までそんなことも分かってなかったの?」
先生は俺が眉を顰めてもおかまいなく話を続けた。
「#name#はね、おまえのろくでなし親父の愛人だよ。元愛人、って言ったらいいかな。それで、今は僕のヒモ。あれ、女の場合もヒモって言っていいんだっけ?とにかく今は僕の用意した家に暮らして僕からお小遣いもらってる。僕が飼っ……てる?うーん、やっぱヒモかな」
「俺に、会いに来たのは」
「伏黒甚爾の息子を見たいか、って訊いたら、見たいっていうから、見せてやったの。というわけで」
額を指でこつんと突かれた。
「というわけで、あのアバズレに何かされそうになったらちゃんと僕に相談するんだよ」


「あんた、俺の親父の愛人で、今は五条さんのヒモって、本当ですか」
そのまま言った。
「それ、悟君が言ったの?」
#name#さんは、「ヒモ」と繰り返した。
「教育に悪いなあ……」
まるで五条先生を前にした時の俺みたいに眉を顰めて、紅茶を啜っていた。
うちの来客用のカップは#name#さんぐらいにしか使われない。自分の分はマグカップに適当に注いだ。
「そうだよ」
紅茶は、#name#さんが持ってきた。オレンジとベリーとチョコレートの香りのする茶葉だった。
「昔は甚爾君が私のヒモだったの。それから私は悟君のヒモになったの」
#name#さんは事も無げに言った。
「恵君は、好きな子ができたらちゃんと大事にするんだよ。今好きな子いる?」
「別に、いません」
「そっか」
「大事にされなかったんですか」
「え、そんなことないよ。ずっと優しかったよ。でも最後は置いてかれちゃったから」
俺はマグカップの水面に目を落とした。
「あれ、紅茶だめだった?さっきから全然減ってないけど」
「別に、だめじゃないです」
本当は紅茶よりコーヒーが好きだった。特に香りの強い紅茶、甘い香りがするのに甘い味がついているわけではない茶葉はどこか違和感があって嫌いだった。なぜかそのことに気がつかれたくなくて、一気に飲み干した。甘ったるい香りが通り抜けて、喉に渋みが残った。


 一度、#name#さんの家に行ったことがある。

 出張中の五条先生から電話がかかってきて、「なんかあいつ風邪で動けないんだって。恵が様子見てきてよ」と言われた。後からメールで住所が送られてきた。俺は、#name#さんの連絡先を知らなかった。どこに住んでいるかもその時初めて知った。

 ゼリーやレトルトのお粥、解熱剤やスポーツドリンクなどを買いこんで、#name#さんの家へ向かった。
五条先生から送られてきたのは、住所とマンションの名前、部屋番号だけだったので、自分で検索して最寄り駅を調べた。
駅から徒歩5分。閑静な住宅街、と呼ぶのがふさわしい街に聳え立つタワーマンションにたどり着いた。
エントランスは当然のようにオートロックだった。
インターホンの前に立ち、部屋番号と呼び出しのボタンを押した。なかなか出なかった。もう一回ボタンを押した。
「はい」
と、ぼんやりした、小さな声がスピーカーから聞こえた。
「俺、です、伏黒です」
上ずった声が出てしまった。
「ええ、恵君なの?」
「はい」
「おみまい来てくれたの?ありがと、ごめんね。今開けるから」
オートロックの鍵が開く音がやたらと大きく響いた。

エレベーターに乗って、教えられた階のボタンを押した。
上へあがっていくに連れて、ざわざわとした、神経に障る感覚があった。

 エレベーターは最上階で止まった。
「いらっしゃい」
#name#さんの部屋にはエグい結界が幾重にも張られていた。
よく見知った呪力の流れがそこにはあった。
「よく来たねえ。どうやってここまで来たの?場所わかった?」
「五条さんに、聞いて」
「人使い荒いなあ。わざわざごめんね」
#name#さんの声は熱っぽかった。
「あがってあがって」
#name#さんに促されて、靴を脱いで家に上がる。
「あんた、こんなとこにいて、なんともないんですか」
「なんともなくはないよお。熱出て、しんどくて……ここ、高すぎて下まで降りるの面倒なんだよねえ」
 力の入らない笑みを浮かべて「お茶煎れるから」と言いながらふらふらした足取りでキッチンに向かおうとする#name#さんを押しとどめる寝室に連れて行き、キングサイズのベッドに寝かしつけた。
それからキッチンに行き冷蔵庫を開けてみた。ほとんど何も入っていなかった。水のボトルと、何故か板チョコレートが七枚。
買い物をしてきてよかったと思った。ゼリーやレトルト食品を冷蔵庫に放りこんだ。
 どの部屋も広くて、清潔で、殺風景だった。リビングには大きなソファーとこれも大きな薄型モニターのテレビがあった。家具と言えるものはそれくらいだった。雑誌だとかチラシだとか観葉植物のようなものは置かれていなかった。数日間買い物に行けていないのだろうということを差しおいても、この場所で普段生活をしているイメージが湧いてこなかった。
なんとなくリビングの窓のカーテンを開けて、外を見た。遠くの景色までよく見渡せた。

 濡れタオルを作って、薬とスポーツドリンクを持って寝室に戻った。
白くて広いシーツの中へ沈みこむように#name#さんは眠っていた。
人の看病などをするのは久しぶりだった。この頃には、自分も幼い時とは違って風邪をひいたとしても看病が必要なほど寝こむようなことはなくなっていた。
水に濡らしたタオルを額にのせた。
「だれ……?」
「伏黒ですよ。大丈夫ですか?」
「かぎ……」
「鍵?」
「鍵が、かかってたのに」
「カギって、なんですか」
「鍵を……あげたの……わたしの」
「家の鍵のことですか?ここ玄関もオートロックだったからちゃんと閉まってます」
タオルをずらして顔を覗きこむと、#name#さんはゆっくり目を開けてまばたきをした。
「……ほんとに大丈夫ですか?」
「めぐみ?…………恵くん、」
「はい」
「恵くん」
なにかを確認するように、恵、と名前を何度か呼ばれた。
少しずつ、声に力が戻ってきた。
「恵って、いい名前だね。綺麗な名前……」
#name#さんはいつものように、でもいつもよりも焦点の合わない瞳で、俺の顔をじっと見つめていた。
「来てくれてありがとうね」
「別に、いいですから……寝てください」
それでも、寝てくださいと言うと素直に目を閉じた。睫毛が長い。
五条先生は何を考えて俺をここへよこしたのだろう。何も考えていないのかもしれない。
部屋の中は静かだった。
あまりここに長居はしたくないと思った。
「もう帰ります。必要なものは冷蔵庫に入れときましたから」
「うん。ありがとう。気をつけてね」
 オートロックの玄関を出た後、振り返って部屋を見た。
結界に隅々まで覆い隠されていて、独特の圧迫感が漂っていた。


 俺が中学三年の時だった。津美紀が倒れて、昏睡状態になった。
津美紀は入院した。伊地知さん達は、俺が一人で暮らすことを心配してくれて高専の寮や都内に引っ越すことを提案してくれたりもした。結局はその提案を断って自宅に残ることにした。
#name#さんから津美紀の見舞いに行きたいと言われた時には、「原因不明の昏睡で親族以外の面会謝絶」と説明した。別に嘘は言っていない。でも、それを聞いた#name#さんの顔に珍しく困惑と不安の表情を見た時、頭の隅に罪悪感のようなものがよぎった。
 #name#さんがうちに来る回数は、少し増えた。「ちょいちょい様子見てきて、って、悟君にも言われたから」とのことだった。

 「様子を見る」とは、本当に「見る」というだけのことで、家事を手伝うでもなく、今まで通り自分で持ってきた菓子折りを開けてしばらく他愛のない雑談をしては帰っていった。別に世話を焼いたり、気を遣ってほしかったわけではない。出会った時からずっと変わらない様子の#name#さんに対して、理不尽に苛立って、安心して、また苛立ったりしていた。


 その日も、#name#さんは居間に座ってじっと俺の事を眺めていた。
俺は流しで皿を洗っていた。
流し台の上の電気をつけ忘れたままで、わざわざ手を洗って電気をつけに行くのも面倒で、居間から漏れる明かりを頼りに皿を洗い続けていた。
部屋の中は全体的に薄暗かった。夜だった。
寒い季節で、廊下の空気は冷たかった。
「こんな夜中に来なくても」
「だって、昼間は学校でしょ」
「男の一人暮らしの家に軽々しく来るもんじゃないですよ」
#name#さんは一度まばたきをした後、澄んだあかるい声で
「私のこと好きなの?」
と口にした。
俺は何も言えずに黙って俯いた。
「えっ…………ほんとに?ほんとにそうなの?」
#name#さんはほんとに?と繰り返した。俯いたままの俺の表情を見ようとしている、その視線を感じた。
俺は何も答えなかった。否定も肯定もしたくなかった。顔も見られたくない。
一度綺麗になったコップを、また手にして洗い始めた。
「私、恵君の恋人になってもいいよ」
「な、んで、そうなるんですか」
「恵君、私のこと好きなんだよね。だったら恋人になってもいいよ」
「あんたは俺の事好きじゃないでしょう。思ってもないことを言わないでください」
「好きだよ。恵君はかわいいよ」
「あんたの、それは、違う……ほんとは、」
「好きじゃないとだめなの?」
#name#さんはいつの間にか俺の背後に立っていた。
後ろからそっと腕をまわされて、洗剤の泡のついた指に触れられた。
「恵君は、私に何をしてもいいんだよ」
コップが手から滑り落ちた。プラスチック製だから割れなかった。シンクに当たって、かたん、と軽い音だけが鳴った。


 渋谷事変が起こった。
五条悟に永久追放処分が下された。
渋谷から戻り、五条先生の処分が決定した後。俺は一人で#name#さんのマンションへと向かった。

マンションの周囲は以前と同じ静けさだった。
しかし結界は破られている。
開け放たれた玄関ドアの向こうで、#name#さんは五条家の人間達に取り囲まれていた。
全員武器を持っている。
間に合わない。咄嗟に玉犬を呼ぶ。
玉犬は人垣を蹴散らしてゆく。どよめきが起こり、視線がこちらに集中する。

「禪院家当主として命じます。手を引いてください。この人は俺の婚約者です」
息を吸いこんで、できるだけ冷静な声で宣言した。


「おっきい犬だったねえ」
#name#さんは、今まさに殺されそうになっていたということが分かっているのか、いないのか、いつも通りにこにこと笑いながら俺についてきていた。しっかりとした足取りで歩いている。
俺は、この人のことも死なせたくない。
「これから俺が用意した部屋に行きます。そこなら安全なんで、しばらく大人しくしていてください」
伊地知さんに頼んで、セーフハウスを手配してもらった。一旦身を隠せば、御三家の人間も上層部も深追いはしないだろう。彼らは#name#さんのことを「五条悟の妾うちの一人」と認識していた。二人目や三人目がいるのかは分からない。いないと思うし、仮にいてもそこまで面倒を見るつもりはない。
要するに、向こうが切るべきカードは他にいくらでもある。そもそも#name#さんのことを把握されたのも予想外だった。
「私、恵君のお嫁さんになるの?」
ふと思い出したように、#name#さんはそう口にした。
「あれは、ああ言うしか場を収める方法がなかったんです。嘘なんで、気にしないでください」
セーフハウスまで送り届けて、その後は高専に戻って……うまく考えがまとまらなかった。やるべきことはいくらでもあるはずで、歩きながら、周囲を警戒しながら、頭の中で計画をまとめようとする。
「ねえ、今すごい怖い顔してる。恵君はいろいろ一人で背負いこみすぎだよ。もっと同い年の可愛い彼女とか作って遊びなよ」
俺は一瞬言葉に詰まった。
「今さら、あんたが、そんなこと言うんですか」
「禪院って、甚爾君の実家でしょ。あんまり良くないお家だ。そんなとこ行くのやめな」
「それも、まあ説得するために持ちだしただけで……あんたが気にすることじゃないです」
「じゃあさ、ほんとに恵君がひとりならさ、私、恵くんのものになってもいいよ」
思わず立ち止まった。
この区域は住民の避難が完了しているらしい。街には車も人もいない。
「いいよって、ずっと言ってるでしょ」
俺だって同じだ。この人になら何をされてもいいと思う。だけど頷くわけにはいなかった。
「あんたは今、五条さんのものだ。でも、五条さんのことも好きじゃない。俺のことも。あんたはずっと、あいつのことだけを見てる」
「あいつって?」
「分かるでしょう。あんたはずっと、俺を通して俺じゃない奴のことを見てた」
 俺の父親がいなかったら。五条先生がいなかったら。そもそも#name#さんは俺と会うこともなかった。そして俺の顔を見て眩しそうに笑うこともなかっただろう。仮定には意味がない。俺はそういう#name#さんのことを好きになってしまった。
「それじゃあだめなの?」
「だめです」
「そっか。恵君は欲張りになったね」
俺と#name#さんは、高層マンションが建ち並ぶ谷間のような場所にいる。二人きりで。街は静かだった。


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