朝起きたら隣に虎杖はいなかった。朝日がベッドに差していた。まだ日差しは柔らかい。カーテンを開けると、ヤモリが転がり落ちてきてどこかに消えた。早朝の湿った空気を吸う。階下から、とんとんとん、と音がする。多分、宿儺が朝ごはんを作っているのだ。包丁の音は、小さくてもよく通る。
 階下に降りる。キッチンの横の椅子に腰かけて、宿儺に声をかける。

「おはよう。朝早いね。虎杖どこにいるか知ってる?」
「外だろう」
「ええ、散歩?大丈夫かな」
 包丁の軽やかな音と、湯の沸く音に耳を傾ける。優しい音楽のようだ。鍋で何かを煮ている湯気が漂ってきた。うすあまい匂いがする。粥だろうか。私は銘々の食器を棚から出してくる。
 玄関のドアが開く音がした。虎杖が帰ってきたみたいだ。
「おはよう、虎杖」
 熱はもう平気なのだろうか。様子をうかがう。普段通りの顔をしていた。
「おはよう、花名島」

 それからは特になにごともなく過ごした。これまでと同じ、眠ったり、起きたり、ご飯を食べたり、なんにもしないバカンス。そうこうしているうちに、滞在最終日になった。早めに起きて朝ごはんを済ませる。荷物をまとめてから、チェックアウトを済ませ、迎えのタクシーを待っている。コテージの管理人家族からは、お土産としてお菓子とか果物を抱えきれないぐらい沢山もらって、とても丁寧に送りだしてもらった。お礼に奢る、なんて言っていたのに、虎杖には助けてもらってばっかりだ。そして虎杖は誰かを助けてばかりいる気がする。

 行きと同じく一時間のフライトで、スワンナプーム国際空港に着く。手荷物を受け取った後、お土産屋をなんとなく眺めたりしていた。蒸し暑いであろう外に出て行くのを、先延ばしにしたくて。冷房の効いた空間から雨季のど真ん中に出ていくのはいつも勇気が必要だ。ガイドブックを開いてみたりドライフルーツを見比べたりして、一通り土産物屋をひやかし終わった。そして意を決して踏みだした自動ドアのところで、何かにつまずいた。
よろめいて転びそうになった私を、虎杖の腕が抱きとめる。
「おわ、ごめん。ありがと」
 振り返って床を見たが、そこには何もなかった。何か、そこそこの大きさのあるものに足をひっかけてつまずいたと思ったのに。
「俺が絶対に花名島のことを守るよ。そばにいて守るから。だから何かあったらなんでも言って」
虎杖は真剣な顔をしていた。腕に、ぐっ、と力がこめられる。
「え、なに、大げさだよ」

 私たちのバンコクへ帰ってきた。乱がわしき、美しき都へ。自転車が通り過ぎる。手をつないで歩く母と子の横を、学生の集団が追い越していく。クラクションが鳴る。二人乗りのスクーターがスピードを上げる。
 太陽はじりじりと照りつける。
「…………暑いな」
 虎杖が呟いた。首筋を汗が伝う。
「地獄みたいに暑いね」
 宿儺が顔をこちらに向ける。熱気の中で、宿儺の赤い瞳だけは冷気に冴えた月のようだった。
 人波の中に、一歩を踏みだす。私たちは混沌の街に紛れていく。

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