滞在七日目の夕方のことだった。食堂に三人で出向き、早めの夕食を終わらせた。食後のお茶を飲みながらだらだらしていると、食堂の外に人が集まって何事か話しているのが見えた。人が入れ替わり立ち代わり輪に加わり、ざわつき始めた。
「なにかあったのかな」
 人だかりの中心でコテージの管理人夫妻が心配そうな顔で話し合っていた。虎杖が夫妻に話しかける。
「ネンが昼に遊びに出たまま帰ってこないって」
 元気だけれどいい子で、毎日夕方は家のお手伝いするからって帰ってきてたのに、と虎杖は心配そうな顔をする。虎杖はちょっと見てくる、と駆けだして行った。すぐに戻ってきて、このへんにはいかった、と言う。夫妻が、どの家の庭にも畑にもいなかったんです、と話している。
 宿儺が虎杖の目をじっと見つめる。虎杖は宿儺に近寄って耳元で何か呟く。私には分からないやりとりがあった後で、虎杖は集落の人の一人に声をかける。
「このあたりに、長い間使われていない祠……ほこらってなんていうんだっけ、ピーを……ピーのお祭りをする場所はありますか?」
「ピーの……それならいくつもあるけれど、長く使われていないものかい?」
「手入れされていない、とか。人があまり入らない場所にあるとか」
「森のの方にひとつあったはずだ。長いこと手を入れられなくてね」
 森の方にあったはずだと言った老人から、虎杖は詳しい場所を聞きだした。
「ピー?って何?」
「この土地の、いわば産土神のようなものだ」
森の方に目を向けた。もうすぐ日が落ちるだろう。
「俺、行ってくる」
「わ、私も行く」
「だめ。危ないから花名島はここで待ってて。みんなも、あぶないから、ここでまってて」
 虎杖はぐるりと周囲を見回して声をかけ、あっと言う間に森へ向けて走りだしてしまった。
「ねえ……宿儺、」
話しかけようとして気がついたが、宿儺もいつの間にか姿を消していた。

 二時間が経過した。あたりはすっかり暗くなっていた。私は一人で、食堂で待たせてもらっている。落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返してしまっていた。食堂のおばさんが、あたたかいお茶を煎れてくれる。お茶を一口飲むと少し落ち着いた。祠の詳しい場所を教えてくれたお爺さんが、「あの子なら大丈夫」と声をかけてくれた。ご迷惑をおかけしてすみません、と何度も繰り返す夫妻に、気にしないでください、はやく帰ってくるといいですね、と返す。気にしないでほしいのは本当だ。心配そうな表情が胸に痛い。
 私がお茶を飲みほす頃、虎杖が帰ってきた。泥や木の葉で汚れてはいるが、怪我はないようだ。男の子を、ネンをしっかりと抱いている。ネンは地面に降ろされると、しっかりした足取りで夫妻の方に駆け寄った。両親の顔を見たとたん、緊張が解けたのかわっと泣きだした。
「お化けがいた。お化けがいて、帰れなかった。お兄ちゃんが助けてくれた。お化け、やっつけてくれた」
 しゃくりあげながら訴えかける。奥さんはネンをしっかりと抱きしめ、叱り、それから虎杖たちの方へ向き直って頭を下げた。
「怪我もないし、大丈夫だよ。でもこれからは一人で森の奥まで行っちゃだめだからね。お化けを見たら、すぐに逃げるんだよ」
宿儺はいなくなった時と同じく、音もなく背後の宵闇から現れた。
「暇つぶし程度にはなった。帰るぞ」
結局宿儺は森までついて行っていたのだろうか。分からなかった。しかしいつもと変わらない態度がかえって安心を誘った。

 コテージに帰りつき、真夜中になってから、虎杖が熱を出した。
「やっぱりどこか怪我してた?風邪?」
「そういうんじゃないから、平気」
 私の持っていた解熱鎮痛剤を飲んでもらう。
「お医者さん呼ぼうか」
「一晩寝たらよくなるから。前にもなったことあるから分かるんだ。大丈夫」
 虎杖はそう言ってきかない。朝になっても熱が引かなかったら病院行こう、と約束して、寝室に連れていく。ペットボトルの水を飲ませて、ベッドに寝かせた。額に水を絞ったタオルを置く。
「他に欲しいものある?何か持ってこようか」
 部屋を出ようとした私の腕を、汗ばんだ手のひらが掴んだ。
「さみしい。そばにいて」
 熱に揺らいだ、思わず漏れてしまったというような声だった。手を引かれて、ベッドの上に座る。一重の瞼が、ゆっくりと閉じられた。
 
 はっと目を覚ます。部屋は暗い。月の薄明りだけがある。いつの間にか私も眠っていたようだ。しばらくして闇に目が慣れてきたので、時計で時間を確認する。深夜二時。
 虎杖は目を瞑ったまま寝息を立てている。額のタオルを取って、手を当ててみる。平熱に下がっているようだ。ほっと肩の力を抜く。
意識は冴えきっていたので、二度寝はできそうになかった。部屋の壁や窓に所在なく目をやる。丸めたTシャツが床の隅に無造作に置かれていた。
虎杖が身じろぎをする。
「起こした?」
「いや、起きてた。だいぶ良くなったよ」
すっきりした顔をしていた。軽い身のこなしで起きあがる。
「でも、まだ寝てなよ」
と言って押しとどめると、虎杖は素直に横になった。
「寝てる。寝てるからさあ、なんかお話して」
「お話?お話なんかできるかなあ」
「なんでもいいよ」
「なんでも……面白い話はできないけれど」
「面白い話じゃなくていいよ。花名島のこと聞きたい」
 ふと、今なら話せる、と思った。今なら。この人なら。この場所でならば。
そして私は長い長い身の上話を始めた。

「私、生まれは日本なの。日本の関西の、海沿いの街が故郷なの。ちなみに五月生まれだよ。祖父母は父方も母方のほうも、わりと早くに亡くなってしまってね。私が中学に上がるころには完全に核家族だったかな。兄弟はいなかったから、私と両親の三人家族。両親は貿易会社を経営してた。小さい会社で、関西に本社が、東京に営業所があるだけだった。それで、私が高校一年生の時だから、今から十年前の話になるかな。両親はよく揃って東京の営業所に出張してた。お土産が楽しみだったな。とにかく、私が高校一年生の時、父と母は揃って恒例の東京出張に出かけたの。気の若い夫婦でね。商談が終わって、今から渋谷でデートです、って母からメールが来たの。2018年の10月31日の、夜の渋谷だった。……誰でも知ってるよね。そういうことだったの。遺体が見つかっただけでも奇跡だって。でも……私は見ていないの。親戚が確認した。棺の窓は開かないようになっていた。…………手、だけ見たの。刃物で切り刻まれたみたいな傷があった。それから」
私は浅く息を吸った。
「それから、私はずっと眠ってた。学校を休んで眠ってた。葬式が終わってからずっと、自分の部屋で眠り続けてたの。忌引きの休暇を使い切ったら、出席日数をぎりぎり稼ぐために登校する以外はずっと家で寝てた。高校三年間ほぼずっと寝てたことになるかな。不思議な夢を見るようになったのはこの頃、だと思うんだけど。もっと前からかもしれない。記憶が曖昧で分からないな。それで、ある日起きたら私は決めていたの。私は高校を卒業したら日本を出て、海を越えて、バンコクに住むと。夢を見て、そう決めた、としか言いようがない。その考えは、両親を失った悲しみとはまったく別の場所から私の中にやってきたように思えたの。夢の中からやってきて、私を強く惹きつける。でもそれをそのまま言って周りの人に納得してもらえそうにはなかった。担任の先生には大学に行けって言われた。通ってたとこけっこう進学校だったんだよ。親の遺産で遊び歩くなんて、とも言われたかな。悲しいことがあったけれど一緒に頑張ろうよ、って同級生が言ってくれたかな。もう何も言われたくなかったのに。もう何もしたくなかったのに。夢から覚めたくなかった。本当のことなんて意味がない。本当のことについて、聞きたくないし話したくもない。何もしたくなくて、ずっと寝てた。私、見える側の、人間だって、最初に会った時言ったけど、そういうの全然分からないんだよ。ずっと見ないフリしてる。事件のニュースも見なかったし。その時も、ずっと後になってからも。何も知りたくなかったから。私に起こったひどいことは、私にしか分からない。両親の会社はね、親戚が継いだ。遺産を分配して、私は経営には今後一切関わらないことにした。あ、でも別に悪い人達じゃなかったよ。遺産と沢山の保険金と、少しだけれど政府から弔慰金が出た。それを全部持ってタイに移り住んだの。お金があるのは本当って言ったでしょ。まあ、無限じゃないけど、何もせず、ただ生活しているだけだから」
 虎杖は大きな目を見開いて、暗闇の中でこちらを見ていた。私は夢中で話しすぎていたことに気がついた。
「悲しい話だったね。ごめんね。虎杖って私の一歳下?だっけ。その時って日本に住んでたんだっけ。そうだよね。急にこんな、悲しいし、夢とかわけ分かんない話して」
ごめんね、と言いかけた声を、虎杖が遮った。
「ううん。謝らないで。謝ることなんてないよ。大事なことを、話してくれて、ありがとう」
 枕元に置いてあったペットボトルの水を勧めた。虎杖は水を一口飲んだ。
「こんな話をしたのは虎杖が初めてだよ。私が何を思ったとか思わなかったとか、そういう話を。虎杖に、会えて、よかったよ」
 そこまで吐きだすように語って、急に眠気がやってきた。虎杖の隣に横たわる。体の力が抜けて、また眠りに落ちていった。





黒い爪が、黒い空に言霊を生みだす。一画、二画。四角が、ひとつ、ふたつ、ふたつめの四角は二本の脚に支えられている。空になぞられる文字を読む。
「しゆという字をなんと書く」
「口から吐き出す言葉でひとを呪うのです」
「違う。くち、ではなく、あれは祭文を納める器の形だ。神への祈り……」
「あなたは神。あなたは王。あなたは人。わたしの死。わたしの祝い、わたしの呪い」
虎が甘く鳴く。虎が隣にいた。昏い地に伏せて、うなり声を上げている。
四つの瞳に射られている。二つの口が、再び問いかける。
「人の呪いは塔を建て、城門に血を注ぎ、石に字を刻み、灯籠に火を灯した。お前は何を為す」
 虎に身を寄せる。毛皮の温みが伝わる。虎はうなり声を上げる。
 「わたしを食べて」





 午前四時。虎杖悠仁は吹き抜けの階段の踊り場に佇んでいた。夜明けまではまだ遠く、まだ暗い。午前四時、全ては静止していた。階段の上に、人影が現れる。その場に立ち尽くしたまま、虎杖は影を見上げる。
「俺は縛りを違えていないぞ」
 夜のしじまに両面宿儺の声が響く。
「俺は一人の人間も呪ってはいないし、あの娘に指一本触れてはいない。俺は眠り、夢の中で目覚め、魂の中を歩き、心の淵で呼んだだけだ。あの娘が心の底に持っていた願望に呼びかけた。そしてあれは呼び声に応えた」
 虎杖悠仁は掌を握りしめて、両面宿儺を見上げている。
「心の底には眠りへの、夢への執着があった。永遠の眠りというものを渇望していた。俺があの娘の父母を殺めた時から道筋はできていた。血を介した道だ。そして道筋を通して、望むものを夢に引きこんだのはあの娘自身の力だ。夢見とはまた古い呪法を使ったものよ。俺は縛りを違えていないぞ。お前が手出しをしなければその渇望は叶えられたものを。あやつを拾いあげたのは、お前だ」
 両面宿儺は声を上げて笑った。笑い声は虎杖悠仁の人生の過去、現在、未来を貫いて響き渡り続けている。
人間の悪意の底。
「だがまあ、どのような下賤の者からも学ぶことはあるものよ。『人間の魂は何度でも殺せる』」

- 9 -

*前次#


long
top