スクンビット通りで右折してきたダットサンにはね飛ばされて私の体は宙を舞った。衝撃、飛び交う怒号、青い空、工事現場、通りに並ぶビル。全てがスローモーションで流れていく。スローモーションの後に予期した衝撃は訪れなかった。何かに抱きとめられていた。腕。人の腕の中にいる。
「お姉さん、大丈夫?」
人間、男の子、茶色い目をした人の、腕の中に私はいた。
群衆のざわめき。その向こうから、ひとつの影が街角を曲がって現れた。私に呼びかける人々の声に応えられないまま、私の目は雑踏に降りた人影に吸い寄せられていた。赤い瞳、黒い刺青。麗しき姿。
「面白い拾いものをしたな、小僧」
赤い瞳が、私を覗きこんでいた。強い眩暈に襲われて、そのまま意識を失った。
目が覚めると病院のベッドの上にいた。天井が、白い。
「お、よかった、目が覚めた。俺の声、聞こえてる?ここ病院だから、安心してね。看護師さん呼ぶね」
ベッドの横に腰掛けていた青年が、ナースコールを押した。意識を失う前、私に「大丈夫?」と呼びかけていた声と、たぶん同じだ。
「に、ほんご……?」
喉から絞りだした声は弱々しく響いた。
「あ、そう。俺、日本人。虎杖悠仁。よろしく」
「あー、…………よろしくお願いいたします。わたしは、花名島といいます……」
まだ頭がぼんやりしていた。扉が開いて、看護師が病室に入ってきた。
私を助けてくれた青年、虎杖悠仁さんは日本人だが旅行者ではなく、ここバンコク在住らしい。
私は病室で警察の事情聴取を受けた。虎杖さんは目撃者として一緒に話してくれた。
その時私は、ちょっとした用事を終えて、自宅に帰る途中だった。タイの主要道路であるスクンビット大通りの交差点を横切ろうとしていた。そこへ右折してきたダットサン・トラックに撥ねられた。ここで日本車にぶつかるなんて因果なことだ。車はそのまま逃げた。いつも渋滞していて車が進まない道路なのに、その瞬間だけ偶然空いていたので、スピードを上げたトラックに勢いよく飛ばされてしまった。見通しの良い交差点だったので、なぜ事故が起こったのか警察の人は首をかしげていた。
「私もちょっと、よそ見をしてて、変なとこで立ち止まってしまったんです」と説明した。
とにかく、偶然その場を通りがかった虎杖悠仁さんは、3メートルほど吹き飛ばされた私の姿を目撃し、通りの向こうから走り出して受け止めてくれたのだという。
「走って……受け止めて……」
「うん。でも受け止めた後に、気を失っちゃって。後からお医者さんに聞いたんだけど、一時的にショック状態?みたいになっちゃったらしい。それで救急車呼んだんだ。もっと上手く助けられたらよかったんだけど」
「いやー、あの、十分助けていただきました……本当に、なんとお礼を申しあげていいか」
医者の診断は軽い打撲だった。精密検査の結果、脳や内臓に異常は無し。虎杖悠仁さんは、湿布が巻かれた私の腕や足を痛ましそうに見つめていた。しかし、車に跳ね飛ばされた人間を走ってきて抱きとめられるなんて。体格も逞しいし、何かスポーツでもやってる人なんだろうか。いや、スポーツでなんとかなるものなのか。
大きな怪我もなかったことで、事情聴取の翌日に退院することに決まった。昔から病院は苦手なので、入院が長引かなくてほっとした。退院日が決まったことを虎杖悠仁さんに話すと、時間を合わせて様子を見に来る、と言ってくれた。
「なんかの縁だしさ。それに一人って心細くない?」
病室で目を覚ますまでついていてくれたことといい、初対面の人間に対して優しすぎる。いい人すぎて心配だな、と思わないでもなかったけれど、こちらへ距離を詰められることへの抵抗は何故かそれほど感じなかった。私は一人暮らしで頼る相手もいなかったので、話を聞いてくれて心強かったことは確かだ。
退院当日、病院のロビーで、虎杖悠仁さんと待ち合わせた。少ない荷物を抱えて、手続きを済ませ、外に出る。
今の時期特有の強い光に包まれた。暑季の終わり、雨季を間近に控えた季節。眩しくて、暑い。道をせわしなく人が行き交う。タクシーが走り去っていく。
雑踏の向こうから、一対の瞳が私を捉えた。恐ろしく深い赤の瞳が、こちらに向けられていた。まとわりつく熱気のなかから人影が立ち現れる。額には黒い刺青が刻まれていた。袖のゆったりとしたシャツから覗く手首にもぐるりと刺青が巻きついている。
既視感を覚える。前にもこうして、この人を……。そうだ、ダットサンに撥ねられた時に、今と同じように、人混みの中に突然現れた人だ。あの時は虎杖さんになにか声をかけていた。外見の印象が現実離れをしていて、なにか、意識が朦朧としていたために見た夢のように思いこんでいたのだ。
「あ、宿儺」
灰がかった赤みの髪色。目の色と刺青以外の髪色や体格などは、よく見ると虎杖悠仁さんと似ていた。
「遅い。何をしていた」
別に待たなくてもよかったよ、と虎杖さんは軽くいなす。私の方に向き直って、その男の人を指さして言う。
「こっちは宿儺。俺の双子の弟で、一緒に暮らしてるんだ」
簡潔に紹介された、すくな、さんは、黙ってこちらを見ていた。
「花名島と申します。虎杖さんには……お兄さんには大変お世話になりまして、ありがとうございます」
私は頭を下げた。地面の一点に目線をやってから、頭を上げた。
「ええと、よろしくお願いします」
私は地面から目をそらした。全体の雰囲気はけっこう違うけれど、二人の顔は双子だと思って見るとそっくりだった。赤い瞳と茶色い瞳に視線を固定して、ぼんやりとした考えに逃げこむ。
「もしかして見える?」虎杖さんが足元を指差した。
「見えているな、お前は」宿儺さんが言った。
私は、観念したように視線を落とした。宿儺さんの足元にすがりついている、髑髏のような容貌の、もやもやとしたそれ、を指さした。
「見えてます。これって……」
宿儺さんが足に纏わりついているそれを、足を振りぬいて払い、思い切り踏みつぶした。
「あっ、消えた」
それは苦悶のような、微笑みのような、よく分からない表情を浮かべてかき消えた。
「呪霊が見えるのだな」
「ええ、まあ……前からなんですけどね」
あんまり話したくない、というのが伝わったのか、それ以上掘りさげては聞かれなかった。言い訳のように私はつけ足した。
「車にぶつかったのも、呪霊……が見えたからなんです。空中に……さっきのと似てるけどちょっと違う……首だけのお化けが漂っているのが見えて。ついそっちに気を取られて、道の真ん中で立ち止まっちゃって」
「そうなんだ」
「警察の人に説明もできなくて、なんか、誤魔化しちゃいましたけど」
「そういうことってよくある?」
「見るのは、たまに。見えるだけで、何かされたりとかはないんですけど。まあこれぐらいなら今時珍しくもないですよね」
「でも、大変だね。怖かったでしょ」
私達は歩きながら話していた。お互いの家はそんなに遠く離れていない、ということが判明した。私たちは二人ともスクンビット界隈に住んでいたのだ。ちょうど中間ぐらいの地点で別れることになった。虎杖さんは「何かあったら連絡して」と言って、スマホを取り出した。人懐っこい表情に押されるように、私もスマホを取りだして、互いに連絡先を交換する。
じゃあね、と笑って虎杖さんは去っていった。宿儺さんは無言でこちらを一瞥して、並んで歩いていった。
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