幸い「何か」と言うべき事態もなく、平穏に時は流れていった。事故から一週間と少し経ち、打撲もすっかり良くなって、買い物に出かけようと思いたった。
 買い物を済ませた後、商業ビルの二階にあるスターバックスコーヒーで休憩することにした。そこで虎杖悠仁さんと偶然出会う。私は通りの見下ろせる窓際に座って、本を読んでいた。アイスキャラメルマキアートのトールを手にした虎杖悠仁さんは、私の姿を見つけると、一緒に座っていい?と声をかけてきた。今日は一人のようだ。
「どうぞ。おひさしぶりです」
自分のホットキャラメルマキアートのショートを手元に引き寄せて、スペースを作った。彼は向かいに座った。私は本を鞄に仕舞う。
「怪我、大丈夫?」
「はい。だいぶ良くなりました。虎杖さんと宿儺さんもお変わりないですか?」
「うん。あのさ、虎杖って呼んでよ。同い年ぐらいじゃん?」
「いえ、虎杖さんの方が上じゃないですか?私、26歳です」
「じゃあ俺の方がいっこ下だ。俺、25歳」
 虎杖さんだけだと、二十代前半かむしろ十代後半に見えなくもなかった。でも、宿儺さんと双子と考えた時に、宿儺さんが落ち着いているのでじゃあ二人とも私より年上かな、と思っていた。落ち着いているというか、年上に見えるというのか、三十代にも二百歳にも見えるような不思議な人だった。
「虎杖って呼んで欲しいんだ。それに敬語じゃなくてもいいよ。ねっ、お願い。その方が落ち着く」
「でも、『虎杖』だけだと弟さんと間違いませんか」
「それは大丈夫。虎杖でいいよ。敬語もいいって」
「はあ……じゃあ、虎杖、で」
「俺も、花名島って、もう呼んじゃってるけど。花名島は日本出身?いつからここに住んでる?仕事で来てるとか?」
「ああ、それは」
 私はホットキャラメルマキアートを一口飲んだ。
「イギリスで生まれ育ったの。父はスコットランド貴族で、母は日本の財閥令嬢。私は母親似ね。大学はオックスフォード。卒業後に、秘密情報部―俗に言うMI6に採用されたわ。軍の機密情報を持ち出したターゲットを追ってバンコクまで来たの。隠していてごめんね」
「すげーな。なんか、映画みたいじゃん……。仕事ってどんな感じ?あ、やっぱそういうのって言えない?」
彼は声をひそめて囁いた。
「えっ、あの、っていうのは冗談なんですけどね」
「えっ!?」
「えっ、ほんとに信じてた?」
「信じかけた。だって真顔で言うから!」
かっこいいって思ったのに。と虎杖は呟いた。
「私のことはいいや。虎杖さ、虎杖はどうしてバンコクに住んでるの?」
「俺はね」
彼はテーブルの上に置いた手を組みあわせた。
「昔、お世話になった人がさ、お金を貯めて物価の安い国に移住したかった、って言ってて。東南アジアのどこかに。だから俺も住んでみようって思ったんだ。このあたりの国を転々としてる。ここに来る前、二年前はクアンタンに住んでた」
「マレーシア?海とモスクが綺麗なとこだ」
「そうそう。朝に散歩してるとお祈りの声が聞こえてくるのがよかったな。宿儺はモスクが気にいってたよ。海に近い家に住んでた。ほんと、海はすごく綺麗なとこだよ。バンコクに来たのは、人の多い街がいいって宿儺が言ったから」
「二人でずっと、南の島で暮らしてるんだ。もしかして、虎杖と宿儺の方が貴族なの?」
違う違う、と虎杖は首を振った。
「俺と宿儺は、とても悪いことをしたんだ。だから日本にはいられなくなった。海を越えて、いろんな国で暮らす。宿儺とは、離れられない。そういう約束をしてきた」
 虎杖は、キャラメルマキアートの水滴を指で拭った。亜熱帯のこの国はどこの店に行っても冷房が効きすぎて凍えるほどなのに、彼は氷がじゃりじゃり音を立てるアイスドリンクを飲んでいた。
「貴族じゃなかったら、国際指名手配犯?」
 私は、宿儺の額にまで彫られた美しい刺青のことを思い浮かべていた。対のように虎杖の額に刻まれた、深い傷跡に目が引き寄せられる。
また、違う違う、と首が振られる。
「でも、もしほんとに国際指名手配犯だったら、もう会えない?」
「ううん。映画みたいで素敵だと思うよ」

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