野球帽の男が部屋を出て行ってから、かなり経つ。それでも他の誰かが来る様子はなかった。
叩かれた時に切った口内の血の味を確かめるだけの時間に嫌気がさした。
どうにかこうにか手首を拘束しているテープが剥がれないか捻ったり力技を使ってみたものの、外れはしなかった。
グレンの唸る声とそれを聞いたマギーの啜り泣く声が響く。
どうやらナマエは忘れられているようだった。彼らの欲しい情報をもっていないからだろう。
バンッ
意識がグレンやマギーに向いていたせいか肩が跳ねる。さっき見た男でも、人質にされた男でもない、知らない男がドアの前に立っていた。
人当たりの良さそうな顔で笑っている。
この状況で笑顔の相手なんか不気味だと思わないのだろうか。
「やあ、君は彼らの友達なんだろう?」
「……」
「私はここを取り仕切ってる者で、みんなからは総督と呼ばれてる。よろしく」
「…」
「良ければ名前を教えてくれるかい?」
「…」
異様だった。
ニコニコと笑いかける男。シェイクハンドをしたがる手を無視して睨みつけても表情は変わらない。
彼はナマエの目を一度も見ていなかった。まるで、何かを“剥製にする”つもりのような視線だった。
さっきのラテン系だかスパニッシュ系だかの男だってもっと話を聞く姿勢はあった。
しかしこの男はこんなにもにこやかに人当たりの良さそうな笑顔を浮かべながらも、目の前にいるナマエのことなど心底どうでも良いのだ。
ただ口をついて出た、どうでも良い質問をしているだけ。
「………なぁ。わかってるだろ?誰かが口火を切らなきゃ進まないんだ」
低い声、笑っていたはずの口角はとっくに垂れ下がっている。言いながら触れてくる手が気持ち悪い。
頬、首、肩、背中。徐々に下降する手の感触にぞわぞわと粟立つ。
「触るな」
「おっと。口が聞けるんだな」
「何が知りたい。さっきの男に話した以上の情報なんてない」
「…違う、違う。私が聞きたいのはそんなんじゃないな」
その後、一瞬の記憶が消える。
気がついたら首を絞められながら壁に叩きつけられ、持ち上げられていた。
絞まる首に焦り抵抗するべく体を捻った。咄嗟に足を動かし、目の前の男の腹を足蹴にする。
「ゔっ」
「げっほ…うっ…ごほ、」
綺麗に鳩尾に決まったそれに男が手を離した。前屈みになっている男へ追撃したくとも呼吸がままならない。
「やるね」
頬の内側に溜まった血が、じわりと口に広がる。肋骨のひとつが軋んで、息を吸うたびに痛んだ。
何が起きたのかわからないまま、目の前の男は無表情に笑う。
髪を掴まれ、椅子に座らされる。ブチブチと千切れる音がする。
ぞわ
気持ち悪い感触が首筋に当たり、妙な吐息を吹きかけられた。
「あ"ぁ"っ!」
首を絞められていたせいか、声は枯れ、よくわからない叫び声をあげるしかない。舐めまわされた首に奴の唾液がついている。
「ああ、そうだ。忘れてた、コレ」
「このホイッスルの意味は?ほかにも仲間がいるんだろう。なんの知らせを?二回…?いや、三回だったか。吹いたそうだな?」
「……げほ、」
「当ててやろうか?」
「……敵がいる、…逃げろ」
ニィ、まるで満足したような顔で男は頷くと、よくできましたと言わんばかりに頭を撫でた。気持ちの悪い感触に吐き気がする。
「なるほどなるほど。仲間は何人だ?他の二人とは別の仲間だろ?」
「………」
「ホイッスルで危険を知った仲間はどうする?助けに来るか?」
「……」
「…ふむ。これはどうだ?」
男はマスクを持っていた。般若のマスク。
襲われたりときにでも壊れたのか、牙が一本無くなっているそれは、紛れもなくナマエのものだった。
「ずいぶん警戒心が強いな。これは他人避けのつもりだろ?」
「……」
「おもしろいな。この世界で他人避けか」
「……お前に関係あるか?」
「ないな!ほら、返すよ。いらない」
ぽいっと投げられたマスクはナマエの体にぶつかって床へと落ちた。幸い壊れたのは牙一本で機能面に問題はないようだった。
「仲間は、何人だ?」
首に手をかけられ徐々に絞まっていくそれに、男の青い瞳が緩く弧を描く。
「ぐっ……」
絞まったり解かれたりを何度も何度も繰り返されるがナマエが口を開くことはなかった。
次第に男は話すつもりのないナマエに"話させること"よりも絞めた時と緩めた時の表情を"見ること"に重きを置くようになった。
「いいな、これ」と短く言うと、へらりと笑って唐突に出て行った。
男の満足そうな顔を間近で見つめていたナマエは、背筋がゾッとするのを感じた。
▽▲▽
げほげほ、自分の咳の音で意識が浮上する。
知らない間に足が拘束されている。意識がないうちに誰かが縛ったのか。
「っ…ぐ」
頬に首に肋骨、ズキズキ痛みを主張しているそれらはすべてあの男のせいだった。首を絞められたタイミングで腹も殴られていたのだ。
それに手足を縛られてしまっては今度こそどうしようもない。
ガチャッ
「!」
「来い」
最初に部屋に来た男だった。縛られた手と足を見つめて面倒そうに肩に担がれ、何メートルか歩くと部屋へと投げるように落とされた。
扉が開く音がして、グレンとマギーが同時に顔を上げた。
男が放り投げるように床に落とされたのは、頭や口元、首に血の跡が無数にがついたナマエだった。
「……げっほげっほ、」
むせるように咳き込んだ彼女の姿にマギーとグレンは顔を見合わせながら走り寄った。
「ナマエ!無事…じゃなさそうだな」
「ナマエ!」
顔をあげたナマエの傷の多さはグレンにも勝るほどだった。
腫れた顔のグレンに「あなたよりはマシ」と短く言う。
その口調は淡々としていたが、どこか力が抜けていて――冗談に見せかけた安心のサインのようでもあった。
マギーが言葉を詰まらせながら、彼女の顔を見つめた。
「……ほんとに……大丈夫?」
「顔がちょっと痛いくらい。あと、腹立つ記憶が増えただけ」
「ナマエ……ごめん。私たち、あなたの声、聞こえてた」
「何もできなかった……」
「こっちも聞こえてたよ。大丈夫、気にしなくていい。」
唇を噛むマギーにナマエは手を振って否定した。それでも二人は苦しげに表情を歪めている。
ナマエは二人の目を見て、ふっと息をついた。
「そんな顔しなくていいって、マジで。生きてるから気にしないで」
「お前な……」
グレンは呆れたように息を吐いた。目の奥は真剣だった。
「マジでそう思ってんだろ」
「うん、わりと本気」
マギーがそっと彼女の手に触れた。
傷だらけの指先に、自分の温もりをそっと重ねて。
「……会えて、よかった」
彼女は少しだけ目を細めた。
「うん。こっちこそ」
マギーを抱きしめると、震える肩や腕にぎゅっと歯を食いしばった。お互いに何をされたのか分からないけれど、きっとあの総督と呼ばれている男のせいだろう。
涙が目の端から溢れ、Tシャツにシミを作った。
シャツの裾を引きちぎりグレンの目元にあてるも腫れているからかあまり意味はなかった。顔の血だけ拭き取る。
「…死ぬ、かな」
「わからない。でも刑務所のことを奴らに話してしまった」
「……」
「マギー」
「なに?」
「私、ジミーといたんだ」
「!生きてるのね!?」
「たぶんね。ホイッスルを鳴らしたのを覚えてる?」
「ええ、メルル捕まった時に……!あのとき近くに!?」
「そう。裏手の罠を確認しに行ってた」
「ならジミーがリックたちに知らせてくれてたら…?!」
「どうかな。刑務所の場所は知らないから…」
「……そう。でも生きててくれて嬉しいわ。ナマエ、あなたもよ」
「うん」
しばらく3人でいると、グレンが徐に立ち上がって奥に倒れているウォーカーに向かっていく。
ぼう、とその姿を眺めているとボキ、という鈍い音がした。ウォーカーの骨を引き抜き、シャープなソレをマギーとナマエに握らされる。
もうこうするしかないんだよな。
ドアが開いた瞬間を狙ってグレンが飛び出る。それにマギーが続いてナマエも。飛びかかった相手は見た顔じゃなかったものの、腹と首に刺すとあっという間に絶命した。
最初の男をマギーが、後ろにいた男をグレンが制圧しようとしているほうへ向かう。グレンの前にいたのはメルルだった。絞めようとする腕を掴み、グレンの援護にまわったナマエだったが、体当たりされて離される。その際に不可抗力ながら勢いよく男の"右手"がナマエの足を裂いた。
「ぐあ"ッ!」
そのあとはマギーの応戦も虚しく、援軍とばかりにわらわらと奥から銃を持った男が走ってくると、すぐに三人はまた捕まってしまった。
無意味な抵抗に終わったそれにもうどうしようもなくなる。
三人の命も残りわずかだった。
また部屋に押し込められ、二人が跪かされているのを見る。何度もビンタしてきた男がナマエの腕を掴み、"お前は最後だ"と告げる。
二人が死ぬ様を見ていろと言わんばかりだった。
「グレン!マギー!」
「ナマエ、ごめん。」「ごめんね」
「俺を見るんだ、」
「…愛してる」
布を被せられ立ち上がる二人を歩かせる奴らの背中を眺めていたら、突然パァン!バンッ!と激しい音がする。瞬く間に辺りを一面に白い煙が充満する。
「マギー!グレン!どこ!?」
ぐっ、と誰かに体を強く引かれた。
視界が白一色になり、また捕まってしまったのかと焦る。
混乱の中、力が抜けていく自分の足を叱咤する。流れ出た血が足の裏に伝ってすべってしまうのをなんとかバランスを取ろうとしているとナマエの腕を掴み、体を強く引っ張ってくれる存在がいることに気がつく。
その動きで相手が敵じゃないことがわかると途端に安堵した。
「ナマエ」
聞き覚えのある、喉の奥で唸るように自分の名前を呼ぶ声は。
「ダリル?」
声を聞いた途端にかくん、と膝が曲がり力が入らなくなった。
それに気付いたダリルはすぐさまナマエを抱き上げた。
横抱きにされると思っていなかったナマエは短く「ヒェッ」と声をあげたものの、ダリルにはそれを考慮してやる時間はなかった。
――ああ、また夢を見てるんだろうか。
そんなふうに思うには、ぬくもりが、あまりにも確かすぎた。
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