彼女という人


眠い。

いつから寝てないのか覚えてない。というか最近は家に帰った記憶すらもない。デスクの上には様々なエナジードリンクがいくつか転がっている。それらの効果ももはや効かない事態になってきている。
クラクラする視界に船を漕ぐ首。さっき勢いよくぶつけたおでこが痛い。
時計の針は十七時。ダメだこれはもう。


「さあせん…帰ります」

「オイ、まだ終わってねえぞ」
「ムリですー。あざしたー」
「みょうじ!……クソ!」


無視して荷物を抱え、いつからハンガーにかけたままになっていたのか全く覚えていないコートを羽織ってお辞儀する。
所長の神倉さんが「お疲れ様〜」とにこやかに笑っているのに会釈を一つ。二人の女性からも高い声で「おつかれー!」と言われるのに手を振った。


UDIラボ———不自然死究明研究所。
私は此処で働き始めて三ヶ月になる。
医学部の先輩の後を追った。法医学に興味を持ったから。さまざまな理由もあるけど。
まあ、なんだかんだ楽しく働けていると思う。
たぶん、あんま自信はない。


駐車場に停めたままの愛車のフロントガラスに薄い埃や雨の跡が残っていた。この眠気で運転する自信はないな。
徒歩で駅に向かう道すがら、明日の出勤を憂鬱に思う。


▽△▽


帰宅するなまえの背中に無遠慮に言葉を発した男、中堂系はむすりとした表情を変えないまま、所長室へ我が物顔で戻っていった。

「あたし、なまえのああいうところ大好き」
「わかる〜」


ケラケラと笑う二人の女性は三澄ミコト、東海林夕子。ふたりは後輩のみょうじなまえをいたく気に入っている。
特に彼女の、中堂系に対する態度を。

まるで王様のようにふてぶてしく、口も態度も悪いベテラン法医解剖医の彼の命令をスルーして帰る豪胆さ。彼の指示に従いつつも、納得しなければ反抗する気の強さに二人はまるで中堂系に一杯食わせてやったような気になるからだ。

「前にさー、なまえに"中堂さんと一緒で大変じゃない?"って聞いたらあの子なんて言ったと思う?」
「なんて?」
「【バイオレンスなほうのパワハラぐらいまでならなんとかなります】…だって」
「…それは、強すぎない?」
「ほんと。めっちゃ笑ったけど」
「てかそれムリですって言われたらどうするつもりだったの?」
「……代わってはあげないけど」
「せんぱーい?」
「うるさいでーす」

二人の掛け合いに所長室から「クソうるせえ!」という声が聞こえるまであと十秒。




▽△▽







【今日、遅出にしてください。】
【そんなものはない。さっさと来い】
【あと二時間は寝ます。無理。】
【最速で来いよ】

昨夜は閉じた瞼が重すぎる中、かろうじてお風呂に入り、倒れるようにベッドへ潜り込んだ。
気力でかけたアラームがけたたましい音を鳴らし朝を告げるまで寝ていたという感覚もなかった。あっという間に起床時刻になっている。
いつもの時間に出勤する余裕はない。上司への連絡を済ませて再度ベッドへ潜る。
もう一度アラームが鳴る頃、新しい通知はなかった。


ヨレヨレと最低限の身なりを整える。スニーカーにラフなパーカーとストレッチの効いたパンツ。およそ出勤する服装に見えないものの、規定も特にないUDIへと向かう。
たくさんの人が行き交うのを車窓から見つめていたと思えば気絶するように眠り、またすぐに停車駅についている。スマホの通知が二つ。

【解剖二件。さっさと来い】
【遅い】

こんなに、上司は口うるさいものなのだろうか。今までに大した社会経験もないが、気軽に送ってきすぎだろ、と"彼"の口癖が出そうになるのをこらえる。


「なまえー、今日こっちの記録も手伝ってもらえる?」
「あ、ハイ」
「なに言ってる。こっちが優先だ。そっちはそっちでやれ」
「ムリです!」「そうですよ!」
「ああ!?」
「あー!ケンカしないで!…ね!とりあえず今日は割り振りながらやってください!新しい人募集!今してますので!」

相変わらずの暴君である上司に食ってかかるのは同性で何かと良くしてくれている先輩の三澄さん、東海林さん。そしてそれを仲裁するのが神倉所長。隅で関わらないよう体を縮こめる坂本さん。この人たちが、今の同僚だ。
とりつく島もない中堂さんに、どうにか配分を考えるよう伝えた三澄さんの声はそれ以降、シャットアウトしたかのように無視されたようだった。
わからないようにため息を吐く彼女に会釈をする。

「あの私一応、体一つなので。一旦、一旦。落ち着いてもらって。」
「……そうだね、ごめんね」

先に折れてくれるのは毎度三澄さん。今までこういう場面になった時、中堂さんが折れたことなんて当然無い。そして流れるように舌打ちとクソを二回。

あぁ、もう早く来いよもう一人の記録係。



「終了。あとやれ」
「あ…ハイ!」
「うす」
「…」

睨まれたのも無視して残りの作業に入る。坂本さんの綺麗な返事は無視するくせになあ。

「みょうじさんってなんでそんな強心臓なの?」
「え?そうですか?」
「だってさあ…アイツ、怖くない?」
「うーーん…別に。怖くはないですけど、めんどくせえなって感じで」
「やだこの子、豪胆…。」


▽△▽


「みょうじ!」
「はい、なんですか」

解剖二件を終わらせたからって仕事が終わるわけじゃない。その後のことも多い。記録から起こした報告書や提出書類。出てきたデータの洗い出しとか、とか。それはもう色々。
帰れてない日が続いた五日目くらいもこんな感じで事務仕事が終わらなかったからだ。
なにぶん、"クソ"上司だから。「やっとけ」と言われる。
そんな"クソ"上司が所長室のドアを乱暴に開けて派手に登場する。ゆるやかにかかったパーマの髪がゆらゆらと揺れているのがなんだかシュールだった。

「さっきのご遺体の報告書は?」
「今やってますー」
「き、昨日の分は?」
「ファイル送ってますよ、きのう。あと神倉所長にも提出済みでーす」
「!………」

「有能〜」
「羨ましいくらい有能〜」

ケラケラと茶々を入れる女性陣の眼差しにまた「クソ!」と言いそうになる口をもごもごと動かしている長身の男は「さっさとやっとけよ」というと大股でどこかへと出ていった。

「なんかもうあれは、構ってほしくてちょっかいかけてくるいじめっ子みたいだね」
「中堂さんってそんな幼稚…?」
「そうじゃない?わかんないけど。それはそれで面白くていいじゃないの」

ケラケラと笑う東海林さん、まるで変な生き物を見るような三澄さんに同意を得られるかのように振られた話題には「心外なのでやめてください」とだけ返した。いじめっ子は違う気がする。


「そういえばなまえってたしか、中堂さんと同じ日彰医大卒だよね?」
「はい」
「もしかして、面識あった?」
「ないですよ。まあ、私は知ってましたけど」

パチパチと手慣れた操作でPCに打ち込み、画面と書類を交互に見つめる。話しかけてくれている方を向くべきだろうけれど、できるだけはやく帰宅したいのでながら作業だ。


「え、中堂さんって有名だったの?」

東海林さんの楽しげな声に首を振った。

「どうですかねえ。…年齢的に被ることはないんで、有名人ではないと思いますよ」

「あそっか!なまえってミコトより年下だ!」
「…え、はい。…ん?」
「なんかわかんないけどなまえってさー、年下より同期っぽいの」
「わかる!」

「……はあ。よくわかんないですけど、褒められてますかね?あざっすでいいですか?」
「わかってないのに感謝するな〜?」
「はあい」



女性三人、やっぱり姦しいのかな。
その後、いじめっ子が戻ることはなかった。