場所
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(※一話「幸福」、二話「の」、三話「 隠し」からお話が続いていますので、そちらからお読みください。)
「七子……!」
彼女の姿を見て驚いた彼は急いで駆け寄って、隣に座ると優しく頭を撫でる。
すると彼女は、堰を切ったかのように声を出しながら泣き始めた。
今まで堪えてきた感情が、全て溢れ出てしまったのだろう。
永井は七子を落ち着かせるために、彼女の頭を抱き寄せて自分の肩に乗せ、背中をぽんぽんと叩くように撫でた。
七子も彼の服の裾を掴み、顔を押し付けている。
「……辛かったよな」
七子の嗚咽を聞きながら、永井はそう呟いた。
そして自分の無力さを呪うしかなかった。
この場で抱きしめることもできない自分は本当に情けないと思えた。
だから、今はこうして傍にいることしかできなかった。
しばらくして落ち着いた彼女は、ゆっくりと口を開いた。
その目は真っ赤になっており、瞼も少し腫れて重たそうだ。
それでも彼女は笑みを浮かべると、彼に礼を言う。
「来てくれて、ありがとうございます」
「いや、そんな……」
彼の優しさに触れて心の底からの感謝を伝えた七子だったが、すぐに顔を曇らせる。
それは先程の出来事を思い出してしまったためだろうか。
「七子……何があった?」
心配になった彼が尋ねると、彼女はぽつりと話し始める。
七子が話している間、彼は黙って耳を傾けていた。
この間、永井に言われたように彼とこれからについて話し合いをしていたらしい。
そこで喧嘩になってしまい、言い合いになってしまったというのだ。
お互いに意見をぶつけ合った結果、彼は自分とはもう一緒に居ることはできないから別れようと言ったのだという。
それを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になり何も考えられなくなってしまった。
ただただ悲しくなって、胸の奥底が締め付けられるような感覚に襲われ、気が付いたらひとりでに泣いてしまっていたようだ。
自分の気持ちを整理することができず、どうしたら良いのか分からなくなった彼女は永井に連絡をしたというわけである。
七子の話を聞き終えた後、彼はしばらく考え込むようにして沈黙していた。
すると彼女は、再び口を開いた。
「彼にとってしたら、私は重かったみたいです……」
「……そんなこと、ねえよ」
彼女の話を聞いて、永井はそう返すことで精一杯だった。
確かに彼氏の話を聞いていないから、相手のことを強く責められはしないが、だとしても一方的に別れを告げるなんて酷いではないか。
しかも理由が重いだと? ふざけているのかと永井は強くそう思った。
そんな理由で彼女と別れたいだなんて言われても納得できるわけがない。
そもそも自分が好きな相手に対して、そのようなことを言う時点でおかしいと思うのだが……。
永井が頭の中でぐるぐると思考している間にも、彼女は言葉を続ける。
「なかなか、上手くいかないですね」
「……」
そう言って苦笑いする彼女に、永井は何と言えば良いのか言葉が出なかった。
きっと彼女だって辛いはずだ。
それを我慢して無理矢理笑顔を作っていることが、痛々しいほど伝わってくる。
「七子」
名前を呼ばれた七子は彼の方を見た。
その瞳からは今にも涙が流れてしまいそうなほど潤んでいた。
そんな彼女に見つめられて思わずドキッとした永井だが、それを表に出さぬよう努めて冷静に対応する。
「俺は……お前の気持ちが重いなんて、今の話を聞いてる限りじゃ思わないけどな」
そう言うと同時に永井は七子の肩に触れながら瞳に浮かぶ涙を、もう片方の指先で優しく拭った。
突然触れられたことに驚いている様子の彼女を見て、愛しさが増していくのを感じた。
改めて実感した想いを再確認すると共に、このまま終わらせてはいけないとも思った。
ここで引き下がったらきっと後悔することになるだろうと感じたからだ。
七子の目を見据えて、真剣な表情で話す。
「俺は、七子が優しくて気配りできる子だって知ってるよ。だから、彼氏にもそのつもりで接してたんだよな?」
永井が普段あまり見せることのない表情をしているせいなのか、彼女は驚いた顔をして固まっていた。
そんな様子を見ながらも構わず続ける。
「お前の長所をそうやって言われたら……悲しいよな」
そう言って永井は七子の頭を優しく撫でた。
すると彼女の瞳にじわじわと溜まった涙は、ついにぽろぽろと溢れ出し頬を伝い、止まることを知らず流れていく。
そして永井は、そんな彼女を優しく抱きしめると背中をさすってやった。
七子も彼の背中へと腕を伸ばして抱きつくと、ぎゅっと服を掴んだまま嗚咽混じりの声を出す。
お互いの温もりを感じながらしばらくそうしていると、永井はゆっくりと口を開く。
「俺だったら、七子をそんなことで泣かせたりしねえよ」
永井の言葉を聞いた彼女は頷きながら、さらに泣き出してしまう。
こんなにも自分のことを考えてくれる人がいるなんて知らなかったと、七子は今、思い知ったようだった。
そして同時に、あの時の永井に対して自分がどれだけ酷いことをしたのかも自覚する。
そう思うと涙が止まらなかった。
「……ごめん、なさいっ……! 私、永井士長に……酷いこと!」
七子の嗚咽混じりの声を聞いて、永井は彼女の頭を撫でる。
その手つきはとても優しくて、とても温かいものだった。
そんな想いに突き動かされるようにして、七子は彼の胸に顔を埋めた。
彼はそれを優しく受け止めて、背中をさすってくれる。
「そんな謝んなって。俺はあの時、伝える勇気出なかっただけだし。お前だってここ最近、辛かったんだろ?」
彼の言葉を聞きながら、七子は何度も首を縦に振る。
辛い思いをしたのは自分だけではないのだと思った途端、心の底から安心感が生まれた。
そして同時に、この人を失いたくないという気持ちも湧き上がり、胸を締め付ける。
永井は七子の背中をさすりながら、再び口を開いた。
「それにさ……ずっとお前を見てきて、いい所だって、弱い所だって知ってんだよ……!」
彼女のことを一番知っているのは自分だと言わんばかりに、彼の声音には熱がこもっていた。
そしてそれは七子の彼氏へと当て付けるかのようでもあった。
しかしそれを聞いている七子は何も言うことができずに、永井の腕の中でこくりと小さく首を縦に振っていた。
彼女もまた同じ気持ちを抱いていたからであり、今まで見てきた永井の態度や気持ちが嘘ではないことは分かっている。
だからこそ彼女の心の中に芽生えた感情は、どんどん大きくなっていったのだ。
「それを分かってあげられるのが、彼氏ってもんじゃねえの……?」
そう呟いた永井の声色は、どこか怒りを含んでいるように聞こえた。
そして彼は、抱きしめている力を少し強める。
七子のことを必要としてくれている存在がここに居ると伝えるように。
すると彼女もそれに答えるかのように、彼の背中へ回している手に力を込めた。
「俺だって……どれだけ、七子のこと……!」
そう絞り出した声は震えており、永井も泣きそうになっているのを必死に抑えながら七子を抱きしめ続けた。
どれほど七子のことを考えてると思ってるんだ。
そう言いたくて仕方がなかったが、その言葉をぐっと飲み込んだ。
でも、きっと伝わっているはずだ。
自分がどんな思いで彼女を見ているのか、七子はもう分かっているだろうから。
すると涙腺が限界だと言わんばかりに、永井の瞳からは涙が流れ始めた。
それは頬を伝い、顎先まで流れていく。
しかしそんなことお構いなしだと言うように、永井は涙を流したまま腕の中の七子を抱き締めていた。
しばらく、沈黙が続いた後だった。
彼女はゆっくりと、口を開いた。
「ありがとう、ございます……」
消え入りそうなその声は、しっかりと永井の耳に届いていた。
その声はどこか嬉しげでもあり、また恥ずかしげでもあった。
しかし彼は、返事をする代わりに七子のことを更に強く抱きしめる。
それはもう二度と離さないという意思表示のように感じられた。
それからしばらくして落ち着きを取り戻したのか、ふと七子の手が自分の胸元に触れたため永井が身体を離すと、お互いの顔を見合わせた。
「永井士長、泣いてる……」
まだ涙の浮かぶ目を細めて、くすっと笑いながら七子は言った。
どうやら気付かないうちに涙を流していたためか、目元が少し腫れぼったくなっていたらしい。
「うるせえ、見んなって……! お前もだろ!」
指摘されて照れたのか、永井は慌てて顔を背けて拭っている。
その様子は、いつもより幼さを感じさせるもので、そんな彼を可愛いと思いつつ七子は優しく微笑みかける。
それにつられて永井もまた笑顔を見せた。
その顔は先程まで見せていたものとは違い、とても穏やかで優しいものだった。
「……どう、落ち着いた?」
そう言いながら永井は、七子の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「はい」
「良かった……。七子になんかあったら、俺……」
そこまで言うと、永井は口をつぐんだ。
何かを言いかけたものの、それを言うべきかどうか迷っていた。
「永井士長……」
そんな彼に気付いた様子の七子は、名前を呼んでじっと見上げるようにして心配そうに彼のことを見た。
不安そうな彼女に対して永井は、七子の頭に手を乗せながら安心させるような笑みを浮かべて見せた。
「大丈夫だよ、俺は」
その言葉を聞いて、ほっとした表情を見せる彼女を見て心が温かくなっていくのを感じた。
そして永井は七子の手を取り、優しく握り締めた。
すると彼女は驚いた顔をしてこちらを見る。
「七子、聞いてほしいことがあるんだけど」
そう切り出すと、彼女は握られている手をぎゅっと握り返してきた。
そして永井の言葉を待つように、黙って彼を見上げていた。
「俺さ、後悔してることがあるんだよな」
「後悔、ですか?」
突然のことに驚きつつも聞き返す彼女に、永井は静かに首を縦に振る。
「ああ……あの時、ちゃんと気持ちを伝えてればよかったなって思ってさ」
そう言って永井は、苦い表情をして俯いた。
そんな彼の様子を真剣な表情で見つめながら、七子は彼の話を聞くために次の言葉を待っていた。
「……それこそ、七子が告白されたって相談してきた時……俺が気付いてればな」
永井は自虐めいたように笑うと、顔を上げて彼女を見やった。
七子は何かを察したのか、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
その表情を見てもなお、彼は自分の言葉を止めることができなかった。
「そしたら、こんなに遠回りすることもなかったんじゃないかって思うわけよ」
「……」
永井の言葉を聞いた七子は、何も言わずに彼のことを見ていた。
そしてその視線に応えるかのように彼は口を開く。
「……まあ、今更なんだけどな」
自嘲気味に笑うと、永井は繋がれている七子の手にもう片方の自分の手を重ねた。
「でも、今なら言える気がするんだよ。だから、聞いてくれる?」
「……はい」
永井の真剣な雰囲気を感じ取った彼女は、緊張した面持ちになりながら返事をした。
配属されてきた時から一緒に苦楽を共にしてきて、彼女の良いところも悪いところも誰よりもよく知っているつもりだ。
あの時、強く後悔をしたからこそ今の自分がどうしたいのかはっきりと伝えることができると思っているし、この先どんな結果になろうとも受け入れる覚悟があった。
七子の返事に永井は小さく息を吐いてから、真っ直ぐに彼女の目を見据える。
「俺、ずっと七子のこと好きだったんだ」
はっきりと想いを口にすると、心臓が大きく脈打ったような感覚になる。
しかし覚悟を決めた彼の心は、不思議ととても落ち着いているようだった。
「……!」
そう告げられた七子は目を大きく開いて、永井のことを見たまま固まってしまった。
「驚かせちゃったよな」
そう言いながら永井は困ったように笑ってみせるが、七子は首を横に振って否定していた。
「そんなこと……」
彼女は、そう呟きながら顔を赤く染めて永井から目を逸らすように、下を向いてしまった。
「今はまだ、そういう気持ちじゃないと思うし……」
永井は、少し寂しげに笑いかけながら七子の頬に手を添えて、ゆっくりと上を向かせる。
そしてそのまま親指で、優しく撫でるようにしながら言った。
「七子の答えが出るまで待ってるから」
「……」
「今は、それでいいから。俺のこと考えててくれるだけで嬉しいっていうか……」
そう言う永井の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「永井士長……」
七子は、どこか不安げな表情をしながらも彼の名前を呼んだ。
しかし彼は返事をせずに、彼女のことを見つめていた。
その目はどこか熱っぽくもあり、また切なげでもあった。
彼女はそんな彼の目を見つめたまま、何かを言いかけてはやめてしまうという動作を繰り返していた。
そんな様子に気付いた永井は、少しだけ目を細めて言った。
「どうした?」
「あの、その……」
なかなか言い出せない様子の彼女を、急かすことなく永井はただ見守っていた。
どうやら彼女は心の中で葛藤しているように見える。
考え込むように俯いている彼女は、じっと自分の足元に視線を落としているようだった。
そんな二人の間を、時折吹き抜けていく風が優しく撫でていった。
そうだ、私が配属されてきたあの時もこんな風が吹いていたっけと七子は思い出していた。
すると彼女の記憶の中で鮮明に思い浮かぶのは、いつも永井の優しい声だった。
どんな時も優しくて頼りになって、そして誰よりも強い彼に憧れた。
それはいつしか、恋心に変わっていったのだ。
今までどれだけ自分のことを想ってくれていたことだろうと思うと、切なくて心苦しかった。
それと同時に、きっとこの人はこれから先もずっと私のことを大事にしていってくれることだろうと、確信めいたものを感じていた。
だからこそ、今ここで言わなければいけないと思った。
「永井士長のこと……信じても、いいですか……?」
少しの間を置いて、七子は小さな声でそう言った。
その言葉は消え入りそうなくらい弱々しく、微かに震えている。
永井は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに優しい表情になって七子のことを見下ろした。
七子の言葉の意味を噛み締めるように何度か小さくうなずいた後で、彼はゆっくりと口を開いた。
「ああ……」
彼の声もまた、同じようにか細く震えていた。
けれどその瞳には揺るがぬ決意が見え隠れしていて、それがとても頼もしくて嬉しかった。
ふっと肩の力を抜いて、七子は彼の目を見つめ返した。
もう何も、迷うことなどなかった。
永井は嬉しさと愛おしさが入り混じったような笑顔を見せると、七子の頭をくしゃっと乱暴に撫でて彼女を抱き寄せた。
突然のことに驚いた様子の七子だったが、抵抗することなくされるがままに彼の腕の中に収まっていた。
「永井士長、好き……。好きです」
抱き締められながら何度もそう繰り返す七子に、永井は胸が苦しくなるような感覚がしていた。
それと同時に、そんな彼女がたまらなく可愛くて仕方がなかった。
そして、そんな思いをぶつけるかのように強く抱きしめた。
すると彼女は、それに答えるように背中に回された手に力を込めてきた。
そしてお互いの体温を感じ合い、しばらくの間、無言のまま時間だけが過ぎていった。
しばらくして、どちらからともなく体を離すと二人は見つめ合った。
「俺、七子のこと大切にするから」
そう言って永井は優しく微笑む。
それに対して七子も同じように、ふわりとした柔らかい笑みを浮かべて見せた。
二人の間を風が吹き抜けていき、互いの髪を揺らしていく。
それはまるで、これから先の二人の行く末を祝福しているようで。
その風に吹かれながら、永井は七子の手を取って歩き出した。
そんな彼の手を握り返しながら、七子は幸せに満ちた顔で彼に寄り添うように隣を歩いていくのだった。
― 幸福の隠し場所 ―
(或いは、愛の言葉の在り処)
fin.▼▲▼
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