サヨナラの
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どうなってるの?
誰か教えて。
どうして?
おかしいよ……。
いつも一緒って、言ったのに。
「ん……ここ、は……?」
仄暗い社宅の一室。
錆びたサッシに填められている汚れた窓の外を見て、時間を計ろうとするがあるのは赤い空にどんよりとした重たい雲が立ち込めているだけだった。
(そうか、ここは……)
私は、耳につくような音が聞こえることに気付いた。
何かを突き刺すような鋭く不快な音。
それの正体を確かめるために必死に音がする方向に目を凝らす。
目が暗闇に慣れた彼女が目を向けた方向にあったのは、信じられないような光景だった。
「ひいっ……!」
壁に飛び散る真っ赤な血、そして肉片。
畳にべったりと付着して水溜まりのように拡がった血痕。
そして、その真ん中でぐちゃりと潰れたように倒れている──人間の形をしたモノ。
七子は呆然としたまま、ただその残骸を見つめていた。
すると突然、後ろから何者かに抱き締められる感触があった。
驚いて振り返るとそこには、自分と同じセーラー服を着た女の子の姿があった。
「いち、こ……?」
恐怖で喉が張りつき、声が上ずってうまく出せない。
しかし市子はそんな彼女の様子など気にも留めずに、ゆっくりと抱きしめていた手を解くと彼女の前へ回り込む。
その顔はいつもの無表情ではなく、口元を歪ませて笑っているように見えた。
そして彼女は優しげな声で言うのだ。
「七子? 気付いた?」
前を向いた市子は、真っ白だったセーラー服を赤く染めいつもの市子の面影は無かった。
「市子……ど、どうして……?」
「これが、七子の邪魔するから」
市子はゆらりと歩き出したと思うと、一歩一歩踏みしめるように目の前の血溜まりに近づいて行く。
血の滴る右手からスルリとナイフが、まるで畳に吸い寄せられるようにして刃を下にして落ち、畳に突き刺さる。
そしてその塊を足蹴にすると、そのまま力任せに踏み潰した。
グシャッという音と共に、肉片らしきものが辺りに飛び散り、七子の顔にも生暖かい何かがかかった。
それは紛れもなく屍人の体の一部だったものである。
七子は思わず口元を押さえ、胃液が逆流しそうになるのを感じて必死で堪える。
「うぅ……ぅ、おぇ……」
七子は改めて市子の姿を見て、腰が抜けてしまったようでその場に座ることしかできなかった。
血に染まる真っ赤な服、焦点の合わず濁り光を失った瞳。
そんな市子の姿は、スプラッター映画に出てきそうな殺人鬼にしか見えなかった。
カチカチと噛み合わない歯の音を聞きながら、七子はただ震えることしかできなかった。
「嫌ッ! こ、来ないで……!」
「七子、どうして? 私のこと嫌いになっちゃった? ねぇ、七子」
名前を呼ばれても答える余裕は、持ち合わせていなかった。
ただ怖くて堪らないという感情だけが心を支配していて、一歩ずつ近寄ってくる彼女から逃れるように後ずさりする。
このままでは殺されるかもしれない──そう思うと自然と涙が出てきた。
悲しそうに眉を下げた彼女が手を伸ばしてきたかと思うと、肩を掴まれ押し倒され市子に馬乗りされる形になる。
「やだ……市子どうしちゃったのっ!」
「どうもしてないよ?」
伸ばされた手を掴もうとした時だった。
ふわりと体が浮いたかと思うと、次の瞬間には背中に強い衝撃を受け、息ができなくなる。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、市子が七子の上に跨っていた。
逃げようと藻掻くものの、体重をかけてしっかりと押さえつけられているせいで身動きが取れなかった。
「嘘だ! ねえ、戻ってよ! 市子を返してッ……!」
そして静寂が二人を包んだ。
七子が溢れ出てくる涙を拭おうとして、両手で目を抑えながらそう叫んだ。
するとその手首に付けられている蒼石が埋め込まれた銀色のブレスレットが市子の目に入った。
「……!」
そのブレスレットは、仲良しの友達三人組で色違いで買った物だった。
それを見た途端、市子は頭の中が一気に冷めていく感覚に陥った。
あの日、私達はお互いのことを願って買ったんだ。
「七子……私……」
「市子!」
意識を取り戻したらしい市子に安堵して力いっぱい抱きしめたが、すぐに我に返り慌てて体を離す。
今の彼女は正気ではないのは分かっているし、下手したらまた襲い掛かってくるかもしれないと七子は、そう判断した。
「七子、ごめんね……」
しかしそんな七子をよそに、市子は申し訳なさそうに謝ってきた。
先程までの狂気に満ちた表情とは打って変わり、今にも泣き出してしまいそうな顔をしている彼女に戸惑うばかりである。
一体この短時間の間に何が彼女をさせたのか、七子には分からなかった。
「その、ブレスレット……お揃いの……」
ぽつりと市子がそう呟くと七子は、ハッとして自身の手首に付いているブレスレットを確認した。
確かこれは、三人で買い物に行った時に皆でそれぞれ好きな色の物を一つだけ選んで購入したものだったはずだ。
それを思い出してくれたということは、まだ完全には記憶を失っていないということだろうか。
さらに市子は、両手で七子の柔らかな頬を微笑みながら包んでくれた。
その表情はとても穏やかで優しくて、思わず見惚れてしまうほどだった。
血塗れの手ではあるが、それが逆に彼女の美しさを引き立てていた。
きっとこんな状況じゃなければもっと感動していただろうに、と七子は複雑な気持ちになりながらも彼女の手に自身を重ねた。
そんな暖かさに触れて自然と涙が次々に溢れてくると市子の姿が霞んで見え、目から伝い落ちた涙が薄汚れた畳に染み込んだ。
「うぅ……市子ぉ」
「もう、泣かないで七子。でも、でもね……」
そう言って彼女は一度言葉を切ると、ゆっくりと口を開いた。
「でもね、私もう元に戻れない気がするの。元の私には……」
元の私……。
それが一体どういう意味なのかよく分からずに七子は思わず顔を上げて市子を凝視したが、その表情は前髪に隠れてよくわからなかった。
ただ、市子の口元だけは微かに笑っているように見えた。
それなのに、七子は何も為す術が無いことに歯痒さを感じ唇を噛む。
「何で? ……うぅ、そんなこと言わないでよ……!」
そう言うと彼女は少し困ったような笑顔を見せた後、七子の頭を撫でた。
血で濡れているせいでぬるりとした感触が伝わってくるが、それでも彼女の手は優しかった。
「仕方がないことなのかもね。それが初めから決まってたのかも……」
彼女は伏し目がちに言うと七子の目を真っ直ぐ見つめた。
それはまるで、何かを決意したかのような強い眼差しであった。
その目は先程の淀んだようなものとは違い、澄んだ綺麗なもののように感じられた。
その市子の顔がだんだんと近づいてくる。
キスされると思った時には既に遅く、そのまま唇を重ねられてしまった。
しかし不思議と嫌だとは思わず、むしろ嬉しいと思ってしまった自分に戸惑いつつも、それを受け入れようと静かに瞼を閉じる。
「ん……」
柔らかな唇の感覚に酔いしれながらしばらくの間、二人は互いの体温を分け合うかのように抱き合っていた。
それからどれくらい経ったのだろうか、名残惜しそうにしながら彼女が離れていく。
「私ね、ずっと七子にこんな風に触れたかったよ。でも、嫌われたくなくてできなかった……」
「……」
何も言えなかった。
市子がそんな風に自分のことを思っていたなんて、知らなかった。
(私だって本当は市子と仲良くなりたかった)
しかし七子の臆病な性格が災いして、なかなか一歩を踏み出せないままだったのだ。
「ごめんね」
「……市子?」
突然、謝られて七子は困惑していた。
どうして今になって、そうされるのか理解ができなかったのだ。
すると市子は、七子の頬に付いた血を指で拭ってくれた。
その手つきは優しく、どこか懐かしい気分になり胸が熱くなる。
「えっと、その……心配しないで。元に戻れなくなったとしても、七子のことは絶対忘れないよ。」
「うん……。私も」
七子は短くそう答えるのが精一杯で、そうでないとまた涙が出てしまいそうだった。
そうして市子は、いつもと同じ声でゆっくり口を開いた。
こんな惨劇に巻き込まれてしまうなどと、ひとつも考えもしなかった無垢なあの時のように。
「七子、だいすき……」
それは、まるで呪いの言葉だった。
耳の奥に残る声がいつまでも消えなかった。
そして市子は私の涙を拭い、優しく抱きしめた。
彼女の温もりがとても心地が良くて、このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思った。
例え市子と離れてしまっても、私はこの温もりだけは忘れないようにしようと誓った。
これがこんな風に絶望的な状況では無かったなら、いつもの私達だったらどうなっていただろう?
もっと市子の心の近くに居ることができたのなら、何かが変わっていたのだろうか?
暖かな体温に包まれながら、靄がかかったような視界の中で思っていた。
人は、過去には戻れない。
未来にも行けない。
ただただ、今を生きるしかないのだ。
今をどれだけ悔いたとしても、だ。
許されるならあなたの近くに居たかった。
あなたの心に寄り添っていたかった。
だから……
サヨナラの挨拶なんてしたくないよ。
この涙を忘れて、いつか二人が笑顔でいられる世界で逢おうね。
─私も大好きだったよ
fin.▼▲▼
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