悲劇、景色は七色。


「三上さん、早く!こっちです!」

七子は素早く三上の手を取ると、駆け出した。
その手の感触にドキッとしたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

すぐ後ろからは、追っ手の呻き声が聞こえている。

問題はどこに逃げるかであった。

このまま真っ直ぐ進めば、やがては行き止まりになるはずで、そうすればもう逃げ場はない。

どこかに身を隠さなければ―。

七子は走りながら振り返り、背後を確認した。

雨のせいで辺りに霧が立ち込めていて、視界が悪い。
しかしながらそれは向こうも一緒なのは自明の事実であり、そう考えると、逃げ切れる可能性は十分にあると言えるだろう。



「ここまで来れば……」


懐中電灯を点けて中を覗くと、農具などが置いてあることから物置として使われているようだ。
当然のことながら中には誰もいないようで、しんとしている。
とりあえずここに隠れてやり過ごそうと、二人は身を潜めた。


「助かった、ありがとう。礼を言うよ……七子さん」


「いいえ、三上さんに怪我がなくて……良かったです」


七子が手を引いてここまで連れてきた青年は三上と言うらしく、彼女より何歳か年上のようだった。
背は少し高く、筋肉質な体つきをしている。

そして七子は彼の手を握りしめて走ったせいなのか、それとも緊張のあまり手に汗を握っていたのか分からなかったが、握った手が湿っていることに気付いて慌てて離した。

「ご、ごめんなさい。ずっと繋いじゃってました」

恥ずかしくて俯いていると、彼はふっと笑って言った。

「いえ、お気になさらず」

顔を上げると目が合って、心臓が大きく跳ねた気がして思わず逸らしてしまった。

七子は、なんて優しい笑顔だと思った。

世界が終わろうとしているのに、なぜこんなにも見惚れてしまうほど綺麗な笑みを浮かべることができるのだろうと思ってしまう。

まるで天使のような微笑みだ、と錯覚してしまうくらいに。

そして同時に、この人はきっと今まで様々な苦労してきたんだろうと思っていた。
こんな風に優しく笑うことができる人だから、余計にそうなのではないかと彼女は考えていた。


そんなことを考えながら、キョロキョロと辺りを見渡した。


木の板を打ち付けてトタンで囲っただけの何とも雑然とした建物。

更に、以前はガラスを填めていたはずの鉄製の窓枠も、長い時間風雨に晒されて腐食し錆びついている。

そういったことも相まってか、どうも寒々とした印象しか受けない。


次いで、自分の伸ばされた足先を見つめる。

幾つもの危機を乗り越えて来たからか、白かったスニーカーは泥だらけになって汚れており、履いていた靴下もすっかり変色していた。

そして、七子の隣に座っている三上の横顔を見つめる。

(睫毛長いし、凄く綺麗……)

しかしその美しい横顔は、言いようのない寂しさや、内に秘めた闇を抱えているような感じがした。

どうしてそう思うのかは、自分でもよく分からなかった。
ただ、なんとなく放っておくことができなかった。
ここまで一緒にいる情もあるからかもしれないが、それだけではないような気もしていた。

そうしてしばらくすると追っ手の気配がなくなったのを感じ取った七子は、ホッと胸をなで下ろしていた。


「……」



「……」


そして不意に訪れる沈黙。

こんな状況で二人きりになってしまうと、途端に何を話せばいいか分からず言葉が出てこなかった。
お互い黙りこくっていたが、先に口を開いたのは三上の方だった。


「七子さん、私の話を……聞いてくれないだろうか?」


突然そう言われ七子は驚いたものの、小さく頷いて見せると、その返事を見て安心したように彼は静かにゆっくりと紡ぐように語り始めた。


「私は、生まれ育ったこの島で様々な大切なモノや人を失くした……」

七子はただ静かに耳を傾けることに徹していた。
彼が今どんな表情をしているのか気になる気持ちもあったが、それよりも彼の心の内を知りたい……彼のことをもっと知りたいと、強く思った。

「その後島を去って、私と大切なものを繋ぐ唯一と言っても良い記憶が、思い出せなくなって……。それを思い出す為に、またここへ戻って来たんだ」


「そうだったんですね……」


そこで三上は一旦言葉を区切ると、何かを思い起こすかのように目を瞑った後、再び目を開いて続けた。

しかし彼の瞳には、悲しみの色が強く滲んでいるように見えた。

しかしそれと同時に強い意志のようなものを感じた気がして、七子はその目に吸い込まれるかのようにして見つめていた。


「帰ってきてまた、何かを失くすのではないかと言う不安や恐怖があった」

確かにそうだろう、と七子は思っていた。

誰だって一度くらいは何か大切なものを失ってしまったことはあるだろうし、それを経験することは怖いと思うはずだ。
ましてやそれが自分にとって大事なものだったとしたら尚更である。

だからこそ、彼に対して何も言うことができない自分が歯痒かった。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、三上は続ける。

「皮肉にも、的中したよ……。私の"目"でもあった、ツカサを失った」

彼の目はどこか遠くを見るような眼差しをしていて、きっと過去のことを思い起こしているのだろう。

彼の過去について聞きたいという欲求に駆られたが、今はその時ではないと思い留まった。


「そんな中でも、七子さん……貴女という大切な人を見つけることができた」


「三上、さん……」



「でも。でも、恐いんだ……」


彼の声は震えていた。

まるで幼子のように、己の中の恐怖と闘っているようであった。


「また、大切な人を失ってしまいそうで!
独りになってしまいそうで……!」


三上は小さくなり両膝の間に頭を埋めていた。

そして、自分の中に湧き上がる感情の正体が何なのか、すぐに理解することができた。
(あぁ、そうか。これが恋なんだ)
七子は、三上のことが好きなんだと自覚した。
その感情を抑えられなかった七子は、衝動的に彼に抱きついてしまった。

「七子さん……?」

三上は驚いていたようだが、拒絶することはなかった。
七子は三上の背中を優しく抱きしめながら、そっと呟いた。


「私は三上さんの傍から居なくなったりしません。消えたりしません。だから、安心して……?」


子どもを諭すように優しく、優しく囁く。

そうすると布擦れの音がして、三上さんが顔を上げたのが顔を伏せていても分かった。

やがて三上は七子の背中に腕を回していた。


三上は何も言わなかったが、七子が背中を優しく撫でてくれたことで、自分の過去や想いを受け入れてもらえたと感じていた。
それと同時に、この人を絶対に守り抜こうと心に強く誓った。
この優しい人にもう悲しい想いをさせたくない、そしてこの先もずっと一緒に生きていきたいと気付かされた。

この気持ちを何と呼ぶのかは分からないが、この気持ちは大切にしたいと思った。

それから二人はしばらくの間、寄り添いながらお互いの存在を確かめ合うように抱きしめ合っていた。

その後しばらくしてから三上はゆっくりと身体を離すと、七子の方に向き直った。


「七子さん……ありがとう。君には、本当に助けられてばかりだな……」

そう言って苦笑する彼の顔は、とても穏やかだった。
こんな風に笑うこともできるんだと知って、嬉しくなって思わず微笑んでしまった。

「ふふっ、どういたしまして」

そして二人は、お互いの距離を縮めることができたのだった。
そして、改めて約束を交わした。

「ありがとう、一緒にこの島から出よう。一緒に、な……」

三上から顔を上げてくれと言われ、七子が顔を上げた瞬間、探るように頬を撫でられたと思うと、不意に唇に柔らかい感触を感じた。

キスをされていると気づいた時には、既に離れてしまっていた。


「三上さん……!」


しかしその行為によって、今まで以上に彼を近くに感じることができた。
そしてこれからも、彼と一緒ならどんな困難も乗り越えていけると確信したのだった。


「これが、私から七子さんへの愛の形だ」


優しい笑顔でそう告げる三上の顔は、どこか晴れやかな表情をしていた。
その言葉を聞いて愛おしさが胸の奥から込み上げてきた七子は、衝動的に三上の胸へと飛び込んだ。

三上はそんな七子を抱き留めると、耳元で優しく囁いた。


「この島から出られた時は……ずっといつまでも七子さんと一緒に居させてくれ」





fin.




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