03


一年前の冬。
まだ寒さが厳しい季節のことだった。

××地方検察庁の一室にある二之部の執務室に、ノックの音が響いた。


「はい、どうぞ」


二之部はすぐに入るように促すと、入ってきたのは一人の女性検察事務官だった。

彼女は部屋に入るなり、挨拶をする。


「おはようございます、二之部検事。参考人の名無さんが来られましたよ」


「もうそんな時間か、ありがとう」


二之部はそう言うと、手に持っていたペンを机に置いて目元を揉みほぐした。


「いいえ」


「今日は聴取の方、一緒によろしく頼むよ」


「はい。こちらこそ、お願いしますね」


女性事務官は丁寧にお辞儀をすると、続けて部屋の外へと呼び掛けた。


「名無さん、入っていただいて大丈夫ですよ」


「失礼します……」


控えめな声で返事をしながら、女性が部屋に入ってくる。

その姿を見ると、二之部は思わず目を見開いた。
そこに立っていたのは、どこか幼さが残る可憐な女性だった。

肩にかかるくらいの栗色の髪にパーマを当てているのか、毛先がふわっとしている。
鳶色をした瞳は大きく白い肌は透き通るようで、とても美しかった。

服装はシンプルに黒い膝丈のワンピース姿にカーディガンを羽織った格好だったが、それが逆に彼女の美しさを引き立てているように見えた。

その出で立ちからは、清楚な雰囲気が漂っていた。

年齢は20代前半といったところだろうか。


(こんな若い子が、強盗殺人の被害者なんて……)


二之部がそんなことを思っていると女性は、ぺこりと頭を下げ椅子へ腰かけた。


「名無さん、担当検察官の二之部と申します。よろしくお願いします」


二之部は七子の前に名刺を差し出して簡単に自己紹介を済ませると、早速本題に入った。

まずは事件の概要を説明する。

彼女はそれを真剣な面持ちで聞いていた。
しかし彼女は、質問を一切しなかった。

二之部の説明が終わると、彼女は小さく口を開いた。

それは意外な言葉だった。
彼女は、こう言ったのだ。


「ごめんなさい……私、あの時のことをよく思い出せなくて」


二之部は一瞬、耳を疑った。

しかしこういった残忍な事件の場合、被害者の脳が彼らの心を守るためにこうなってしまうことは、少なくないと聞いたことがあった。

だからそういうことなのかと思っていた。

そして彼女は俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始める。


「私……これから、どうなっちゃうんですか」


その声は、不安げに震えていた。

無理もない。
自分の人生が大きく変わってしまうかもしれない出来事なのだ。

その心中を察すると、二之部は何も言えなかった。

すると、彼女がゆっくりと顔を上げる。
その瞳には涙が溜まっていた。


「七子さん……」


「あの時に戻れたら、いいのに……。そうしたら、きっと……こんな……!」


そう言う彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ち、七子は泣きながら訴えかけるように続けた。


「罪を憎んで、人を憎まず……って言うけど、そんなのできるわけないですっ!」


彼女の頬を伝う大粒の雫を見て、二之部は胸が締め付けられるような気持ちになった。


「……」


「大切な人を殺されて……! そんな人がこの世にいるなんて考えたくもないし、絶対に許せない……!」


彼女の声は、次第に大きくなっていく。

それは、心からの叫びだった。

二之部はただ黙って、その言葉を受け止めるしかなかった。


「七子さん、大丈夫よ……」


すると、そんな彼女に寄り添うように女性の事務官がそっと手を握った。

すると彼女は少し落ち着いたのか、ハッとした表情を浮かべる。

そして、小さな声で謝った。


「ごめんなさい……」


「いいえ、無理はしないでくださいね。思い出せることだけで結構ですから」


事務官は首を横に振った後、優しい笑顔で七子を見つめた。


「そうなるのも当然です。私もあなたの立場なら、そう考えると思います。七子さん、私たちと一緒に真実を見つけましょう」


二之部も優しく微笑みかけると、彼女もつられて笑顔を見せた。

それはぎこちなくはあったが、彼女にとって精一杯の笑みなのだろう。




そうして勾留期間が終わり、再び送致されてから行われたその後の補充捜査でも、被疑者の殺人の嫌疑は証拠不十分として釈放されてしまった。

いわゆるコールドケースとなってしまった。



「本当に……申し訳ないです」


三隅支部の敷地内にある広場で顔を合わせた七子に対し、二之部は深々と頭を下げた。

冬の柔らかな日差しが、白いタイル張りの地面に反射している。
二之部にとって、その眩しさは吹き付ける冷たい風と相まって辛いものだった。

彼女は、そんな彼の様子に慌てて両手を振った。


「そ、そんなこと……」


彼はそのまま言葉を続ける。


「いいえ……我々の力不足です」


二之部が頭を上げて七子の顔を見ると、悲しげな表情をしていた。

そして絞り出すように話し始める。

その口調は重かった。


「二之部さん、私……やっぱりあの人のこと許せないです……」


そう言った彼女の目から、一筋の涙が流れた。

それは、悔しさと怒りが混じったもののように感じられた。


「ちゃんと、自分の罪と向き合って、償ってほしいです……!」


そして次第に、肩が小刻みに揺れていく。

彼女は俯いたまま、必死に耐えようとしていたが、堪えきれず嗚咽が漏れ始めた。

その姿を見た二之部は、いたたまれない気持ちになりながらも、掛ける言葉を探した。


「…………」


しかし、見つかるはずなどなかった。

彼は七子の傍に寄ると頭にそっと手を乗せて、慰めるように撫でた。

二之部は、そんな七子の様子を見ながらゆっくりと息を吐き出した。


それは、彼なりの覚悟を決めた合図だったのかもしれない。




静かな部屋に、時計の音だけが響いている。
その静けさを破るように、宮田は二之部を見据えると低い声で問いかけた。


「それで、七子さんは遠い親戚に預けられたと?」


「はい……。事件が解決できず、彼女には本当に申し訳ないと思っています……」


「……」


二之部の話を聞いていた宮田は、顎に手を当てて考え込む。
すると二之部は視線を落としながら、ぽつりと言った。


「表では気丈に振舞っていても、心の中までは分かりません」


二之部の口から、静かな声が零れる。

伏し目がちに話す彼の長い睫毛が、目元に影を落としていた。
その表情はどこか寂しげで、切なげだった。


「だからこそ、我々は……真実を突き止め、そして見極めて罪を罰するのです」


そこまで言うと、真っ直ぐな眼差しを宮田に向けた。


「だから、私は諦めたりはしません」


その瞳の奥には、強い意志が宿っていた。


「それが私の正義だ」


彼は、静かに言い放った。
それはまるで、自分に言い聞かせているようでもあった。


「二之部さん……」


宮田は、そんな彼をじっと見つめている。
彼は何かを考えているのか、しばらく沈黙していた。

確かに事件解決のためには七子の協力は必須だろう。


しかし彼女には記憶がない。


つまり、事件の核心に触れることはできないのだ。
それは二之部とて分かっているはずだ。

それでもなお、彼は協力を求めるというのか。

記憶が戻るという確信がない限り、危険を冒すことになる。
それにもし仮に、彼女が事件のことを思い出してしまったら……


「……っ」


その先を考えると、背筋に冷たいものが走った。


しかしながら記憶を失う前の彼女は、犯人に対して罪と向き合い償ってほしいと言っていた。

その言葉通り、彼女は事件に決着をつけようとしている。


だとしたら、俺が今すべきことは……?


「二之部検事」


宮田は意を決して口を開いた。


「何でしょうか?」


「……七子さんのことを頼みます」


その言葉を聞いた二之部は、意外そうな顔をしてこちらを見る。


「……ありがとうございます!」


二之部は、ほっとしたような笑顔を見せた。
その表情からは、純粋に喜んでいるのがよく分かる。


宮田は、この人を信じたいと思った。

それはただ単に尊敬しているからとかではなく、もっと違う感情が働いている気がした。


この人はきっと、信念を持って行動をしている。

それは宮田が医学の道を歩み始めた頃に志し、また目指したいと思う姿と重なった。

だからこそ、そんな彼の行く末を見届けたいと強く思った。


「ただし、」


そう言って言葉を区切ると、二之部は不思議そうに首を傾げた。


「彼女の主治医として、取調べの際は途中まで同行させていただきます」


「それは、もちろん構いません」


二之部が笑顔で答えると、宮田は少し安心して胸を撫で下ろした。

そして改めて、これからのことを考えた。


「……まずは、どうしますか?」


「そうですね……」


二之部は腕を組んで考える仕草をする。
そしてすぐに、何かを思いついたように顔を上げた。


「とりあえず私はあと一週間ほど上三隅に滞在してますので、何かありましたら、その連絡先までお願い致します」


「分かりました」


「事情聴取の準備が整いましたら、こちらから改めて連絡致します」


「よろしくお願い致します」


宮田はそう言うと、軽く会釈をした。


「それでは失礼いたします」


二之部が立ち上がって出口に向かうのを見て、宮田もそれに続く。

扉の前まで来ると、宮田がその背中に声を掛ける。


「二之部さん」


振り返った彼に、続けて言った。

それは自然と出てきた言葉だった。


「……お気をつけて」


自分らしくないと思いながらも、言わずにはいられなかった。


彼が、とても眩しく見えたからだ。


そして思わず目を細める。

それは太陽の光に照らされて輝いているように見えた。


自分も、こんなふうに生きていけたら……

一瞬だけ自分の人生が報われたように思えた。


二之部は一瞬驚いたように目を開くと、優しい笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」


彼はそれだけ言い残して部屋を出た。


宮田はその姿が見えなくなると、大きく息を吐いた。


「あとは、七子さん次第か……」


そう呟いた言葉は、誰もいない部屋に吸い込まれていった。




To be continued…





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