(※前話「駆け」からお話が続いていますので、そちらからお読みください。)


「兄貴、入るぜ」

啓介は涼介の部屋のドアをノックして、彼の返事を聞くとすぐに部屋に入った。
そして部屋の真ん中にある椅子に腰掛けてパソコンのキーボードを打つ涼介の姿を見つけると、そばまで近寄って行った。

「なあ、次のバトルについてだけどよ」

そう言って涼介の方を見ると、彼は真剣な表情でディスプレイを見つめている。

「ああ……お前が知りたがってたヤツだろう? ちょっと、待っててくれ」

「おう」

涼介の言葉を聞いた啓介は素直に従うことにした。
彼は手元の書類を眺めたあとしばらくすると再びパソコンに向き直り、キーボードを叩き始める。
その様子を確認した啓介は椅子を持ってくると、涼介のすぐ横に置いて座った。

「そう言えば、啓介」

そこで涼介はキーボードを打ちながら口を開くが、その視線は依然として画面に向けられたままだ。

「ん?」

「お前今日、七子との約束あるんじゃないのか?」

彼の言葉を聞いた瞬間、啓介の動きがピタリと止まった。
そんな啓介の様子に気づかないまま彼は言葉を続ける。

「あれ、違ったか?」

その問いかけに対して啓介は何も答えず、黙り込んだままである。

しばらくしてからゆっくりと動き出すと、天井を見上げながら大きく息を吐く。
それを見た涼介は不思議そうな顔を浮かべると、キーボードを打っていた手を止めて弟の顔を見る。

「そうだよ。二十時に来てってな」

啓介は力なく答えると、ふう……と小さくため息をついた。
そんな彼を見ていた涼介は少し心配になったようで、眉間にシワを寄せながら声をかける。

「この間お前が言ってたことと合わせると、七子とは上の駐車場で待ち合わせしてるってことか?」

「ああ、そうだよ」

啓介はさらりと答えると、涼介は自身の部屋に掛けてある時計をちらりと見上げた。
時刻はすでに、十九時五十分になろうとしている。
待ち合わせ場所である峠の駐車場までは、車でどんなに飛ばしても三十分近くかかるだろう。

今からでは到底、間に合わない。

「啓介、もしかしてお前……」

「んだよ」

啓介は、俺が何を言おうとしてるかなんて分かってるくせにと、そう言いたげな目で涼介を見返した。
そんな彼の様子に涼介は、ぐっと眉根を寄せて弟を睨み返すと吐き捨てるように言う。

「行かない気だろ」

その問いに啓介は何も答えず、ただ黙ったまま兄を見つめていた。
沈黙こそが肯定であるということを察した涼介は、大きく息をつく。

それから少しの間を置いて、再び口を開いた。
だが今度は先程までとは違い、落ち着いた声音で諭すように言った。

「……それでもあいつは、お前のこと待ってるんだぞ」

涼介の言葉に、啓介は無表情のまま静かに目を伏せる。
彼の長い睫毛が頬に影を落とし、どこか物憂げな雰囲気を醸し出していた。
やがてゆっくりと瞼を開くと、どこか諦めたような口調でこう告げた。

「あいつとは付き合えねぇよ」

それはまるで、自分に言い聞かせているかのような言い方だった。

「だからって……何も言わないなんて、七子に失礼だろ。それにこのチームは今年限りで解散するとは言え……彼女とはそれまでバディなんだぞ?」

涼介はそこまで言うと思わず椅子から立ち上がり、語気を強めてそう続けた。
すると啓介は売り言葉に買い言葉といった様子で、荒々しい声で言葉を返した。

「そんなん分かってんだよ! あいつだってそれを覚悟した上で、あんなこと言ってきたんだろうがよッ」

「そんな、お前尚更……!」

涼介が言い終えるより早く、苛立ちを含んだ声で啓介は叫ぶとベッドの上に乱暴に身を投げ出した。

「俺だって、悩んでる暇なんかねえって思ってんだよ!」

そしてそのままごろりと仰向けになり、天井に向かって手を伸ばす。
何かを掴み取ろうとしているかのように宙を掴む仕草をした後、拳を握りしめてベッドへ叩きつけるとぽつりと呟いた。

「俺ん中で答えは出てるし、今すぐ七子のとこ行ってやりてぇよ……」

まるで、自分以外の誰かに向けて語りかけるように。
その言葉には、彼らしくもない弱々しい響きがあった。
いつも強気な態度を取っている弟の口から発せられたとは思えないほど、頼りなく揺れる声。
そんな彼の様子を見て涼介は、それ以上強く言うことができなかった。

「だとしたら……」

「俺は……! 兄貴みたいに、器用じゃねえっつってんだろ!」

啓介はそう叫ぶと、ベッドから起き上がって涼介の方を向く。
彼がこれ程までに声を荒げるのは珍しいことではなかったが、それでもその剣幕に涼介は驚いていた。

「啓介……」

しかし同時に、彼が抱えているであろう葛藤も理解できる気がした。

このプロジェクトに関わるということは、それだけ結果が求められ勝敗への責任も伴うということだ。
そしてチームの未来と合わせて、啓介と七子の未来もその中には含まれている。
彼は今まさに、自分の選択と向き合っている最中なのだろう。

「無理なんだよ、俺には……選ぶなんてよ」

啓介が頭を垂れて苦しげに呟く。
彼の気持ちと性格を考えれば当然のことだった。
口は悪いが誰よりも根は優しくて、不器用で真っ直ぐだからこそ、今まで悩んできたに違いないのだ。

「だけどそれじゃあ、お前だけじゃなくてチームの皆にも迷惑がかかることになるんだぞ? いいのかそれで」

そう強く言い放った涼介は、啓介の方へ一歩足を踏み出す。

すると彼は俯いていた顔を上げ、兄の方を見据えた。
その顔つきは、まるで迷子になった子供のような表情をしていた。
そして同時に、こんなにも痛々しい顔をしている弟を見過ごすことなどできないと思った。

プロジェクトのことは抜きにしても、これは啓介自身の問題でもあるが、それとは別に彼を放っておくことができなかったのだ。

「……」

「どっちも中途半端にするのかって聞いてるんだ」

答えられずにいる弟に、更に言葉を重ねる。
涼介の声音は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。

すると啓介は一瞬泣きそうな目を見せた後、絞り出すようにこう言った。

「そう言うつもりは、別にねえよ……」

「はあ……そんなんじゃ、今度の遠征にお前は連れて行けない」

「何なんだよ、それッ!」

涼介の言葉を聞いて啓介はベッドから立ち上がると、今度は苛立ったような様子を見せる。
普段ならもう少し冷静になれる筈なのに、今日の彼はどこかおかしい。

それは多分、彼の中で色々な感情が入り混じっているからなのだと涼介は思う。
啓介自身まだ自分の気持ちを持て余していて、どうすればいいのかわからないのだろう。
だから今は何を言っても、彼にとって煩わしいものに聞こえるに違いない。

だがこのままでは駄目だと涼介は考えたのか、強めの声色で言う。

「当たり前だろう。もう、遊びでやってるんじゃないんだぞ……お前の、そのどっちつかずの半端な気持ちが、チームの迷惑になるんだって、そう言ってるんだ」

「クソっ……!」

恐らく彼なりに相当思い悩んでいるのだろう。
それだけ彼女の存在が彼にとって大きいということなのだと思うと、涼介としても複雑な気分だった。

しかし一方で、だからこそ啓介の力になってやりたいと思った。

弟の幸せを願うからこそ、彼の背中を押してやりたかった。

その後のことは、どうにでもなるしどうにかするしかないのだから。
少なくとも、この先啓介がずっと後悔し続けるよりは遥かにマシだろうと考えていた。

そしてこの決断をすることは、啓介にとって大きな転機になるはずだからだ。
だから涼介は、もう一度はっきりと告げた。

彼の迷いを振り払うために。

「けじめをつけたいと思うんだったら……! 啓介、お前の心に聞いてみろ」

「はあ? うっせぇよ……! ああもう、くそッ!」

苛立ったように頭を掻いてから、啓介が叫んだ。

「俺に、どうしろっつーんだよッ!?」

すると彼は叫びながら、涼介の胸倉を掴む。
そして力任せに壁に押し付けるが、今の彼には痛みすら感じない。

「じゃあ……お前が一番苦しい時に、傍に居たのは誰だ?」

涼介は彼の手を制するように掴むと、静かな声で告げた。

「レースの前にも後にも、いつもお前のことを一番に考えて、支えてくれてたのは誰なんだ?」

「……」

啓介の脳裏に浮かぶのは、七子の顔だった。

初めての遠征先での慣れないコースの練習で自分の不甲斐なさに絶望した時、彼女はチューニングにしてもテクニックにしても的確なアドバイスをしてくれた。

例え彼女と衝突することがあっても、啓介は何度も彼女に救われてきたし、その度に彼女が自分とは違い、強い人間だと思い知らされていたのは事実だ。

彼が辛い思いをしている時には必ずと言っていいほど、彼女はチームの誰よりも真っ先に駆け付けてくれた。

そして優しく微笑むその表情が……練習中にナビゲーターとして助手席で見せるあの真剣な表情が……いつだって彼を奮い立たせてくれた。
それはきっと他の誰でもなく、七子だけだったのだ。

彼女の存在があったからこそ、今まで走り続けることができた。
そしてこれからも共に歩んでいきたいと、心の中で願っていたのだ。

「……答えろ、啓介!」

その瞬間、彼の手から力が抜けた。
まるで糸が切れた操り人形のように、頭を垂れたまま動かなくなる。
そのまま少しの間を置いてから、啓介がポツリと呟いた。

「俺は……」

それは、まるで自分自身の心を確かめるかのような声だった。
涼介は何も言わず、ただ黙って啓介の次の言葉を待った。
すると彼はゆっくりと顔を上げ、こう言った。

「あいつを……七子を失いたくねえよ」

啓介は涼介の目を見つめると、絞り出すようにそう言った。
そして再び視線を落とすと、自嘲するように笑みを浮かべる。

「こんなガサツな俺だけどさ……あいつは理解して対等にモノを言ってくれるんだぜ……?」

涼介には、そんな弟の姿を見ることしかできなかった。
すると啓介は俯き加減のまま言葉を続ける。

「七子は俺にとって勿体ねえくらい、本当に最高のパートナーなんだよな……」

それは彼自身がずっと考え続けていたことであり、口に出すことを避けていたことでもあった。

「……そんな大切な人を泣かせるなよ、後悔するぞ」

涼介のその言葉は大切な人を過去に失ったからこそ言えるもので、彼の胸に重くのしかかる。
それを知っているだけに、啓介は言い返すことができなかった。

すると涼介はふっと笑ってこう言った。

「後悔したくないなら、行ってこい……啓介」

「兄貴……」

その一言で、啓介の中の何かが吹っ切れたようだった。

「そうだな、俺……」

七子への気持ちを今、やっと認めて受け入れることができた。
だからこそ、彼はもう迷わない。
啓介は覚悟を決めたように涼介の目を見ると、はっきりとこう言った。

「……すまん、兄貴。これからあいつとのことで迷惑かけると思うけどよ……行ってくるわ!」

それは彼なりのけじめだったのかもしれない。
あるいは、自分自身を納得させるためのものなのか。
いずれにしても、今の啓介にとっては必要なことだったのだろう。

彼の言葉を聞いた涼介は、静かに口元に笑みを作る。
そして彼の肩に手を置くと、一言だけ告げた。

「ああ、行ってこい」

啓介はそれに力強く応えるように大きく一度頷いてから、部屋を出て行った。

そして玄関に置いてある鍵を引っ掴むと、FDに乗り込んで勢いよくエンジンを吹かす。


啓介が飛び出していった後、涼介は自室の椅子に腰掛ける。
そして、小さく息を吐く。

「これで良かったのかは分からないが……まあ、後はあいつ次第だよな」

自分に言い聞かせるようにそう呟くと、机の上に飾られた写真立てを眺める。

それは南関東での初バトルの後に、プロジェクトのメンバー皆で撮った写真が収められていた。
そこには啓介の愛車であるRX-7と、拓海の愛車であるAE86を中心にしてメンバー全員が写っているものだった。

その中で肩を組んだ啓介と七子は、お互いに笑いながらピースサインをしている。
涼介はその写真を指先でなぞると、そっと目を閉じた。

「……望み願い続ければ夢は必ず叶う、か」

この世に魔法など存在しないし、そうそうに奇跡も起きない。
だが、それでも諦めなければいつか必ず報われる時が来るのだと。

それは涼介がこのプロジェクトを起こした時に抱いていた想いでもあり、今も変わらずに持ち続けている信念でもあった。
それは何にでも当てはまることで、どんな些細なことにも言えることだと思っている。

だから涼介は信じているのだ。

啓介と七子の二人の関係にも、きっと何か意味があるはずだと。

「啓介にも、それに気づいてほしいものだな……」

涼介はそう呟くと、窓の外に広がる夜空を見上げた。



啓介はオーディオの画面に映る時計を睨みつけるように見つめながら、アクセルを踏み込む。

行先は、彼の中では既に決まっていた。
彼女の言う、自分たちが一番初めに会った場所。

そこは――赤城山だ。

あの時、あの場所で彼女のことを嫌味ったらしく突き放したように言った啓介だったが、決して疎ましく思っていた訳ではなかった。

そして初めて二人でホームコースの峠を七子の指示を聞きながら走った時、啓介は確かに彼女に対する評価を改めたのだ。

彼女はナビシートに乗って刻一刻と変わる峠のコースに冷静な判断ができることからも、彼女が相当な腕前であることはすぐに分かった。
そしてそれは、自分の走りを高めることに繋がっている気がする、と。

しかし、同時にそれは彼女に負けたくないという気持ちも湧いてきたのである。

そして啓介はそれをそのまま言葉にしてぶつけた結果、彼女と衝突することになったこともあった。
そんな紆余曲折を経たからこそ、啓介は確信していた。

彼女となら、どこまでだって走っていけるということを。

(……俺が惚れたのは、そういう女なんだ)

啓介はハンドルを握る手に力を込めると、加速させていく。


そしてバイパスを降りると右折し、県道四号線へと合流する。

ここから先、道は一気に険しくなっていく。

しかしここは何度も通ったことがある上に慣れ親しんでいる道だ。
啓介は迷わずギアを落としてコーナーの立ち上がりから加速すると、シフトアップしながら更に速度を上げていった。

啓介は再び時計をチラリと見る。
二十時三十五分。

もう彼女は帰ってしまっただろうか。
もしまだいるとしたら、きっと心細い思いをしているに違いない。

啓介は不安を振り払うように頭を振ると、アクセルペダルを踏む足に力を入れ、彼は車を走らせ続けた。

「お願いだ……! 待っててくれ!」

啓介は祈るような思いで車を飛ばす。

どうか間に合ってくれ。

それだけを強く願いながら。

頭の中に浮かぶのは、数日前の電話越しで聞いた悲痛そうな声だった。
啓介はそれに息苦しさを感じながらも、ひたすらに車のスピードを上げる。

「……」

七子も思い悩んだ末、決断をしたのだろう。

啓介が峠で走り屋をする時に、当時付き合っていた人と別れた話は七子も知っている。

その時に啓介は言ったのだ。
自分は打ち込めるものがあるうちは二度と恋なんてしない、と。

それは彼が自分で決めたルールだった。
そしてそれが彼の生き方そのものでもあると思っていた。

七子も例外なくそうだと思っていたのだが、どうやらそれも限界が来てしまったらしい。

啓介は苦笑を浮かべると、ふっと息を吐く。

「馬鹿だよなあ、俺」

それは自嘲の言葉。
でも、仕方がないとも思った。

何故なら――

「好きなんだから、諦めれるわけねえだろ……」

啓介はぽつりと呟くと、少しだけ泣きそうになった。
だが、泣いてなどいられない。
今はただ、少しでも早く会いたいという気持ちが勝っているからだ。

やがて目の前に現れたヘアピンカーブ。

「これを、越えたら……!」

啓介はグッと奥歯を噛み締めると、ステアリングを切ってブレーキを踏みながらアクセルを踵で煽り、ギアを二速に落とす。
するとリアが横へと滑り出し、徐々に曲がり角へと近づいていく。
カウンターを当てて角度を保ちながら、コーナーを抜けて行った。

啓介は視線の先に見える暗闇を見据えながら、大きく深呼吸した。

そしてギアを上げると意を決したようにアクセルを思い切り踏み込み、一気に駆けていった。


そして遂に、彼の視界に県営無料駐車場と書かれた緑色の看板が見えてきた。

啓介はその看板を目印にするようにして右折すると、駐車場内に入っていった。

するとそこには、一台の白いスポーツカーが停まっていた。
月明かりを反射する車体は、まるでスポットライトを浴びているかのように煌めいていた。

啓介は目を見開くと、その前で急停車させる。
慌てて運転席から降りると、自身の車の横に立ち尽くす彼女の元へ走っていく。

「七子ッ!」

啓介の声に驚いたように、彼女は目を見張った。
その表情は今にも泣き出してしまいそうに見え、啓介の心がズキリと痛む。

「けい、すけ……。もう……来ないかと、思ってた……!」

七子が掠れた声で絞り出すように言うと、啓介は顔を歪める。

「待たせちまって……本当に、ごめん」

その言葉を聞くと彼女は声を上げて、大粒の涙を零し始めた。
啓介はそんな彼女に近づくと少し困ったような顔をしながら、彼女の頭を優しく撫でる。

「泣くなよ……俺も、我慢……してんだぜ……?」

しかし啓介の声も、次第に震え始めていた。

彼は顔を歪めながらも必死に笑顔を作ろうとするが、とうとう耐えきれなくなったのか片手で顔を覆うと肩を震わせて小さく嗚咽を漏らす。

「すまん……こんな、つもりじゃねえのに……」

啓介は一度鼻を鳴らすと、七子を抱きしめる。

すると堰を切ったように、二人は互いに抱き合いながら泣いていた。
暫くの間、啓介は七子を抱きしめたまま、声を殺して泣いていたが、ようやく落ち着いたらしくゆっくりと体を離していく。

啓介は目元を拭うと、改めて彼女を見つめた。

「遅くなって……悪かった」

「いいの……来て、くれたから……」

七子は泣き腫らした瞳で啓介を見ると、そっと微笑みかける。

「ありがとう……啓介。私ね、ずっと待ってた……」

「ごめん……」

「ううん。でもね怖かった、の……」

七子は再び俯くと、再び涙を流し始める。

啓介はその涙を拭おうとして手を伸ばすが途中で躊躇い、手を下ろしてしまう。
彼女を泣かせるまで気持ちを追い詰めておきながら、今更どんな顔をして慰めればいいのか彼の中に答えは持ち合わせていなかった。

「来てくれないんじゃないかって。だって、啓介……誰とも付き合う気はないって言ってたし」

「……そうだな」

確かに言ったなと思い出す。

それは、七子と何気ない会話をしていたあの日の言葉だ。
もう随分前のことのように思える。

啓介は悲しげに目を伏せると、自分の額に手を当てて小さく息をつく。
その仕草を見て、七子は更に表情を曇らせた。

「……正直、どうしようもないくらい迷ってた。目の前のことに集中しすぎて、七子のことを蔑ろにして、辛い思いをさせるんだろうと思ってた」

彼女の視線を感じながらも啓介は自嘲気味に笑うと、自分の足元を見つめたまま言葉を続ける。

「だけどお前は他の女と違って、ナビゲーターとして一緒に走ってくれる……俺の好きなことに真剣に付き合ってくれる七子なら、こんな俺でも本気で走り続けられると思ったんだ」

自分の心の内を語るなんて、今までの人生で一度たりともなかったことだった。

しかし、今言わなければきっと一生言えないだろうと思ったのだ。
それがたとえ、自分の都合の良いように言葉を並べただけの言い訳であっても。

「うん」

七子は静かに相槌を打つと、啓介の言葉を聞いていた。

「でも、本当はそれだけじゃない」

啓介はそう言い切ると、拳を握りしめていた。

もう誤魔化すことはできない。
このままの関係でいるには限界がある。
彼はこれ以上、自分の心を偽って生きていくことなどできなかった。

そんな思いからか、無意識のうちに手に力が入っていたのだ。

そしてゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐに彼女を見る。

「俺はプラクティス以外でも、七子と一緒にいる時間が楽しくて仕方がなかった。いつの間にか、それが当たり前になっててよ……」

「……」

七子は静かに啓介の言葉に耳を傾けている。
その表情からは、何も読み取ることはできない。

だが、それでも構わなかった。

自分の言葉で伝えなければ意味がないのだ。
それは啓介自身が一番よく分かっていた。

だから彼は言葉を続ける。
自分の想いを伝えるために。

「それを手放したくなかったし……ずっと傍にいたいと思うようになってた」

啓介は自分の胸の中にあったものを吐き出すように話し続ける。
今まで隠していた本心を曝け出すかのように。

「だけど、心のどこかで上手くいかなかったらって考えて怖くなったんだ。それで自分を守るために、突き放そうとしたんだよ……」

そこまで話すと啓介は大きく息を吐いて項垂れ、自嘲気味な笑みを浮かべながらそう言った。
それはまるで、自分自身に対して呆れているような口調だった。

そして彼はゆっくり目を閉じると、絞りだすようにして言う。

「俺にとっちゃ、Dも七子も同じくらい大切だからよ……そう言わざるを得なかったっていうか」

啓介はそこまで話すと、ふぅと息を吐いて苦笑を浮かべる。

「馬鹿だよなあ、俺。結局、逃げてただけなのにな。自分がどうしたいのか、はっきりさせずにさ」

彼はそこで言葉を区切ると、もう一度深呼吸をする。

「俺のその考えってさ……最高のパートナーを泣かせてまで貫かなきゃいけねえものなのかよって」

彼はそう言うと、眉根を寄せながら弱々しく小さく笑った。

「……」

彼の話を聞き終えた七子は、黙り込んだまま何も言わない。

彼はそれを見越していたかのように、言葉を続ける。

「……俺には無理だ、そんな酷いこと。だから七子のこと、諦めたくねえわ」

啓介は真っ直ぐに七子を見据えながら、そう告げる。
その表情からは迷いが消え失せており、どこか吹っ切れた様子だった。

「ごめんな、勝手で。こんな男、最低だろう?」

そう言って小さく肩をすくめる彼に、七子は首を横に振った。
それから目を伏せると口を開く。

「そんなこと、ないよ」

彼女の声はとても落ち着いていたが、その口調とは裏腹に微かに震えているようでもあった。
まるで何かに耐えるように唇を引き結ぶ彼女に気づきながらも、啓介は何も言えなかった。

すると彼女は目元を袖で擦ると、彼を見上げた。

「確かに、私もすごく苦しかったし辛かった。啓介に嫌われちゃうんじゃないかとか、もう一緒に走れなくなるんだろうなって考えたら寂しかった」

彼女は涙声ではあったものの、いつものように明るい笑顔を見せる。
しかしそれは今にも泣き出しそうなものでグッと唇を噛み締めて、とても痛々しいものだった。

「だから、誰とも付き合う気はないって言われても……諦めたくなくて。私の方こそ、わがままだよね」

七子は自分の胸を押さえるように服を掴むと、絞り出すように言葉を吐き出す。
その姿はまるで痛みに耐えているようで、見ているだけで辛いものがあった。

「……七子」

啓介は思わず名前を呟くと、そんな彼女の気持ちを少しでも和らげようとして優しく微笑みかけた。

「ありがとな、俺なんかのために悩んでくれて」

彼はそう言うと、七子の頬に伝う涙に指先で触れる。

「俺も、お前も……きっとお互いのことを想って傷ついてたんだよな」

「そうだね……」

七子の頬に触れた途端、啓介の瞳からも一筋の雫が零れ落ちた。

それが何を意味するのか分からないほど、二人は子供ではなかった。
そしてお互いに想い合っているからこそ、こんなにも苦しいのだと悟る。
そのことに気がつけば、自然と答えが導き出された。

今まで悩んでいたことが嘘だったかのように、スッと心が軽くなる。

「ごめん、七子……ちゃんと言わねえとな。聞いてくれるか?」

彼は涙を堪えながら目の前にいる愛しい人を真剣な眼差しで見つめると、ゆっくりと口を開く。


「七子。俺はお前のことが好きだ。ずっと前から……! 俺がお前を幸せにする」


啓介はそう言って七子の手をそっと取ると、自身の両手で包み込んだ。

「だから……付き合おう」

すると彼女は目を見開いて、一瞬驚いたような顔をする。

「うん……っ!」

しかしそう答えるとすぐに、頬を緩ませると嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

そして啓介は彼女の手を握り締めると、そんな彼女を愛おしく思いながら、その手を引いて抱き寄せる。
彼女の背中に手を回すと、今度は強く抱きしめた。

啓介の腕の中にいる彼女が、とても小さく感じられた。
彼はその小さな体を離さないよう、しっかりと腕に力を込める。

この先、どんな未来が訪れるのかわからない。
だが今は、ただこうしていられるだけで幸せだと思った。

やがて七子も、そっと啓介の背に手を回した。
彼の体温を肌で感じると、心地よさに胸の奥が小さく疼いた。
それはまるで、心の奥底にある想いを揺さぶられるような感覚だった。
七子は啓介に寄り添いながら、彼の胸に顔を埋める。

啓介はそんな七子の髪を撫でながら、その温もりを感じていた。
ふわりとした甘い香りが鼻腔をくすぐる度に、心臓が高鳴っていく。

彼はその感情を抑えることができなかった。
だが、それでもいいと思っていた。

今はまだ、このままで――。

二人はしばらくお互いの存在を確かめ合うように、その場から動かなかった。


それから、どれくらい時間が経っただろうか。
どちらともなく離れると、啓介は照れくさそうに笑っていた。
その表情は今まで見たことのないもので、七子は思わずドキリとする。

そして彼と同じように笑い返すと、視線を逸らした。

「七子、こっち向いてくれ……」

啓介は表情を和らげると、そう言いながら七子の顎に手をかける。

彼が何をしようとしているか理解すると、七子は静かに瞼を閉じた。

そしてそのまま顔を傾けて、やがて二人の影が重なり合うと、仄明るい月の光が優しく照らし出していた。
一瞬の出来事だったが、二人は互いの体温を感じるようなキスをしていた。

暫くしてゆっくりと顔を離すと、啓介は熱を帯びた瞳で七子を見つめる。
その表情を見た途端、七子は頬を赤く染めた。
そして恥ずかしくなった彼女は、俯き加減で目線を泳がせる。

啓介はそれを見逃さなかった。

彼は彼女の耳元に唇を寄せると、吐息混じりの声音で囁く。

「大好きだ」

突然のことに七子が肩を震わせると、啓介はクスリと笑う。

そしてそのまま彼女の髪に触れながら優しく頭を撫でると、そっと引き寄せる。
彼女を腕の中に閉じ込めると、優しく抱きしめた。

「……啓介?」

「もう少し、こうさせてくれ……俺、久々なんだぜ?」

啓介がそう言うと、七子は黙ってコクリと首肯する。

すると啓介は満足げに微笑むと、七子の頭に自分の頬を乗せた。
彼女の体温を感じていると、不思議と安心感を覚えた。

そして彼は、そっと目を伏せた。

(……こんな風に、お前を抱き締めたかった)

そう心の中で呟くと、七子の柔らかな髪の毛に触れる。

(こうやって、触れていたかった)

その指通りの良い滑らかな触り心地に、胸の奥が疼いた気がした。

やがて七子も啓介の背中に手を回すと、そっと抱きつく。
その温もりが愛おしくて、腕の中にいる彼女を強く抱きしめ返した。


しばらくして、啓介は腕の力を弱める。
すると七子も同じように、彼の体から離れていった。

そして二人は熱い眼差しを交わすと、もう一度顔を近づけてキスをする。
それは先ほどよりも長く、そして深いものだった。

七子は啓介の首に手を回すと、彼を求めるように舌を絡めていく。
それに応えるように啓介は彼女の腰に手を回すと、その体を引き寄せた。

そして互いに求めるままに口づけを繰り返すと、やがてどちらからともなく離れて、名残惜しそうに視線を交わしていた。

すると彼は七子の額にかかる前髪をかき分けると、そこに軽く唇を落とす。
それはまるで、誓いを立てるような行為だった。


「七子……愛してる」


啓介は慈しむような優しい声音で、彼女に告げる。
そんな七子は彼の言葉に、小さく首を縦に振った。

「私も、啓介のこと愛してる」

彼女は消え入りそうな声で、しかしはっきりと答えたのだった。



あれから三年の時が経ち、季節は春を迎えようとしていた。

「よしっ! ペースノートこんな感じでいいですか?」

七子は、隣に座る仲間のラリーストへと訊ねた。
彼女は今、とある地方で行われる大会でのレッキを終え、これから本番を迎えようとしていた。

「うん、だいたいこんな感じで行こうか」

「はい!」

そのラリーストは彼女のノートを覗き込んでそう言った。
そして彼はそのまま視線を上げて少しだけ考え込むように目を細めると、七子に向かって言う。

「あー、ちょっと待てよ……この複合カーブのライン取りと、ここのクレストの位置だけもう少し詳しく抑えといてよ。速度出せそうだったから、気を付けておきたいな」

「確かに……意外とマシンの今後に響きそうでしたもんね。了解です!」

「それと……」

彼はおもむろに視線を下げると、七子の顔を見て言った。

「今日も頼りにしてるからな、名無」

「もちろんです! 一緒に全日本行きましょうね!」

七子は兄の意思を継いで、世界で活躍できるコ・ドライバーの道を目指していた。
その道は決して平坦ではないものの、彼女の努力もあって着実に実力をつけ始めていた。
そしてコツコツと実績を積み重ね、今では全日本選手権を見据えて仲間のラリーストとともに活動するほどだ。


そんな七子の活躍に刺激を受けたのか、プロジェクトDを足掛かりに啓介はプロレーサーとしての道を突き進んでいた。

啓介はまだ駆け出しのレーサーではあるものの、驚異のテクニックを持った期待のルーキーとしてモータースポーツ界の注目を集めていた。
そして彼はそれに奢ることなく、夢に向かってひた向きに走り続けていた。

そして今日は、シリーズ第一戦の決勝当日を迎えていた。
天候にも恵まれ、絶好のレース日和である。

ロッカールームに到着した啓介は慣れた様子でインナーシャツを着ると、レーシングスーツに袖を通しジッパーを上げる。

「よし……!」

やはりこの瞬間は緊張するらしく、少しだけ表情を強張らせていた。
だがそれも一瞬のことで、すぐに気を引き締める。


そしてあっという間に昼を過ぎ、決勝レースが開始されるというアナウンスがサーキット場に流れると、観客は一斉に沸き上がる。

いよいよ今シーズン最初の戦いが始まったのだ。

啓介はこの日、スターティンググリッドに立つドライバーではなくリザーブドライバーとして参戦していた。
レースの途中でロッカールームに戻っていた啓介は、ベンチに座りながら時計を確認する。

そしてゆっくりと深呼吸すると、静かに瞼を閉じた。
彼の脳裏には、ふと懐かしい記憶が走馬灯のように蘇る。

様々な峠道のレコードを塗り替えるべく、チームの仲間達と共に走り回っていた日々。
そんな自分を、いつも隣で支えてくれた大切な存在。
そんな彼女の全てを思い浮かべた時、彼は小さく微笑んだ。

(俺なら行ける……あいつは、いつもそう言ってくれたから)

するとその時、ドアが開く音が聞こえる。

反射的にそちらを見ると、そこにはチームマネージャーが立っており彼に話しかける。

「高橋、あと十五周でドライバー交代だからな。もうピットに出てこい」

マネージャーは啓介に腕時計を見せると、何かを確認するような仕草を見せた。

「はい、了解っス!」

彼は元気よく返事をすると、再び大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。


そしてふと目に入った左手の薬指に嵌められた指輪を見ると、自然と笑みを浮かべた。


「お互い頑張ろうな……七子」


啓介はそう呟くと、リングにそっとキスを落とした。

「……しゃあッ! 行くか!」

そして気合いを入れると、颯爽とした足取りでピットへと向かっていったのであった。



つたな


(君と笑って泣いて、これからも一緒に今を生きて行こう)

(貴方とならどこまでも高めあえる。二人で輝きながら、駆け抜けたい)




fin.


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鈍川です。
ここからは、あとがきなので飛ばしてもらっても構いません。

バトルシーン書くの、すごく楽しかったです!
ですが、なるべく分かりやすくがモットーなので予定より長くなってしまいました笑
たぶん、矛盾とかなく書けていると思います。

啓介に彼女ちゃんが必要な意味が見つかってよかったと、書いてる張本人も思いました。
この二人は恋愛云々の前にドライバーとナビゲーターという阿吽の呼吸が求められる関係であり、それ故に強い絆で繋がれた信頼関係があったからこそ恋人になれたんでしょう。

そして、テーマ曲はもちろん
「Rage your dream」です!笑




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