駆け


(※前話「を」からお話が続いていますので、そちらからお読みください。)

そしてプロジェクトDが南関東での初勝利を収めた梅雨入り前から時は過ぎ、あっという間に夏を迎えていた。

その間にも彼らは関東近辺での交流戦やイベント戦などをこなし、着々とステップアップを重ねていたのだった。
今年限りの活動であるが故の必死さのおかげなのか、その実力はすでにプロドライバーにも引けを取らないレベルにまで成長していた。


そして迎えた久々のオフの週末。
何か夏らしいことがしたいというメンバーの発案により、全員で海水浴に行くことになったのである。

「へぇ〜、やっぱここの海って結構綺麗ですね」

「まぁな。関東の中でも群馬から比較的近いし、海水浴場として有名な場所だろ」

地平線を眺めている賢太に、砂浜にパラソルを立てながら啓介はそう言った。

この日彼らが訪れていたのは、茨城県の大洗にある有名な海水浴場だった。
紺碧の海が青い空に映える絶好のロケーションに加え、夏場には毎年多くの観光客が訪れることでも有名だった。

そしておそらくこの二人が一番早く水着に着替え終えたらしく、他のメンバーはまだ更衣室から出てきていないようだ。

「確かにこの辺りって小さい頃、僕もよく来ましたよ。親に連れられて……」

懐かしいなー、と感慨深げに賢太は呟く。

そんな彼の横顔を見ながら、啓介が口を開いた。

「やっぱここに来るよなあ、皆」

「そうッスね」

二人は何気ない会話を交わしつつレジャーシートを敷くと、その上に自分たちの荷物を下ろしていく。

そうこうしていると、ようやく他のメンバーが姿を現した。

「待たせたな。今日は、バトルのことは忘れて羽を伸ばしてくれ」

「そうさせてもらうぜ、兄貴」

涼介の言葉に啓介は同意したように返事をすると、そこへ七子が遅れてやってきた。

「すみません、遅くなっちゃって!」

少し恥ずかしそうな様子を見せる彼女に、男連中はすぐに視線を向ける。

七子は白いビキニを着ていて、その上にホルターネックの透け感があるレース生地を着ているため胸元は隠されており、ボトムは黒いミニスカートのようなデザインになっていた。
程よく引き締まったウエストラインが強調され、彼女のスタイルの良さがよく分かる。

そしていつもひとつにまとめて結っている髪を下ろし、カチューシャをしていることも相まってか色気を感じずにはいられない姿になっている。

ラフな格好をしている彼女なので、あまり見ることのないその姿に思わず男性陣は見惚れてしまう。

「あんまり見ないでくださいよ……私、水着とか慣れなくて……!」

顔を赤くして手で隠す七子だったが、それは逆効果にしかならず煽情的に見えてしまっていることに本人は気がついていないようであった。

そんな七子の姿に、啓介はニヤリとした笑みを浮かべる。

「いいじゃねぇか。似合ってんじゃね? 馬子にも衣装ってな」

「ちょっと、なによそれ!」

「褒めてんだって! 俺的には、それくらいがマジで好みだけどなァ」

普段とは違う雰囲気の彼女を見て、率直な感想を述べる啓介。

しかし、その言葉を聞いた途端七子の顔はさらに赤くなり、耳まで真っ赤に染まってしまった。

「あ、ありがとねっ!」

照れ隠しのようにお礼を言うと、彼女は慌てたようにシートの上に荷物を置いた。
そして彼女は、そのままパラソルの下へと避難するように座り込むと持ってきた飲み物を口にした後、サンダルを取り出した。

すると賢太がすかさず声をかける。

「なあ七子、背中にオイル塗ってくれない? あとでもいいんだけど」

鞄の中から取り出したであろうサンオイルのボトルを見せながら賢太は言う。

「え! 私がですか!?」

そんな彼の提案に対して七子は戸惑ったような表情を見せた。
しかし彼の願いは、啓介によってすぐに却下される。

「おい、賢太。他の奴に塗ってもらえよ」

「でも俺は七子にお願いしたいんですけど……」

「はぁ? 却下だ、却下!」

そう言って、啓介は彼の肩を掴み無理矢理後ろを向かせると拓海の方へ押しやった。

「ちぇっ……」

残念そうにする賢太だが、彼は諦めたのかおとなしく拓海の方に身体を向けた。

「ったく、油断も隙もねえな……」

呆れたように呟く啓介に対し、涼介は苦笑いするしかなかった。

真夏の太陽に反射しキラキラと輝く海面を眺めながら、涼介が口を開く。

「とりあえず荷物番も兼ねて、俺はパラソルの下で待機しておくから」

「分かりました。何かあったらすぐ呼んでくださいね」

「ああ」

その返事を聞いたメンバーたちは、それぞれ海へ向かって行った。

そして彼らは浜辺を歩きながら波打ち際へと向かったり、ビーチボールを使って遊んだりと各々楽しんでいた。


それから一時間ほど経った時だった、涼介が海にいる啓介を呼び寄せると彼をレジャーシートの上に座らせて何かを話し込んでいる。
すると啓介の顔が、見る見るうちに不機嫌そうな表情へと変わっていく。
そして涼介はそんな彼の様子を気にすることなく自身の鞄を手に取ると、啓介に後ろ手で手を振りながら駐車場の方へと歩いて行ってしまった。

そんな涼介の行動を見て彼はため息をつくと、レジャーシートの上に胡座をかいて座り込み腕を組む。

「……ったく、何考えてんだか」

そうやって兄への愚痴を零しながら眉間にシワを寄せた啓介の視線の先には、メンバーたちと遊んでいる七子の姿があった。
彼女は啓介の存在には気づいていないようで、無邪気に笑いながら仲間たちと楽しそうにしている。

その姿を見て啓介は再びため息をついていた。

(……何やってんだよ、俺は)

無意識のうちに七子の姿を目で追っている自分に気づいて、啓介は苦笑する。

確かに彼女の存在は、彼にとって大きなものになっているのは間違いない。

ただそれは、恋愛感情とはまた違うものだと彼は思っていたのだ。
七子という存在が自分に及ぼす影響は大きいが、それでも自分の気持ちは彼女に対して恋心を抱いているわけではないはずだと。

だが今、彼女のことをこんなにも意識している自分がいるのも事実だった。

彼の胸の中には今まで感じたことの無いような感覚が生まれていて、それを持て余していた。

しかし彼にはこの道に進んだ時から、決めていたことがあったのだ。
それは、自分に打ち込めるものがある限り恋愛には目を向けないことである。

もちろん全く興味が無いわけでもないのだが彼にとっては今が大切だと思っているからこそ、この決断をしたのであった。

だが今のこの状況はどうだろう?

頭では理解していても、やはり彼女を前にして平静を保つことは難しかった。

そんなことを考えているうちに、啓介の中でどんどん罪悪感が大きくなっていく。
それは彼女への思いを封じ込めておかなければならないという考えの元、彼女に対してどこか一線を引いてしまうが故に、申し訳なく思ってしまうというものだった。
だからと言ってこれ以上彼女に踏み込むことができないことも、もし入れ込んでしまうときっとプロジェクトに本気で取り組むこともできなくなってしまうことも分かっていた。

そう考えると、啓介は自分の中の葛藤を抑えきれなくなってしまい何度目になるのだろうか、深いため息をついた。

その時ふと、七子と目が合った。

すると彼女は嬉しそうに笑って手を振って来たので、思わず反射的に振り返してしまう。

そして彼はそんな自分自身の反応に戸惑いながらも、話し相手がいなくなって暇になったのか彼女をパラソルの方へと呼び寄せたのだった。

そして呼び止められた七子と啓介は、パラソルの下で二人並んで座っていた。
ちなみに他のメンツはというと先ほどから飽きもせず、泳ぎに行ったきりのようで二人きりの状況だった。

そして二人は座ったまま、ぼんやりとその様子を見つめていた。

「にしても、あのバカ兄貴め……。せっかく皆で海に来てるって言うのに、用事があるから一人で先に帰るなんてどういう了見だよ……」

啓介は不満げに呟くとため息をつく。

どうやら涼介は先に海水浴場を発ってしまったようで、代わりの荷物番に二人が付いていたようだった。
そして七子は小さく笑うと、彼の方を見た。

「まぁまぁ。きっと忙しいんでしょ?」

「自分で今日のためにわざわざ予定組んだくせによく言いやがるぜ……」

「そうなんだ」

七子はクスッと笑みを浮かべると、彼と同じように遠くを見つめた。

「七子、遊んで来たかったら行ってこいよ? 俺が勝手に呼んだワケだし」

「私はもう充分楽しんだから大丈夫。それに……やっぱ、ちょっと恥ずかしいし!」

「んなこと気にすんなって。似合ってるって言ったろーが。つか、それ着てる方がエロいし……」

啓介の言葉に、七子は再び顔を赤くした。

「だから! そういうこと言うの禁止って!」

「何、顔赤くしてんだよ」

ニヤニヤしながら啓介は、七子の顔を覗き込む。
そんな彼に彼女はムキになって反論した。

「啓介が変なことばっかり言うからでしょ!」

「俺のせいかよ?」

「そうだよ!」

七子はキッパリと言い切る。

しかし、そんな彼女の態度に啓介は少しだけ嬉しそうに微笑む。
彼の余裕そうな表情を見て悔しくなったのか、七子は啓介の肩を軽く小突く。

「痛っ!」

そして顔を背けると、彼女は再び海に視線を移した。

真夏の煌めく太陽に照らされた海面は美しく輝き、まるで宝石のように眩しかった。
さざ波の音と人々が楽しむ声が聞こえる中、ゆったりとした時間が過ぎていく。

「……なんかこうして二人で話すのって久々じゃない?」

「まぁな。最近はバトルばっかで、あんま時間なかったしな」

「そうだよね」

そう言って、七子は微笑む。

確かにここ最近、彼らはバトル漬けの生活を送っており、なかなかゆっくりする時間が取れていなかった。

忙しくなる前は、走り込みをする以外でも市内のファミリーレストランで食事をしながら二人でミーティングをすることも多かったのだが、それもあまりできていないようだった。
そのため、時間に縛られずに過ごせるタイミングがあるだけでも有難かった。

「……たまにはこうやってのんびりするのもいいな」

「うん」

啓介が言うと、七子は同意するように返事をした。
すると、彼女は啓介の方をチラッと見る。

すると彼の首筋から胸元にかけて汗が流れ落ちているのが見えた。
その光景を見た瞬間に七子は、何故だかドキリとする。

普段あまり意識しない彼の姿に妙に色気を感じてしまったからだ。

「なんだ?」

不思議そうな表情でこちらを見る啓介に、七子は慌てて目を逸らす。

「あ、ううん。なんでもない!」

「そうか? ならいいけどよ……」

そう言って、彼は飲み物を口に含んだ。

彼の仕草一つひとつに……その横顔に、思わず見惚れてしまいそうになる。
普段はぶっきらぼうでバトルになると熱くなるイメージが強い彼だが、いざという時は頼りになる一面もある。

そんな彼にいつの間にか七子は、憧れを抱いていた。

「啓介はさ、私と一緒にいて楽しい?」

「急になんだよ」

「いいから、いいから」

「まぁ……退屈はしないな。寧ろ、趣味が合うから楽しいぜ」

「そっか」

そう言って七子は静かに笑う。
啓介の返事を聞いて安心している自分に気がつき、七子は驚いた。

それは彼が自分といることを楽しんでくれているということが、とても嬉しいと感じていたからだった。

「そう言う、お前はどうなんだよ?」

「え? わ、私は……もちろん楽しいよ!」

「ふーん……」

「まあでも、いつも一緒にいるから慣れちゃったのかも」

「俺とは違うのかよ」

「そういう意味じゃなくて!」

拗ねたように言う啓介に対し、七子は焦ったような口調で言う。
そんな彼女を見て彼は小さく笑った。

「冗談だよ。そんな慌てんなって」

「もぉー、啓介の意地悪!」

「悪い、悪い」

そう言いながら、啓介は謝る。
しかし、その表情はどこか楽しげだった。

確かに彼と過ごす時間は居心地が良くて、自然体のままでいられる。
しかしながら、それだけではない何かがあるのかもしれない。

七子は改めて自分の気持ちについて考えた時に、今まで彼にこんな感情を抱いたことはなかった。
だからこそ、この気持ちが何なのか分からず戸惑ってしまう。

「啓介はさ……彼女作らないの?」

そして視線を海に向けると、ぽつりと呟いた。

「え、どうして?」

「いや、何となく聞いてみたくて」

すると、彼女は苦笑いを浮かべた。
その表情にはどこか不安そうな様子が見える。

啓介はその様子を見つめていると、少し考える仕草をして口を開いた。

「まあ……俺が峠を走ってる限りは、作らないな」

彼はそう答えると海を見つめた。
その瞳はとても真っ直ぐで真剣そのもので、嘘偽りのない言葉だと分かる。

「走ろうって決めた時、彼女居たけど俺からフッた」

「え、そうなの?」

「俺は、本気で走りたかったんだよ。やさぐれてた俺に目標をくれてさ……兄貴が。マジでやらねえと、申し訳立たないだろ?」

そう言って啓介は笑顔を取り繕っているようだが、その表情からは後悔など微塵もないように見える。

そして彼の言葉に七子は、ハッとした。

確かに彼は車を走らせることが好きであり、今はレースに全力を注いでいる。
それならば、恋人を作ってデートをしたりなどするよりも、バトルをしている方が彼にとって幸せなのだろうと。

「そっか、そうだよね」

「でもなあ……」

啓介はそこで言葉を濁すと少しだけ視線を落とし、考え込む。

「前の彼女は、峠にマジになってる俺のことを理解してくれるとは到底思えなかったから、って言うのもあるし」

「うん」

「……単純に、俺がそっちにうつつを抜かしちまいそうなだけだけど」

そう言って、啓介は自嘲気味に笑みを浮かべた。
そんな彼に七子は何も言えず、ただ黙って聞いていた。

「ふーん……」

「ふーんって、興味ナシかよ」

彼は七子の反応に呆れた様子で言った。

すると、彼女は首を横に振る。
どうやら七子にしてみれば、そういうわけではないらしい。
優しく微笑むと、彼女はゆっくりと口を開く。

「ううん。なんか啓介らしいなぁって思って」

七子の言葉を聞いて、啓介は不思議そうに目を丸くしていた。

「どういう意味だよ」

「そのままの意味」

「あっそ……。そう言うお前は、どうなんだよ?」

啓介は照れ隠しのように話題を変えると、七子は目を丸くして驚いた。
まさか自分に同じ質問が返ってくると思っていなかったからだ。

「え、私?」

しかしすぐに冷静になると、困ったように笑う。
その笑顔はどこか寂しげだった。

何故なら、その問いに対する答えはすでに決まっているからだ。
だがそれを口に出すことはできず、曖昧な言葉で誤魔化すしかなかった。

「気になってる人はいるけど、どうかな……分かんないや」

そう答えると、七子は空を見上げる。

どこまでも青い空には白い綿雲が流れており、穏やかな時間が過ぎていく。

そんな彼女の横顔を啓介は、じっと見つめていた。
すると、彼は静かに口を開く。

「そうか……」

七子がその声に反応するように振り向くと、そこには少しだけ切なげな表情をした啓介がいた。

そんな彼を見た瞬間、七子は胸の奥を締め付けられるような感覚に襲われる。

「でもさっきああ言ったけど、俺もさ……迷ってんだよな」

それは意外な一言だった。
彼も自分と同じように悩んでいることがあるのだろうか。
そんなことを考えていると、彼が言葉を続ける。

「前から好きな子がいてさ」

「……」

その言葉を聞いて、ドクンと心臓が大きく跳ねると同時にズキリと心が痛んだ。
それはまるで刃物で刺されたような痛みだった。

どうして、こんなにも苦しいのか。

自分でも分からない感情に七子は戸惑っていた。

「その子とはさ、上手くいくかもしれねえって思うけど……自信ねぇんだよな」

啓介の話を聞きながら、七子は彼の顔を見ることができなかった。

彼に好きな人がいるという事実を聞いてしまった自分の気持ちを整理できず、頭が混乱しているせいかもしれない。
今すぐここから逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。
だけど、それをしたら彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。
だから、逃げるわけにはいかない。

そう思いながら七子は拳を握りしめると、ゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

「そっか……」

そして絞り出した言葉は、それだけだった。

七子は平静を装いつつも、内心では動揺していた。
彼の口から好きな人の話を聞くことが、こんなに辛いものだとは思わなかったのだ。
今まで啓介と過ごしてきた時間の中で、こんな感情を抱いたことはない。

しかしそれと同時に、彼に対する想いが募っていくのを感じていた。
この想いが溢れてしまう前に決着をつけなければならないと思ったのも事実だった。

「きっとその子も、待ってるんじゃない? 啓介のこと……」

だからこそ七子は必死に言葉を紡いだのだが、啓介の恋が成就すれば良いと願っているのに、何故か応援することはできずにいた。

むしろ啓介の告白が成功することを恐れてさえいた。

この複雑な感情が一体何なのか分からず、七子は自分のことなのに理解できなかった。

ただ一つ言えることは、啓介を他の誰かに取られたくないということだけだった。
それならば、自分が取るべき行動はただひとつだと悟った。

「そう、かもな」

啓介はそう呟くと、苦笑いを浮かべた。
彼女はそんな彼の表情を見ると、努めていつもの調子で言う。

「啓介も、そういうことで悩んだりするんだね」

いつも強引でマイペースな性格をしているから、恋愛に対しても同じように強引なのだろうと思っていた。

だがその見当は、違ったようだ。

啓介は見た目に反してとても繊細で、そして優しい。
だからこそ、相手のことを傷つけないように慎重に行動しなければならないと考えているに違いない。

「ったく……俺のことなんだと思ってんだよ!」

そう言って、啓介は七子の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

その表情は、先ほどまでの悲しそうな表情ではなく明るいものに戻っている。

きっと自分が不安にさせてしまったのだろう。
そのことに申し訳なさを感じながらも、七子は安心したように微笑む。

啓介に悲しい表情をさせたままだと、自分自身が後悔してしまう気がしたからだ。

「あはは、ごめんごめん!」

彼女は笑みを浮かべて謝りながら、乱れた髪を手櫛で整える。

すると、突然啓介が彼女の手首を掴んだ。

「……!」

驚いて視線を向けると、真剣な眼差しをした彼と目が合う。

その淡い色の瞳には熱が宿っており、七子を真っ直ぐに見つめていた。
まるで吸い込まれてしまいそうになるほどの強い意志を感じる。

だが、その視線から逃れることができない。

まるで金縛りにあったかのように、身体を動かすことができなかった。

彼は何も言わずに、ただじっと七子を見つめている。
その様子は、まるで何かを訴えかけているようでもあった。
だが、今の七子にはその真意を理解することはできない。

「けい、すけ……?」

七子は困惑しながらも彼の名前を呼ぶが、それでも彼は黙って彼女を見据えるだけだった。

彼は一体何を伝えようとしているのか。

そんなことを考えているうちに、どんどん鼓動が激しくなっていく。
顔も次第に赤く染まっていくような感覚を覚えた。

七子はどうしていいか分からず、思わず目を逸らそうとしたその時だった。

「悪ぃ」

ふいに彼が掴んでいた手を離す。
同時に彼女も我に帰ったように、ハッとした表情を見せた。

「え……あ、ううん……大丈夫」

すると彼はバツが悪そうに頭を掻きながら小さく息をついたと思うと、それから気を取り直すようにして口を開いた。

「俺ちょっと横になるわ……膝、貸せよ」

「え? ちょ、ちょっと嘘でしょ」

嘘つくかよと言い出すと啓介はごろんとシートの上に横になり、七子の太ももに頭を置くと、そのまま目を閉じてしまう。

「減るもんじゃねえし良いだろ? まあ……七子だったら、減ったとしても文句ねえだろ」

啓介はそんな軽口を叩いているものの、その表情はとても穏やかだった。
その姿を見て、思わずクスリと笑う。

「失礼すぎっ」

軽く彼の頬をつねると、痛ぇな……と悪態をついて彼も笑顔になる。

そんなやり取りが楽しくて、嬉しくて仕方がなかった。
そして同時に、自分の胸の奥に芽生えた小さな感情の正体を理解した。

自分は啓介のことが好きなのだ。
だから、彼のことを誰にも渡したくない。

この気持ちを伝える勇気はまだないけれど、いつか伝えることができたなら――。

そんなことを考えながら、七子は彼の耳元にそっと自分の顔を寄せていく。

「おやすみ」

囁くような声でそう言うと、啓介は返事の代わりに小さく笑って彼女の手をそっと握った。

それがたまらなく愛おしくて、七子は彼の頭を優しく撫でる。

今はこれで十分だった。

啓介が自分の気持ちに応えてくれるまで、この想いを大事にしようと思った。
そして彼が迷うことなく自分を選んでくれる日を待ち続けようと。

彼にとって一番大切な人になりたいという願いを込めて。



そしてその数日後、自分の部屋で寛いでいた啓介の元に一本の電話が入った。

「おい啓介、電話来てるぞ。七子から」

「え?」

不意に部屋の外から呼び掛けられ、彼は慌ててベッドから起き上がると扉を開ける。
するとそこには、保留中の音楽が鳴っている子機を片手に持ちながら立っている兄の姿があった。

「電話?」

「お前に用があるんだとさ、ほら」

「ああ……すまん、サンキューな」

「終わったら返しに来てくれ」

涼介がそう言いながら受話器を手渡してから部屋から出ていくと、啓介は不思議そうな表情を浮かべたまま受け取る。

何故いきなり電話をかけてきたのか疑問に思いつつも、部屋に戻ると啓介は通話ボタンを押して耳に近づけた。

「あーもしもし、七子? どしたんだよ急に」

『あのさ……』

七子の声を聞いた瞬間、彼の心臓は大きく跳ね上がった。
そして彼女の声音からはいつものような元気さが感じられず、どこか不安げな様子だった。

「おう」

『今度の土曜日の夜、暇?』

「え、土曜?」

唐突な問いかけに啓介は戸惑いを隠せなかったが、すぐに我に返って、慌てて言葉を返す。

「まあ、空いてるけど? なんかあるのか?」

すると彼女は一瞬黙り込んでしまった。
一体何があるんだろうと思いながら待っていると、彼女はゆっくりと口を開く。

『あのね、お願いがあるの……』

「なんだよ、改まってさ」

普段の彼女からは想像できないほど、弱々しい声色だった。
何かあったのだろうかと、そう思って首を傾げていると彼女は静かに呟いた。

『私とこの先も一緒に居たいって思ってくれてるなら……啓介と初めて会った場所で待ってる』

その言葉を聞いて、啓介は大きく目を見開いた。

彼女が何を言っているのか理解できなかった。
否、正確には分かってはいたが信じられなかったのだ。

「それ、どういう意味だよ……」

掠れた声でそう呟くと、彼女は答えることなく沈黙する。
まるで啓介の反応を窺っているかのような間が空いた後、彼女はようやく言葉を発した。

『啓介に、ちゃんと伝えたいことがあるから……』

「そうか」

七子の言葉を聞き、啓介は短く返事をする。

彼女が言おうとしていることが分からないほど、啓介は鈍感ではない。
だからこそ、これから起こるであろう出来事が怖かったのだ。

「伝えたいのはそれだけか?」

『うん……わがままでごめんね』

「いや、別に構わねえけど」

本当はもっと言いたいことがあったはずなのに、何故か言葉が出てこなかった。
それはきっと自分の中に不安があったからであり、それを口にするのを躊躇われたからだった。

そしてお互いに無言のまま時間が過ぎていく中、先に切り出したのは七子の方だった。

『じゃあ、またね』

「……またな」

電話を切る間際まで、二人は何も話すことができなかった。

そしてその会話を最後に、七子との通話は切れてしまう。
ツーツーと無機質な電子音が鳴り響く中、啓介は呆然とその場に立ち尽くしていた。

「……」

しばらく無言のままその場に立っていたものの、やがて力無く座り込んだ。
そして大きく息を吐き出しながら、両手で顔を覆ってしまう。

「マジかよ……」

啓介は七子の気持ちに、ようやく気付いたのだ。
それと同時に彼女に対して自分が抱いている感情も、はっきりと自覚してしまった。

ただ、それを口にしてしまうことで関係が崩れてしまうのではという恐怖心と不器用な自分の性格のせいで、ずっと曖昧なままにしていた。

それでも七子は、そんな自分の気持ちを知っている上で、こうして伝えようとしている。

応えなければと思う反面、まだ迷っている自分が居ることも事実だった。
本当にこのまま進んでしまったとして、その先、彼女を幸せにできる自信がなかった。

しかしそれは傍から見れば、自分はただ七子を傷付けたくないだけだと言い訳をして逃げているようにしか思えなかった。
そしてこの期に及んでも、手を伸ばせば掴めるところにある幸福を捨て去る勇気は持てなかった。

啓介はふらふらと立ち上がると言われた通り、涼介の部屋のドアをノックした。

「兄貴、電話返すわ」

外から呼び掛けて中から返事が聞こえてきたと思うと、すぐに扉が開かれた。

「ありがとうな」

「……ああ」

部屋から出てきた涼介は、不思議そうな表情を浮かべていた。

「七子から電話なんて珍しいな。走り込みでもするのか?」

「あー……いや、そういうんじゃねえけど」

涼介の問いかけに対し、啓介は言葉を濁す。
だが、涼介は納得していない様子で啓介の顔をじっと見つめた。

「じゃあ、デートの誘いか?」

「…………」

啓介は何も言わずに目を逸らす。
そんな彼の反応を見て、涼介は大きなため息をついた。

「図星か。本当にお前は隠し事が下手だな」

啓介は諦めたように小さく笑う。
そして何もかも見透かすような視線を向ける彼に、観念したかのように口を開いた。

「はあ……。今週の土曜の夜に、伝えたいことがあるから初めて会った場所で待ってるってさ」

「そうか」

「……そうか、って! なんか他にも言うことあるだろ!」

「おめでとう、とでも言えばいいのか?」

「だから、違ぇよ! いいや、兄貴じゃ話になんねえ……」

啓介は頭を掻きむしると逃げるようにして部屋を出て行こうとするが、涼介は彼の腕を掴んで真剣な表情を浮かべた。

その表情を見た瞬間、啓介は思わず動きを止める。

涼介はゆっくりと息を吐きだすと、静かに問いかけた。
啓介は七子が好きだ、と言うことを涼介は何となく分かっていた。
だからこそ、彼にこんなことを言ったのだ。

「じゃあ、どうするつもりなんだ? その言葉を聞く覚悟はあるのか?」

七子の言葉の意味を理解した上で、啓介は彼女の想いに応えることができるのか。
それは彼自身にしか分からないことだ。

しかし彼は、その問いかけに答えることができなかった。

もしも答えてしまったら、彼女と今までのように過ごすことができなくなってしまうかもしれない。
その結果として、涼介のプロジェクトに支障をきたしてしまう可能性もある。
そのリスクを考えると、どうしても踏み出すことができないのだ。

その沈黙こそが、彼の答えだった。

涼介の手を振り払うと、そのまま逃げるようにして階段を音を立てながら下りていった。

そのまま玄関へ向かうと、啓介は靴を履いて勢いよくドアを開け放つ。
そして外へ飛び出すと、大きく息を吸い込んで空を見上げた。
いつの間にか太陽は沈みかけており、辺りはすっかり暗くなっていた。

そんな景色が自身の心を映しているかのようで、啓介は自嘲気味に笑みを浮かべる。

そのまま駐車場に止めてあるFDのところまで歩いていくと、啓介はそのボンネットを優しく撫でた。

そして先程の兄の言葉が脳裏に浮かび上がる。

――覚悟はあるのか?

「……そんなの、ねぇからこうなってんだよッ」

その言葉は誰にも届くことなく、虚しく消えていく。
この感情をどこにぶつければいいのか分からず、ただひたすらに唇を噛み締めることしかできなかった。

(俺は結局、予防線張って逃げてただけなのか……)

自分は、彼女の笑顔を守ってあげることができるのだろうかという不安ばかりが募り怖くなってしまった。
だからこそ、ずっと曖昧にし続けていた。

「なあ、教えてくれよ……」

彼は車に手を置いたまま俯くと、苦しげな声で呟いた。
それは自分自身に対して向けられた問いであり、同時に助けを求めているようでもあった。

そんな時でも、彼は自分の本心を口にすることができない。
それどころか、また言い訳ばかりを考えてしまうのだ。

そんな自分が情けなくなってしまい、大きく息を吐き出す。

それでも思い出すのは、やはり彼女のことだった。

二人で積み重ねてきた時間が、彼女のその笑顔が啓介の中で色鮮やかに残っている。
それがどれだけ大切なものだったか、今になって思い知らされた。

そしてそんな気持ちを抱えながらも、これからも七子と一緒に居たいと願っている自分が居ることにも気付かされる。

しかし、堂々巡りを繰り返すばかりで一向に結論が出なかった。

そんな自分が腹立たしいのか、あるいは悲しかったのだろうか、彼は拳を握りしめたまま強く歯軋りをしていた。



To be continued...




- 10 -
← prev backnext →