最期の望み
レギュラス・ブラックにとってラミア・セルウィンは唯一無二の存在だった。
出会った当初は同じ純血として関わっていて損はないだろうという程度の認識だったのにも関わらず、時間を共にする内に彼女が純血のセルウィン家の人間だからではなく、ラミアだから共にいたいと思っていることに気が付いた。
この先もずっと共にいられればいいと、そう思うようになるのにそう時間はかからなかった。
その名称を知ったのは彼女と出会って三年ほどが経ったある休暇のブラック家でのことだった。両親にホグワーツでのことを聞かれ、ラミア・セルウィンの名前を出したときに母親がぼそりと言ったのだ。『死の一族』と。
それ以上母親からそのことについて聞きだすこともできず、レギュラスは自分で調べることにした。ホグワーツの図書館にある本はどれも中途半端に書かれているだけで、核心に触れることはない。自宅の本でも詳しく書いてあるものは見つからない。ただ一つ分かったのは「セルウィンの人間は短命である」ということだった。
出会って五年が経った頃、一度聞いたことがある。自分が短命であることを悲しいとは思わないのかと。ラミアは変わらない真実なら受け入れる以外のことはしないとそう言った。
もし彼女が家族を失うより前に同じことを聞いていたなら返答は違ったのだろうか、と今でも思う。
レギュラスが死喰い人になって、ラミアに知られた。自分の家族を殺したその仲間に入ることを軽蔑するか・憎むのかと聞いたとき、ラミアは泣きそうに叫ぶように言ったのだ。
『憎んだりしない。それが私とレギュラスだ。私はレグがどんな道に進んだって変わらない。そんなことで変われるほど、私は弱くない。相手がどんな道に進んだって、私には関係ない。それでも私はレグと親友でいたいよ。相手がどんな考えを持っていたって、どれだけ自分と正反対であったって、それがレギュラスなんだ。
いつか道が離れることなんて、ずっとわかってた。それだけ私とレグには違いがあるから。
それでも、それでも。私はレグといたいよ…!』
もう離れられない、とレギュラスは思った。それと同時に自分より先に彼女が死んでしまうという事実がようやく圧し掛かってきた。
誰にでも死というのは突然訪れる。レギュラスより先にラミアが死ぬというのも確定事項というわけではない。一瞬先ですら必ず死なないという確証はないのだから。しかしそれでも、レギュラスにとってこの事実が耐えがたいほど恐ろしいものだった。
だから闇の帝王を裏切ってあの洞窟に向かった時、レギュラスは安堵していたのだ。彼女の死を見ることなく死ねるという事実に。ラミアはレギュラスが強いと言う。レギュラスは自分が強いと思ったことなど一度もなかった。
記憶を失い、レジナルドとしてラミアの隣にいるのは苦痛であり甘美だった。無力になった自分を守られているようで、しかしそれを覆せるだけのものを持ち合わせていない。自分の中のレジナルドがラミアに執着していくのを感じる度に、彼女がそれを望まないのを誰よりも知っている何かがやめろ叫ぶ。その何かは失っているはずなのにレジナルドの中で少しずつ変わっていった。
記憶を取り戻したレギュラス・ブラックはラミアが望むままに生きられるように、自分の悲しみをレジナルド・アークライトと共に閉じ込めることを決めたのだ。
腕の中で少しずつ呼吸を浅くしていくラミアを見つめながら、心の奥が悲しみに叫んでいるのを感じる。それでも受け入れなければならない。それがラミアの望む未来なのだと、解っているのだ。彼女が望みさえすれば共に逝くことだってできるのに、彼女は絶対にそれを望まない。
ただ、それなのに。
「もう一度、かぞくが、ほしかったかな……」
ラミアのその言葉にレギュラスはもう悲しみを閉じ込めることができなくなった。ぼろりと零れる感情に心が追い付く間に、彼女はゆっくりと呼吸を止めどんどん冷たくなっていく。
その望みを自分ならもしかしたら叶えられたかもしれない。紛れもないレギュラスが望んだものと同じものだったからだ。
わかっている。今までの彼女ならレギュラスが望んだところでそれを受け入れることなどなかった。このままのあの日から変わらない関係のまま、終わることを望んでいたのは彼女自身だったから。わかっているのだ、そんなことは。
それでも後悔が消えることなどない。
+*+*+*+*+*+*+*+*+
「君が取り戻しに来たのは、君の妹か」
男とも女ともつかない声が少年に語り掛ける。白い世界に滲む黒い『死』は少年の目の前にまで来ると、その少女を差し出した。少年は目の前に寝かされた少女の元にしゃがみ込む。
「ラミア!」
「すぐに目を覚ます。幼いアナスタシアの子よ」
少年は気を失った少女をひとしきり揺り動かして彼女が息をしているのを確認すると、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたが『死』?」
「そうだよ」
「アナスタシア・セルウィンと契約をした?」
『死』はもう一度「そうだよ」と言いながら少年の頭を撫でる。暗い闇は酷く冷たいのに、少年は嫌な感じはしなかった。
「我とアナスタシア・セルウィンとの契約。魂を受け取り魄を守り、魄を受け取り魂を返す」
少年は昔から父親に聞かされていた話を思い出す。それと同時に自分の妹をじっと見つめた。
「この契約はずっとこのままなの?」
「それは我の加護を持つもの次第だ」
少年は妹を蘇らせた時点で加護を失っている。少年は知っていた、『死』の加護を持つものはもうたった一人しかいない。
「ラミアが望めば?」
「そう。それがアナスタシアとの契約。君は契約の終わりを望むの?」
「ラミアには長生きしてほしいんだ」
少年がそう言えば、『死』は冷たい闇を少年に差し出し、少年はその闇に手を重ねた。
「契約しよう。アナスタシアの子よ。本来ならこの子が直接我に契約破棄を申し出なければいけないのだけれど、特別に君を代行者として認めよう」
「本当?」
「ああ。ただ条件が一つ。この子が自身の生を望み、自身の先を望む。この子の意思を尊重しよう」
「ならきっと大丈夫」
「待っているよ、我はここで」
小さなうめき声をあげて少女が目を覚ます。
「おはよう、アナスタシアの子よ」
「だれ……?」
「君の加護をする者。君が先を望むのを待っているよ」
「先?」
「そう。今の君にはわからないだろうけれど。いつか、きっと」
冷たい闇が少女の頭に触れる。少女は一瞬ふるりと震えるが、拒絶はしなかった。
「思い出したかい」
眼前の出来事は煙のように消える。代わりに現れた『死』は私に向かってそう言った。
「君ときたら、我の元へ来る直前に望むのだもの」
「……遅かった?」
間に合わなかったのだろうか。私はそう思いながら涙を流していた。その涙が眼前にいた兄に対してのものなのか、自分の生に対してなのか、それともそのどちらもなのか、自分ではもうわからなかった。
生きたいと、思わなかったわけじゃないはずだ。ハリーの幸せな未来を見て、記憶の戻ったレギュラスと共に生きていく未来を夢見なかったわけじゃない。
それでも、それらが叶わない夢であると呪われたように信じ切っていただけだ。
望めば望んだだけ、それが訪れなかった時の悲しみは一層強くなる。それに耐えるのは辛いと思った。
『命を、後悔のないように』
いつか、自分と同じように加護を持つ父に言われた言葉だ。愛する人より先に逝くということがどういうことなのか、何度も私に語り掛けていた。
『相手を残して逝くとわかっていても、共にいたいと望んだんだよ。だからこそ目の前でアリシアの息が止まった時に、私は迷いなく自分の魄を差し出したんだ』
父が母を蘇らせたのは私が生まれるより前の話だ。
『ラミアにもいつか、そんな風に思える相手が見つかる。自分より先に逝くことを認められない相手が』
そんな相手が私にはいただろうか。私が蘇らせたシリウスは少なくともそんな相手ではなかった。ただハリーの願いを最期に叶えたいと思った。
『どうして親友であるレギュラス・ブラックを生き返らせることはしなかったんですか?』
ハーマイオニーからの問い。私は彼がそれを望まないからと答えた。しかしもし本当にレギュラスがあの日命を落としていたなら、私はきっと悲しみの勢いのまま彼を蘇らせていただろう。そして後悔するのだ。何度も彼に謝罪して、私のエゴのために生きなければならなくなった彼への罪悪感で押しつぶされそうになるのだ。
記憶を取り戻すときにだって、何度も思ったことだ。私のエゴのために、彼を取り戻そうとする。勝手にレギュラスを待ち続けると言って、勝手に、勝手に。
姿かたちはレギュラスなのに、それ以外は全て違うレジナルドを見ているのが辛かった。私にとって唯一無二で最愛の相手が、ここにいるのに、いない。取り戻すことが許されないのなら、いっそあの日に死んでいた方が良かったのではないかとも何度も思った。
記憶の戻ったレギュラスから与えられた「ありがとう」の言葉だけで私は勝手に救われたような気がした。自分のしていることは余計なことではなかったと、ようやく思えたからかもしれない。
未練など、なかったのだ。ハリーは私以外にたくさん頼れる相手はいるし、たくさんの学生たちにいろいろなことを教えることもできた。シリウスはまたハリーと共にいられる。レギュラスは私を永遠に自分のものだと言ってくれた。それだけで十分だった。
ただ自分に襲い掛かる冷たい死が目の前に来て、泣きそうに笑うレギュラスの顔を目の前に見て、最期の一瞬くらいは望んでもきっと辛くないと思った。後悔をする一瞬すらない死の間際で、私は初めて生きたいと思った。生きて目の前の愛する人と共にいたいと思った。いつか失った温かい家族を、また手に入れたいと思った。
「遅くはないよ。まだ大丈夫」
「え……」
「ラミア・セルウィン。契約は終わり」
目の前の白い世界が徐々に闇にのまれていく。『死』の姿が闇に溶け込み見えなくなったところで、私も闇の中に吸い込まれ抗うことなく体の力を抜いた。
+*+*+*+*+*+*+*+*+
ラミアの死に、皆がそれを受け止めきれないまま動けないでいる。近いうちに訪れるだろうと思っていた終わりだが、それでも腕の中にいる彼女がもう動かないのだということが、触れている自分が一番わかっているのにレギュラスは呼吸をするのがやっとだった。
「ラミアは、終わってしまったか」
「ダンブルドア…」
ダンブルドアは杖を手にしたまま戻ってきていた。ベラトリックス・レストレンジを追いかけていたはずだが、この様子では逃げられたのだろうか。彼はラミアを見つめながら涙をこぼしていた。
「すぐに魔法省の人間が来る。大勢の前に自身をさらすのはラミアも望まないじゃろう」
ダンブルドアの言葉に腕の中で徐々に冷たくなる彼女を抱えたまま立ち上がろうとして、レギュラスは息をのんだ。シャンというベルのような音共にヴェールのあちら側から何かが現れたからだ。それはセストラルの背に乗って、そのままレギュラスの目の前まで来た。
世界に滲む黒いローブの中は冷たい闇だ。直感的に思う。『彼』は人ではない。
「こ、れは……」
その姿は自分以外の人間にも見えているようで、皆が呆然とそれを見上げている。それはゆっくりとセストラルから降りると、ラミアに手を伸ばした。
「やっとだ」
霞がかったその声は冷たく、甘く、真冬のしんとした夜のようだった。
「『死』、か…。何の用だ、ラミアを連れていくのか」
「我は契約と秩序にのみ従う。彼女の兄との契約だ」
「カイル・セルウィンと?」
「そうだ。そして、アナスタシア・セルウィンとの契約だ」
レギュラスの問いに答えた声は、先ほどよりずっと鋭く聞こえる。ラミアの兄、そしてセルウィンの始祖との契約とはどういうことだろう。『死』はラミアを連れていくわけではないのか。
『死』は伸ばした手でラミアの手の中から黒い杖を手に取り、煙のように消えた。
「杖が……」
「これで契約は失効された。戻っておいで、ラミア」
「え……」
『死』の冷たい闇がラミアの頭を撫でる。その瞬間室内にもかかわらず冷たい風が頬を撫でたような気がした。そしてラミアが呼応するように一瞬身じろぎして、ゆっくりと目を開いた。
「ラミア……?」
ラミアはひゅうひゅうと喉を鳴らしてから一気に酸素を取り込んだのか咳き込む。徐々に血色を取り戻す頬に触れれば、冷え切ったそれは少しずつ温かみを取り戻していく。
「れ、ぐ……」
未だ苦しそうではあるが、それでも彼女は自身で呼吸をして、生きていた。信じられない思いでラミアを見つめるが、他の皆も同じようだ。息を殺してこの異常な状態を見つめている。
「ラミア、特別だよ」
『死』のラミアにかける声だけはやはり甘く、まるで我が子にでも話しかけているようだった。ラミアはレギュラスから視線を外し、ゆっくりと『死』を見止めた。
「わかった。ありがとう」
「契約だ。アナスタシアとの。また、待っているよ」
『死』は再びセストラルの背に乗り、一瞬ラミアを見下ろしてからヴェールへ向かう。音もないそれに目が離せない。最後に再びシャンと小さなベルのような音がして、『死』は帰っていった。
「っ……」
小さな咳き込みに自分の腕の中に視線を落とす。ラミアが少し困ったように笑っていた。
「ただいま、レグ」
「っ、おかえり、ラミア」
レギュラスはラミアを力いっぱい抱きしめて応える。それと同時に周りからみんなの泣き声が聞こえて、ラミアはレギュラスの背に力なく手を回した。