愛する者からの逃亡劇

「探せ、見つけなければお前等が死ぬと思え。」

法正は怒りを隠しつつ冷静に命を下す。家臣は背筋をぞくりと震わせ、命がけである女を徹底的に捜索し始めた。

「何故だ………ななし…。」

脳裏に過るはそのきっかけとなる者。












「…………。」

何もかもが耐え切れなかった。
立派な許嫁がいながら、身分が違う私を彼は選び愛した。その愛が死んでもいいほどに嬉しかったが、略奪など到底出来るものでは無い。このままでは法正も許嫁も苦しむ、何より周りから悪とされるのは私だ。

屋敷を飛び出し、いっそ別の国へ行こう。きっとそこでも独りで生きて行かれる。

「貴方は、私を忘れて幸せになって欲しい。」

涙で視界を滲ませ、遠くなっていく屋敷を丘で見据えた。もう戻ることも無い、思い出も何もかも捨てきろうと決心した。

目を少し凝らすと多くの人がこちらに向かって走っている、あれは法正の家臣だろうか。抜け出した事が気付かれたのならもう時間はない。

「早く、行かなきゃ。」

転びそうになりながらも走る。暗い道、襲いかかる恐怖を抑えこんで必死に駆けて行く。次第に彼等の姿も小さく霞んでいった。

「あ………。」

気が付けば己に纏っていた衣を何処かで落としてしまったようだ。しかし今更引き返すわけにも行かない。捜索の手掛かりとなったとしても早く逃げなければ。





そうして妖しい月は真上に昇る。

「痛い………でも、もう少しで……。」

慣れぬ走りはななしの脚を酷く蝕んだ。流石に無理はまずい、ふらりと身体が傾くのを何とか堪え物陰で憩う。息は上がり、早い呼吸を幾度も繰り返す。

途端に眠気も襲う、こんな所で眠ってしまえば目が覚めた頃には屋敷の中に違いない。
それだけは何としても避けなければ。

「駄目よ…寝たら彼はきっと。」








「お前を連れ戻すだろう…。」

後ろから聞こえる低い声で身体が氷の様に固まった。

「…………法、正…様?」

声を震わせ会いたくなかったその名前を呼べば、嬉々と彼は口角を吊り上げた。
しかし振り向けば何をされるか分からない、未知なる恐怖と対面しながら寒くなる全身を包んだ。

「何故俺の前からいなくなったのか……理由を教えてくれませんか。」

その声色はいつに無く優しく直ぐにでも抱き締めて答えたくなる程。だがそれはきっと罠だろう、冷静にならなければ。

「………その愛は…貴方には素敵な許嫁がいます。…彼女を幸せにしてください、このままでは可哀想です。」

はらりと流れる涙を必死に隠し話す。見つかったからにはどうにかして説得をしなければならない。彼が素直に聞いてくれるとは思わないのは重々承知、それでも諦めるつもりはかった。
彼等の未来、幸せの為に、愛された自分を犠牲にしても愛した者への恩返し。

「もう…私を忘れてください……きっと、その愛を受け取れば壊れてしまうから。」

「……ああ、本心ではないな。」

自分の気持ちに嘘をついてもやはり分かってしまう。それもそうだ、彼は私の全てを知ってしまっているのだから。

じゃり、土を踏みにじる音が近い。

「…………邪魔者がいなくなったとしたら、どうします?」

「どういう意味でしょう、か。」

嫌な汗が滲んだ、その紡ぐ言葉にはきっと深い意味はあるのだろう。これから執行するのかもう執行されたのか。出来れば前者で有って欲しい。

「……俺を見ろ。」

逆らえず恐る恐る振り向けば、目を見張るような光景が飛び込んだ。

「…………………………血?」

衣類に飛び散った誰かの血、暫く酸素に触れ僅かに黒くなっている。

「誰の血か、お分かりですか。」

「嘘………嘘よ……どうして。」

私の為に一体誰をその手で殺めたのだ、考えずとも答えは出る。すっと細められた目は光が失われていた。その代わりもっと別の物を得た喜びで光を灯す。

「貴女以外を愛する事なんて出来ませんよ、今更ね。」

今まで堪えてたありとあらゆる感情を涙にして流す。自分の為に犠牲になった彼女、謝罪をしても戻ることは無い。膝から崩れ落ちればそれを痛い程に優しく支えた法正。

「………酷い…彼女は純粋に貴方を愛していたのに……殺す事までしなくても……。」

「連れ戻すにはこうするしかなかったんですよ。貴女が二度と俺から離れない様にするには……。
ああ…理不尽極まりないか、だがそう思っても止めるつもりなんて毛頭なかった。興味も無い他人に幾ら愛されても俺は満たされない…心から恩を返すのはこの世でたった一人でいい。」

次々と繰り出す言葉は水の様に流れて消え行く。掴めない、彼の心の底の水を掬えない。

「……戻れ。」

最後に強く言い放たれた言葉によもや逆らうことは出来なかった。
今までなら。

「……私は………戻りません!!」

渾身の力で踏ん張り、走り抜ける。涙でほぼ周りが見えないが、とにかく離れなければ。
ここを抜ければ何もかも忘却出来る、彼を苦しめる事もなくなる。


「………。」

そんな姿を簡単に見逃すこと無い。
彼は布を思い切り伸ばし逃げる彼女の身体を縛り上げる。その勢いで身体を打った。

「………あっ、……。」

足掻けど頑丈に縛られ身動き一つ出来無い。そんな姿を静かに法正に見下ろされる。

「逃げる事など出来無い……そうでしょう?」

その黒い笑みは、しっかりとななしの瞳に映していた。




屋敷に戻れば、組み敷かれ寝床で幾度も愛される。その掴む腕は痛い程に、下腹部は悲鳴を上げる程に。一瞬罪の意識を感じてもすぐに快楽に上書きされ、彼しか求められない自分になっていたのだった。



(何もかもを犠牲にしても)