「賈充さん、あの………。」
目を開ければやはりあるのは違和感、起床直後誰かに名を呼ばれる事など無かった。それでも不快とは一切無縁だと思うのは何故だろうか。
「…………ああ、起きる。」
慣れないシャツに腕を通し、少しばかり乱れた髪を上げる。視線を声の主に向ければ、おどおどと何処か落ち着かぬ姿で顔色を伺う女。名はななしと言い、大学とやらに通う学生だそうだ。
「くく、どうした………俺の顔に何か付いているのか。」
「い、いえ!………ただ、こうも曖昧な日常は不便な他無いだろうな……と、思いまして。」
「ああ、確かに右も左も分からん。……だが、今の所お前がいれば幾分マシと言うものだ。」
そう、俺はこの世界の人間ではない。此処から遥か昔、今では三国志と呼ばれている時代にいたらしいのだが、何かの拍子でこの平成という世に飛ばされてしまった。
当たりを見渡せば見慣れぬ景色、飛び交うのは決して耳にしない言語、自分自身に何が起きているのか皆目検討が付かなかった。
帰る方法も見つからず仕方無く路頭を迷っていると、そこに偶然女が通りかかる。あの時は確か道に迷ったのか、と訪ねてきた覚えがある。そうだ、道どころか世界に迷っていると返答すれば大層驚いて口を開けていた。
「…………鈍感め。」
普通怪しむだろう、だがこの女は本当かどうかも分からない話を疑う素振りも見せずにすんなり受け入れた。この世界が分からないと言えば、なら私が帰る方法見つけるまで一緒にいます、と恐れることもなく笑った。
何処まで馬鹿なのか、だがその馬鹿さに救われた俺もいる。
「何が鈍感なんですか?」
「何でもない、ただの独り言だ。」
そうですか、とまた笑った。
「朝ご飯出来ていますので、着替え終わったらリビングに来てください。」
忙しそうに廊下を駆けて行く姿を目で見送り、途中だった着替えを済ませる。一歩歩けばギシリと床が音を立てた。
「…………さて。」
俺は何時まで女に世話になるのだか、先見えぬ行く末にただ溜息を零すしかなかった。
「…………あの、大丈夫ですか。」
フォークと呼ばれる食器の音が皿に当たっては逐一不快な音が響く。だがそれも日にちが立てば不思議と慣れてしまうもの。非日常はいとも容易く日常に変わるのだ。
「………問題ない、一週間も立てば流石に慣れる。」
「すみません、食べやすい料理もっと考えますので。」
初めて料理を出された時、出てきたのは妙な形をした食器で思わず目を細めた。使い方がいまいち分からずなすがまま使っていれば金属音の様な不快感を味わった記憶をふと呼び覚ます。
「いや、文句は言わん。」
「…………ありがとうございます。」
嬉しそうにパンを口に運ぶななし。そんな顔に時々胸に何か支えた様な感覚に陥る事がある。理由は分からない、が、それは不快なものではない事は確かだ。
病という訳でも無さそうだと当初は然程気にする事はなかったが、最近は…どうだろうか。
「ご馳走様でした。私が洗い物しますので賈充さんはゆっくりしていて下さい。」
ある程度の家事もななしが学校へ行っている間に少しずつだが出来る様になっていた。奇妙な機械に暫し苦悩する事もありはしたが、ボタンを押せば後は待つだけ、という利便性に頼りきり、体力的にはそれ程苦労はしない。
ななしは初めて聴く歌を気分良く口ずさみながら洗い物をする。時折歌詞が分からない部分をそれとなく誤魔化しながら、楽しそうに。
「…………今日は学校か。」
「あ、はい!今日はもう金曜日ですから、明日から二日間休みですよ。」
ゆっくりくつろげる等独り言を呟いて、洗い終わった皿を次々と並べていく。
するとピリリ、と機械音が部屋に響く。その鳴る方向に目を向ければ普段ななしが手放さず持ち歩いている携帯とやらが規則的に光っていた。彼女は洗い物に夢中で気付いていない。
「………………。」
気になり電源を付けると色づけた枠の中に文字が横列に並んでいる。名前もきっちり載っていて、それは男の名らしき人物だった。
「……………ほう。」
表示する、というボタンを押せば、画面いっぱいにそのやりとりが開かれる。どうやら先日の夜にも会話をしていたようだ。
「………くく……気に入らんな。」
男の繰り出す会話が明らかにななしを意識しての言動となっているのが丸分かりだ。それに対してななしは完全に気付いていない、というより鈍感というのが正しいだろう。馬鹿な奴だ、こんな遠回しの事をしたって相手は振り向かないだろうに。
だがそれだけではない。それ以上に俺の中で無性に苛立ちが募っていた。理由などない、ただ、男の存在が邪魔だと思うのだ。
「くだらん。」
阿呆らしくなり、携帯の電源を落とす。そして洗い終えたななしが隣に座りその携帯を手に取った。
「あ、春樹君からだ。」
カチカチと画面に指を滑らせて器用に細かいボタンを押していく。何気なく目線をそこに落とせば短い文末に絵の様な物を一つ付けて送信。するとすぐに既読という文字が浮かび上がり、返事が帰ってくる。
文(ふみ)要らずの文化にただ驚くばかりだ、ボタンを押せばあっという間に相手に届く、俺達の時代からすれば画期的の他何も言うまい。
「うーん、その日は行かれないんだよね………。」
首を捻っては断りの文を送り付ける、が、男は粘ってなかなか退かない。
「そいつと逢瀬、するのか。」
「おう……せ……あ、はい……そうです。遊びたいって何度もメッセージが来るんですが、そんな暇が無いんですよ……。課題は溜まっているし、それに。」
俺の顔を見ては一瞬固まり、何か言いづらそうに目を泳がせる。何となく察した俺は口角を上げた。
「俺、か?」
「………………っ、はい……。賈充さんがいますし、出来れば家に……いたいと言いますか………その。」
僅かに頬を染めて俯くななし。しかしそれを意味するのは普通の男が思っているのとは大分かけ離れたものだろう。大方心配やら不安やら、大学にいる時でさえ電話をかけてくる始末だ。
俺がいなくなるのが嫌なのか、単に何かしでかさないか心配なのか。
「構わん、行ってくればいいだろう。」
「でも………!」
「お前が居ずとも変な事はやらかしたりしない。大人しくテレビとやらを延々と見ているか雑誌を読む。」
素っ気なく返せば黙り込んで何も言わなくなる。
「………それとも、別の意味があるのか。」
ぴくり、と身体が跳ねるのを俺は見逃さなかった。
「ななし。」
低く囁いて頬に指を滑らせれば、目を強く閉じて耐える仕草を見せる。成程、言えない位に重要な意味があるらしい。
「擽ったい………です。」
「それだけか?」
「な、何もないですよ……。」
「そうか。」
すぐに離れれば何処か名残惜しそうに顔を曇らせたのは目の錯覚か。まず有り得ない、俺も相当疲労しているのだろう、眉間辺りを押さえてとりあえず何か飲もうと立ち上がった。
が、シャツを引っ張る感覚に思わず身体が止まってしまう。後ろを振り向けば二本の指で部分的に摘む彼女の姿。
「………どうした。」
「………行って欲しくないです。」
「ほう、お前はその男の元へ行ってしまうのにか。」
「行きません!……私は、賈充さんの側に、いたいんです………。」
今にも消え入りそうなか細い声で呟く。
「くく………ならば、それはそういう意味と取ってもいいのだな。」
身体をくるりとななしの方へ向けて、今にも泣きそうな目をじっと見つめる。黒い大きな瞳が揺れる事なく真っ直ぐと向けられれば、再び胸は息苦しく痛み違和感を覚える。
ああ、そうか、この正体は。
「俺は、お前と出会って間もない。それにお互いの事もほとんど知らない。」
「………はい。」
「一般的に言えば俺は不審者、世界に迷ったなど訳の分からない事をほざいた。……異世界から来たなど、誰も信じてはくれないだろう。」
「……………。」
「それでもお前は疑う事なく俺に手を差し伸べたな。」
「………はい。」
顔を赤く染めては何度も頷き、髪を撫でれば緊張してか瞬きを繰り返した。
「どうして、俺なんかを助けた。」
「………………。」
「もしかしたらお前を襲っていたかもしれないだろうが。」
「………それは、無いですよ。だって本当に困っていそうだったから、放っておけなくて……そしたらつい、助けていました。」
へらり、と困った様な笑みを見せる。本当に、年齢の割には警戒心なく馬鹿な奴だ。
「なら、俺が今お前に口付けを施したら………拒むか?」
くつりと喉を鳴らせばあっという間に彼女の時が止まり、石の様に微動だにしなくなる。
と、空気の読まない携帯が再び鳴り響く。継続的な音からそれは着信の方だと分かった。慌ててななしはそれを取り、耳に当てた。
「…………春樹君?」
『もしもし?あ、ななしさん、さっきのメッセージの件なんだけど、今すぐに……どうしても君に伝えたい事があって。』
携帯から漏れる音声が癪に障る。
「えっと……今はちょっと……。」
『好きなんだ、君の事が。』
カシャン
ななしの手から携帯が滑り落ちた。名を呼ぶ携帯越しの声すら聞こえない程に、彼女の頭は真っ白になっていた。
それは目の前の男が口付けをしているからだろう。
「……………ふ…。」
思っていたよりもその唇は柔らかく、蜜のように甘い。尚彼女は何が起きたのか追い付かないのか、目を見開いたまま一切動かない。悪戯に舌を絡ませてみれば漸く我に返ったのか、甘く短い声が口端から漏れた。
「ん………っ!」
更に奥へ捻じり込めば僅かに眉間に皺を寄せて酸素を求める合図をこちらに送る。断る、と目を細めて睨み付ければ自然と滲む涙。
電話の相手に見せつけんばかりに、くちゅ、と態とらしく音を鳴らして吸い付いた。するとふるりと身体を震わせて腕のシャツに皺が出来る程手が握られる。
「あ……かじゅ………さ………っ。」
「ななし………。」
もっと呼べ、そうだ、俺だけを見ていろ。その目も耳も身体も、奴ではなく俺に委ねればいい。
何度も呼ぶ男の声を聞かせないように両手で耳を塞いでやった。正直言えば煩わしい携帯を壊したいくらいだったのだが、それをすればきっと怒る。
角度を変えて唾液を絡み合わせれば、次第に理性は音を立てて崩れていく。恐らく今までは無意識に堪えていたのだろう。手を出せば終わりだと、何処かで歯止めをかけていた。
だが、らしくもなく嫉妬に駆られた。
他の男といると思うだけでやり場のない怒りに苛まれる。ふつふつと湧き上がる感情は想像以上に黒い心を蝕んだのだ。
「は、ぁ…………。」
ななしの薄れる意識を見て、己も酸素に限界を感じ、離れれば繋いでいた銀糸が切れ息を思い切り吸い込む音が聞こえる。呼吸を乱して潤んだ瞳で見上げるななし。
「………賈充、さん…………。」
「………………。」
不意に逸らされる目、既に携帯の音は切れていた。
「怒っているか。」
「……………いえ、ただ………その………いきなりで、吃驚して……。」
唇を押さえて恥じる姿に愛らしさを感じる。ああ、そうか、俺はやはりこいつが愛おしいのか。
「すまん。」
乾いた声で謝罪をすれば、彼女は唇を動かした。
「いいえ……好き……です……賈充さん………。」
「…………………。」
突拍子もない言葉を耳にし、今度は俺が思考を停止する番だった。だが心の何処かで望んでいたその言葉。
くく、と喉を鳴らしてすっかり皺になってしまったシャツを直す。
「ああ、俺もななしが好きだ。」
真っ赤にした耳を軽く噛めば振動がはっきりと伝わる。そのまま抱き締めてしまえばななしの身体の形がはっきりと分かる程腕の中で収まった。髪に纏わるシャンプーとやらの匂いが丁度良く鼻につく。
「だが、いつ向こうの世界に帰るやも分からぬ。それでもお前は、後悔しないのか。」
それは俺にも言える話だ、寝て覚めればいつもいた彼女が側にいない。果たしてそんな世界に耐え切れるのだろうか。
「………確かに、いつかは帰らないと向こうの世界で貴方を待っている人がいる………。ずっと一緒にいて欲しい、何ていう我儘は言えません。
せめて、今だけでも………側にいて下さい。」
「………くく、そうだな、向こうでは世話の焼ける男に喝を入れなければいけない。」
もしいなくなる時期を感じたのなら、いっそこの世界からお前を連れ出してもいいかもしれない。嫌だと拒んでも聞かぬ、その手を離すつもりは、ない。
「穢れた俺が、無垢なお前を抱く事を許せ。」
せめて、俺がいるという証だけでもその身体に刻みつけるとしよう。誰も近づけないように、愛さないように。
(幾世を隔てようと必ず)