ああ、恋なんて知らない方が幸せなのかもしれない。こんな切ない想いを抱いて涙を流す位ならいっそ記憶喪失か何かで全て忘れてしまいたいものだ。
「法正様、茶をお持ちしました。」
控えめに扉を叩いて男の名前を呼ぶと、低い声が返って来て入室の許可を与えられる。失礼します、と軽く頭を下げて書簡に目を向ける男の前まで足を運べば、音に気付いた彼がゆっくりとこちらに目を移す。
相変わらず人を寄せ付けない鋭い目をしている、とななしは緊張しながらも淡々と湯呑みを置いては一礼。
「ああ、すみませんね。部屋から出ないと自分では喉も渇きさえ気付きませんので。」
「そうですね、法正様はいつも執務に直向きですから。」
ご苦労、と彼は一言添えると再び視線を積まれた竹簡に向ける。
そう、このやりとりだけでも嘗ては幸福だったのだ。先を望まなければ細やかな幸せで十分心は満たされていた。しかし何を思ってか、この身でありながら彼との幸せを僅かながら期待してしまった。この男の傍で生涯尽くす事が出来たのなら心置きなくこの命を全う出来る、そんな我欲が渦巻いて頭の中を酷く混乱させているのだ。
「失礼しました。」
とん、と扉を閉める音と共に心の奥底で何かが閉ざされる。決して告げてはならぬ、最初から彼はななしをそういう立場で見ていない、端から眼中にはないのだ、と。
「ああ。」
壊れる前に諦めたい、だがどうすれば想いを断ち切る事が出来るのだろうか。この国に忠誠を誓う限り逃げる事など叶わない。
いっそこの身を捧げてそれを一つの思い出として残せばいいかもしれない。例え相手から見て遊びだったとしても、初めてを捧げるに相応しい位に深く溺れているのだから。
故に決して心に傷は負わない。触れて、言の葉を囁いて、穿いて、それがほんの一瞬だとしても愛の面影をこの目に映すのであれば、それだけで構わない。
「貴方の為なら、散りましょう……。」
矢の様に降り始めた雨に向かって小さく呟いた。
そうして冥い夜がやって来てはいつも通り寂しさを連れてくる。
「………………。」
覚悟を決めたななしは震える手を握って行き慣れた法正の部屋に向かった。人とすれ違う事無い静寂な廊下は心臓の鼓動を早まらせ、浅い呼吸を少しずつ奪っていく。
もう少し、もう少し、ひたすら歩いて行くと、そこに立ち尽くすは見慣れぬ女の姿。
「法正様…今日も貴方と夜を共にしたいのに……。」
その言葉はななしの思考を真っ白にさせた。歩く速度が一気に落ちては女の横をゆっくりと通り過ぎて行くと、その際に香った香が噎せ返る程に酷く感じた。この匂いが既に彼に纏っていると考えただけであっさりと零れていく涙。
それでも抱かれなくては、二度とこんな辛い思いをしない為にも。
「法正様…少し宜しいでしょうか。」
今度は扉が開いて男が姿を見せる。ななしを見るやいなや怪訝そうな表情を見せて小さく肩を竦ませた。
「仕事以外にも貴女が顔を見せるなんて珍しい。」
「………お願いがあって来ました。」
とりあえず中へどうぞ、言われるがまま部屋に誘われるといつもと変わらぬ風景。竹簡が無造作に積まれて筆も幾つか机上に転がっている。落ち着きなく辺りを見回していると腕を組んで一息吐く法正。
「さて、この悪党に相談とは随分と度胸がお有りですね。」
「…………………。」
「ああ、貴女の話はあまり耳にしないので丁度いいかもしれません。どうぞ、何なりと。」
するり、紐を解く音が擦れて肌が一部開ける。それを見た法正は訝しげに目を細めた。
「………なんのつもりで。」
「………………。」
更に衣服を脱ぎ捨てて上半身の裸体を見せると、ななしは哀しそうに笑みを浮かべた。
「一夜だけでも……夢を見せて下さい。貴方が欲しくてこの身は疼くばかり……お願いです、私を抱いて下さい……。」
長い髪を垂らして情のこもった瞳で見上げる。
「………正気ですか。」
「いつだって正気です…。」
「どうして俺なんです。こんな信用も出来ぬ男に抱かれて、後で散々後悔するんじゃありませ……、」
その言葉を塞ぐ様にななしは法正に抱き着いてふくよかな胸を寄せては甘く媚びる。目を逸らさずに、ただ真っ直ぐと。
「……………本当にいいんだな。」
こくり、と頷けばその態勢のまま押し倒されて既に敷かれてあった寝床へと二人して倒れ込む。法正の勢いに圧倒されながらも抵抗の意は見せない。
「………ふ、少女を少し通り越した若年でありながら、結構な色気を魅せつけてくれますね。」
首筋に舌を這わせながら熱い吐息をかけられ、ななしの身体は敏感に跳ねて疼き出す。ふと鋭い痛みが走ったかと思えば、幾つかの紅い花が既に添えられていた。
「ん………。」
首筋、鎖骨、胸、ぽってりとした色っぽい唇を押し付けられる毎に気持ちが高揚していく。服から僅かに覗かせる浅黒い肌や浮き出た鎖骨、そのどれもが恍惚とさせるには十分な物である。
「ななし…………。」
更には愛してやまない人に名を呼ばれ、証を付けられて心地よく抱かれている…これ程の至極は後にも先にもない、たった一度きりの哀しき交わり。終われば無機質な感情のみ、引き摺る事は絶対に許されない。
今だけはこの幸せを強く噛み締めて、明日からは何もかも忘れて真っ白に生きていく。しかしそんな考えも彼の器用な指遣いの前では全く歯が立たず、快楽に上書きされてあやふやになってしまう。気持ち良さに身体を淫らに震わせて、閉じていた脚もいずれ自ら開いてしまうのだろう。
「法正様………愛してます………。」
「俺もだ、ななし………その身を全て委ねろ。」
ななしの言葉は本当であっても法正の言葉は本当か嘘かは分からない。情事の所為で一時的にそう思い込んでいるだけかもしれない、だからこそ本気に受け止めてはいけない。つい最近まで他の女を抱いた形跡さえあるのだから。
「はい、奪って下さい……私の…全てを。」
それでも止める事なく初めて交わりの痛みを知り、嬉しさにはらはらと涙を流す。引き裂く衝撃と法正の律動に耐え切れず悲鳴に近い声を上げるが、優しい唇に塞がれて全ては彼の口内へと消えていった。舌を荒々しく絡めてはお互いの息遣いを間近に感じて。
「っ、あーーーー。」
果てるその一瞬、法正の苦しく切なげな表情が垣間見えた。愛おしそうに、まるで本当にななしを愛しているかのように。
どうして、そんな顔を見せるのか。
「法正………様………。」
短い時間だったが愛してくれてありがとう。意識が薄れていく中で彼の頬に触れて、髪に覆われていた右目を見つめる。光をも宿さぬ暗い瞳、だがななしの姿だけははっきりと映していた。
「……………本音を言ってしまえば、楽になれるだろうな。」
「……………それ、は。」
彼の本音を聞けるとは思わず、手放しそうになる意識を懸命に引き止める。霞む視界の先に逞しき裸体が覆い被さり、惹かれ合う目と目。
「…そうだ……俺は貴女を……、」
心底好いている、眉間に影を落として苦しげに吐き出す告白にななしの心は激しく揺れ動いた。
「……………っ……………。」
「貴女が部屋に訪れる度、不思議と安心するんですよ。誰もが忌避する中で貴女だけが対等に接してくれましたし、どんなに冷たい態度をとっても優しさは変わらなかった。……おかしな話だ、この俺が恋煩いなど。」
まさか、彼が私に想いを寄せている筈など、ななしはどうしていいか分からずにただ困惑する。すると確かめる様に甘い口付けが降り注いで唇を濡らした。
「それで聞きたい、ななし。貴女は、本当に俺と遊びだったんですか。」
「……………ーー、」
遊びな訳がない、貴方を想い過ぎるあまりどれだけ心臓が張り裂けそうだったか。難なく媚びる様で本当はとても怖かった、身体だけの関係だと分かっていながら初めてを捧げるのがどれだけ勇気が必要だったか。
「ななし………どうなんだ。」
問い掛ける言葉にななしの全てが吹っ切れた。
「………ちが、う………私………っ、貴方を愛しすぎて………死んでしまいそうなんです………!……だけど、叶う筈のない恋だと思ったら…諦めるしか無くて……っ、それで、せめてこうして思い出だけも抱こうと……!」
言えば言う程に涙が大粒になって流れ落ちていく。顔はもう酷い有様だろう。それでも伝えたかった、彼の気持ちを知った今、どんなに醜くても。
「…………そうか。」
法正は安心したのか、頭を大きな手でそっと撫でる。
「……っ、……先程、かつて貴方と共に過ごしたであろう女性にも会いました……。やっぱり…私なんかじゃ釣り合わないと……思い込んで…。」
「…………誰だ、それは。」
彼は眉を顰めてななしの撫でる手を止めた。どうやら記憶にないらしいが…。
「俺は惚れたら一人の女しか愛さない主義なのでそれは嘘かと。……ちっ、根も葉もない話を持ち出すとは……誰だか知らんが徹底的に報復しなければ気が済まんな。」
ぶつぶつと独り言を繰り返せばななしはすっかりおいてけぼり。夢の世界はすぐそこまで迫っていた。
「法正様…。」
小さく囁かれた言葉に法正はふと我に返る。
「………良かった…です。貴方に、初めてを捧げて………。」
「………今度は、互いの気持ちを知った上だ。」
もう涙は見せなくていい、強くその両腕で抱かれると安心してそのまま眠る様に瞼を閉じた。
「おはよう、ございます……法正様。」
昨日の行為の所為か足腰は痛みが酷く、恥ずかしそうに目をぱちくりさせる。法正は変わらず執務を熟していたが、いつもと違うのは全身をこちらに向けて顔付きが穏やかになっている事だ。
「ああ、おはようございます。」
「その、お茶を……お持ちしました。」
どうも、と法正は礼をして湯呑みを受け取るが、何故かななしの手ごと握っている。包まれる温もりに忘我の表情を顔に浮かべた。
「どうかしましたか。」
「え、あ、その………。」
「……ふ、綺麗な手をしていますね。そう思っただけですよ。」
するりと湯呑みだけを抜き取るとそのまま口に付けて飲み干す。尖った喉を鳴らして飲む姿にさえうっとりと目を奪われてしまう。
「なんですか、人の顔をじろじろと。」
「な、何でも無いです…!」
失礼しました、と上擦った声で一例をして立ち上がると突然腕を引かれてしまいそのまま膝を屈してしまう。すとん、と落とされて驚く視線の先には不敵に笑う法正。
「正直に言ってください、俺に、隠し事はいけませんよ。」
人差し指で唇を押さえられ、そこに熱が一気に集中していく。うっとりしていた、なんて惚けた事を口にすればこの後どうなってしまうか。
「………………。」
「成程、言えないくらい恥ずかしい事なんですね。」
「ちっ、ちが……っ!」
「いいですよ。どう思われようと俺はもう、」
貴女だけしか見えないのだから、耳元で囁く低音は鼓膜を震わせて脳を蕩かす程に麻痺させた。
ああ、苦しかったかもしれないが、人を愛する想いを知って良かった。ななしは嬉しさに頬を染めながら長い睫毛を揺らした。
(まさか、見惚れていた…なんて事はありませんよね)
(………ご想像にお任せします………)
お礼文