「ななし、一緒に帰ろう!」
「うん、いいよ!」
鞄の中に教科書を詰め込んで立ち上がると、友達が待つ方向へ足早に駆けていく。誰かに落書きされた黒板の横を過ぎる時、短くなっていく時間割を見て少しだけ胸が苦しくなった。
「ななし?どうかしたの?」
「……えっと、もう少しで卒業だなぁと思って。」
「あー、実感がないけど、現実なんだね。長いようで本当にあっという間だったなぁ……。」
いつまでも続くと思われていたこの楽しい日々は虚しくも終わりを告げるのである。残された時間をどのように過ごしていくか、考えてみるも答えは見つからないとななしは早々に諦めてしまった。
「先生にもお礼しなくっちゃ。私、法正先生に何かあげようかなって思ってて。何かとお世話になりっぱなしだったから。」
「それ、いいと思うよ。結構気にいられていたし、もしかするとこの先色々進展あるかも?」
「なな、何を、言ってるの!私、そんなつもりじゃ……。」
顔を赤くして縮こまる彼女にクスクス笑えば、仕返しと言わんばかりにこちらに指さしながら、
「そっちだって、徐庶先生と仲が良いの知ってるんだから!」
「ちょっと……!ここ廊下!そんな大声出したら……!」
「私、知ーらない!さっさと告白して幸せになっちゃえばいいのに!」
「うう、恥ずかしくて穴があったら入りたい……!」
互いに鞄を叩き合いながら限界まで頬を真っ赤にしてる二人。生徒達は不可解な目をしながら何も言わずに横を通り過ぎていくが、当然本人達は興奮気味で気付いていない訳で。
そして息を切らしながらお互いの顔を合わせて、
「………結局、ただの生徒なんだよね。」
「あはは……私達は夢見る少女、かな。」
夢から現実に引き戻されたと実感した途端、どっと肩の力が抜けて鞄が床に落ちる。何やってるんだろう、そう思ったら不意に虚しさが襲ってきて何とも言えない気持ちになってしまった。相手は年上の教師でこっちは何の変哲もない年下の生徒、釣り合う訳がないと分かっていながらも、僅かな希望に夢見ていたのは事実だ。
「でも、どんな形であれお礼はしたいから、気持ちは隠したままにしておく。下手な事を言って、余計に傷付くのが怖いし、ね。」
「私も。徐庶先生の事だから、きっと素敵な恋人がいるはず。だから、気持ちは最後まで胸に閉まっておこうと思ってる。」
二人で納得したように頷いて鞄を拾い上げるが、ななしはファスナーの隙間から見えた空洞に違和感を覚えて、
「ごめん、ロッカーに筆箱忘れてきちゃった。」
「もう、ななしはうっかりさんだなあ。下駄箱で待っててあげるから、今すぐ取りに行ってらっしゃいな。」
「はぁい。」
気の抜けた声を出しながら駆け足で長い階段を上り、部屋のロッカーからお目当ての筆箱を取り出す。
「これでよし、と。」
安堵と同時に鞄に入れて下駄箱に向かおうとした時だった。
「あんた、何やってるんだ。」
「あ、あなたは……?」
彼は隣のクラスの桐生院和樹、だったか。かなり不良っぽい性格で、法正先生と馬が合わないのか度々口喧嘩しているのを見かける。法正先生曰く「俺には鳥の囀り程度にしか感じないがな」と軽く笑っていたのをなんとなく覚えているが……本当に、それだけで済めばいい。
度々問題を起こしている人物であり、ルックスの良さもあってか女生徒に手を出す事も度々あると聞く。何度注意しても素知らぬ顔でいるものだから、先生等もすっかりお手上げ状態の様子だ。
放課後女生徒が一人で歩くのは特に危険と言っていたのを思い出したが、ああ、時既に遅しだった。金色の髪が揺れて、異様な光を帯びる。
「ふーん、今、一人か。」
「あ、友達が下駄箱で待ってて……。」
「……ああ、そう。」
切れ長の瞳がこちらを捉えたかと思えば、何やらそわそわと落ち着きがない雰囲気を醸し出している。
「……私に、用があるんですか?」
「まぁね。」
「……でも。」
「すぐ終わる話だからよ。ちょっとくらい良いだろ、な?」
断る隙もないまま、別の場所へと彼に連れ出されてしまう。沈黙が二人を包む中、それを先に突き破ったのは彼の方。
「なぁ。」
「は、い……?」
トン、背中が冷たい壁と触れ合って、目の前いっぱいに広がる酸い香水に思わず酔ってしまいそうになる。だからといって彼から目を逸らす事だけはしない方がいい。少しでも逸らせば最後、確実な身の保証は出来ない。
僅かな瞬きすら許されず、ごくりと喉が小さく鳴った時だった。
「俺と付き合ってくれない?」
「……………え、あ。」
精一杯振り絞った短い返事は、やけに乾いていて、自分でもどうしていいか解らず狼狽気味の表情を顕にしてしまった。上手く返答が出来ないまま時間だけが過ぎていき、下校時刻を知らせるチャイムが鳴っても耳に届かないくらいに彼との距離は近い。
「実は前から気になってたんだけど、一緒にいる友達が邪魔だったからさ、なかなか声掛けれなくて。なのに今日は珍しく一人でいるから、チャンスだと思っちゃった。」
「と、友達を邪魔扱いしないでください……!」
「それにしてもななしちゃん、良い名前だよね。顔も可愛いし、絶対俺と相性良い気がするんだよなあ……。」
気安く下の名前を呼ばれて彼女はゾッと背筋を凍らせた。質の悪い事に、こちらの話を聞かず一方的に会話を進めるこの男は相手の同意など最初から求めていない。こんな自分の欲求ばかりをぶつけてくる奴に、友達を侮辱された事が許せなくて、あまりの悔しさに強く拳を握り締める。
「だから、今すぐ返事を、聞かせろよ。」
「……………。」
口にするのが、怖い。だけど、言わなければ。
「ごめん……なさい……私……他に好きな人が……。」
「……へぇ、それって誰なんだ。」
「………言え、ません。」
「何でだよ。」
「そう言われても……っ。」
さっきまで周りが騒がしかった筈なのに、今では静寂な空間が支配している。必死に逃れようと身動き取ろうとするがそれを許さないと言わんばかりに大きな身体が退路を塞ぐ。
それどころか、服に手を掛けられて、かなり危機的状況。あと少し動かせば嫌でも下着が見えてしまいそうだ。
嫌だ、嫌だ、助けて。そんな事を心底希った時だった。
「何をしているんだい。」
「…………あ?」
「………徐庶、先生。」
黒いスーツを身に纏った男がこちらを見ていた。
「嘘………。」
徐庶、ああ、徐庶先生だ。今一番見られてほしくない人に見られた事で、一瞬だが正常な感覚が狂いそうになった。
こうして男の人に迫られてる状態は彼に勘違いを起こさせる可能性が高いからだ。しかし、どうにか彼の身体を跳ね除けようとしたが、身体が震えて思うように腕が上がらなかった。
「なんだ、別に何もしちゃあいねぇよ。」
「ええと、本当に?なら何故、そんなに彼女との距離が異様に近いのか……俺に教えてくれるかな。」
普段とても穏やかな瞳は、今ではとても冷たい視線を向けている。それもその筈、相手の指は今もまだ制服を掴んだままなのだ。
「……関係ないだろ。それとも、異性の"ちょっとした"じゃれ合いも禁止してるのか。」
「………彼女から離れるんだ。」
「だからよぉ、何の権限があって……!」
こつん、固い床が鳴り響いたかと思えば、規則正しい靴音と共に真っすぐこちらに向かってくる徐庶。ななしは声を殺しながら必死に『助けてほしい』と願いながらも、『来ないでほしい』と首を横に振って見せた。
彼を巻き込んでしまう事がどうしても怖い。
もし何かあったら、私は。
「……………。」
「……………。」
徐庶の身長は桐生院よりもやや高く、目線が自然に下へと落とされる。だからといって高圧的に、威圧的に、抑圧的に、それらの行為を一切見せず、彼は至って普段通りの物腰の柔らかい態度で接した。
「卒業が近いからって、何をしてもいいって訳じゃないよ。」
「………どういう意味だ。」
「彼女の目を見れば分かる。君を怖がっている事が。」
「はっ、本人に聞いてもいねぇのに、何が分かる、だよ!」
いよいよ沸点に達したのか桐生院の手が徐庶の胸倉目掛けて伸ばされる。乱暴と力任せに突き出された腕に容赦はない。
「いや……!」
これから起こるであろう危機に恐怖して反射的に瞼を閉ざす。しかし、その次の瞬間その手は上手く躱されて逆に腕を掴まれてしまい、桐生院の呻声だけが木霊した。
「っが……!」
彼が暴れようとすればする程腕を掴む力は強くなり、みるみる表情が歪んでいく。
「先生として、こんな乱暴はしたくない。でも、彼女が悲しむ姿を見るのは……嫌なんだ!」
自分が悲しむ姿を見たくない、その本当の意味は。
「はぁ!?ふざけやがって……!俺がコイツをどうしようと勝手だろうが!!」
「……っ、君は……!」
その乱暴に吐き捨てた台詞を聞き、居ても立ってもいられなくなった徐庶が咄嗟に押さえ込もうとしたその時、
「何事ですか!!」
他の教師達が偶然通りかかった事でこちらの騒動に気付き、思い切り引き剥がされて互いに一歩ずつ距離を置いた。息を切らせながらもこちらを睨みつける彼の血走った目が恐ろしく、思わず徐庶の背に縋ってしまった。
「……大丈夫だよ、君は俺が守るから。」
「………!」
勘違いしてはいけない、その言葉はあくまで、先生としての役目を果たす言葉に過ぎない。彼女はそう自分に言い聞かせて、納得するようにそっと目を伏せた。
起きた事の全てを話し終えて、黙って聞いていた徐庶は静かに口を開く。
「桐生院君、今の君のやり方では、相手を傷付けてしまう。……どうか、その事を十分に理解してほしい。」
それに言葉を返す事なく彼は教師達に連れて行かれてしまった。それを見送りながら、あの時素直に従っていればこんな事にならなかったのではと自責の念に駆られてしまい、思わずその場にしゃがみ込んでしまう。
「ごめん、なさい……先生に迷惑をかけてしまって……。」
「……ええと、君の判断が正しいんだよ。無理に相手の好意に応える必要はなかったんだから。」
そう答える彼の声色は全身を包み込みように優しくて、余計に恋焦がれてしまう。いけない事とは分かっていながらも、沸き立つ衝動に抗う術はなかった。
どうなったっていい。きっと今言わないと一生後悔する。例え散る恋だとしても、やらずに後悔だけはしたくない。
ごめんなさい先生、好きになった私を許して。
背中に置かれた手の温もり、それが全てを急かした。
「………徐庶先生。今から言う事は、私なりの本当の気持ちです。」
「………え………?」
すくりと立ち上がる身体は驚く程に軽やかで、見上げた先の彼の瞳は心なしか揺らいで見える。それでも、口は迷わず真っ先に動いていた。
「私………徐庶先生の事が、好きです。」
「……………!」
……ああ、言ってしまった。この驚いた顔は案の定迷惑を掛けてしまったのだろう。数ある生徒の中にしか過ぎない平凡な自分が、彼みたいな素敵な人に恋をする事こそが欲深き悖徳だったのだ。
しかし、そう烏滸がましいと頭で理解しつつも、何故か不思議と今の気持ちは晴れやかなものだった。まるで箍が外れたかのように、すっきりとした気分になっているのは、やっと彼にこの切ない気持ちを伝えられたからなのだろう。
もう十分だ、思い残すことはない。これで心置きなく卒業できる。結んだままの唇にかすかな笑いを浮かべた。
「………すみません、私の身勝手な思いです、一方的な思いです。だから、どうか、この先は何も言わず、に……っ!?」
「…………ななし。」
下の名前で呼ばれたかと思えば、気が付けば彼の腕の中にいた。状況が飲み込めず目を白黒させていると、頭上から低く抑えた声が聞こえて
「………それは、本当かい?」
真意を確かめるように粛々と問いただす徐庶。
「……え、あ………ほ、本当、です……。」
自分に起きた事が未だ理解出来ず、全身を石のように硬直させて、辛うじて動かせる口で必死に声を絞り出すのが精一杯だった。
「ああ………良かった。」
その短い一言が空気に溶けて、再び訪れた二人だけの空間がより緊張を加速させていく。
「せん、せ?」
「あ……ええと、実は俺も、君の事が好きだったんだ。でも、こんな俺が君を好きになって、それに生徒なのに、迷惑かけたら悪いなと思って……ああ、ごめん、言葉が上手く繋げられないや……。」
「…………。」
ああ、まさか。お互いが相手を思い遣っていたが故に本音を隠したままだったなんて、誰がこんな結末を想像できたのだろう。頭の中で彼の告白を反芻しては、恥ずかしさと嬉しさで胸が一杯になった。
「徐庶先生……私……貴方に、本気で恋をしています………だから、その………。」
「ななし。」
再び呼ばれたその名に愛おしく顔を上げれば、ゆるりと温かい唇が重なった。呼吸をするのも忘れるくらいに互いの唇が求め合い、後頭部を支える彼の手が更に熱を加えていく。何処からも死角になるこの場所は決して誰にも邪魔されず、愛を確かめるように何度も交わされる口付けは、教師と生徒という隔たりすらも容易く超えていった。
「ん………せん、せ……。」
「元直……君の口で、そう呼んでほしい。」
「げ、…元直、さ………んっ。」
嬉しそうに笑みを浮かべると徐庶は再び彼女の口を塞いだ。今度は深く深く、何処までも沈み込んでいく。彼女の腰に回した手に力を込めては更に密着し、しっとりと汗ばむしなやかな肢体が動く度に彼の理性を燻らせていった。
「は、あっ……。」
「ごめん………無理をさせたね。」
「い、え………嬉しい、です。」
顔を林檎のように紅く染めて厭らしく唇を濡らした彼女は、まるで大人のような艷やかさを醸し出していた。
駄目だ、卒業直前にこれ以上こんな事をしたら、さすがに、まずい。
徐庶もまた同じように頬を赤らめて、それを誤魔化すように「愛してる」と小さく呟くと、彼女の華奢な肩にそっと顔を埋めた。
「本当に、卒業なんだ。」
見慣れたグラウンドに聳える体育館、やや古びたテニスコートにサッカーゴール、綺麗に植えられた花壇の側に座りながら景色を目に焼き付けていく。教室で盛り上がっていた卒業生達もいよいよ帰り支度を始めて、最後の校門を通り抜けるのを見届けながらななしは空に向かって大きく息を吐いた。
友人は今頃想いを伝えている頃だろう。上手く行く事を心から願うばかりだ。……とはいえ、あの時は随分と待ちぼうけさせてしまって申し訳なかったが、先生と一緒にいた事を知るなり顔色変えて長い尋問が始まったのは言うまでもない。
そんな事をしみじみ考えていると、
「ななし。」
はっきりと聞こえた声に、意識は再び呼び覚まされる。
「……先生……。」
「ええと、ごめん。用事を全て片付けるのに時間が掛かってしまって……。」
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ忙しいのに、我侭を言ってごめんなさい。」
「そんな事ないよ。今の俺にとって、君に会える事が唯一の希望なんだ。」
あれだけいた人がいつしか疎らになり、賑やかな声も次第に夕暮れと共に遠ざかる。近くの桜の木が小さく揺れて、桃色の花弁が音もなく密やかに散った。
「………私もです。好きな人がこうして会いに来てくれた事が、何よりも大切な思い出になります。」
「………っ、ありがとう。こんな俺には勿体無いくらいだよ。」
「いえ!むしろ私がその気持ちです。だって先生、他の生徒からも人気だったんですよ。それなのに、私を選んでくれた事が、本当に夢みたいで……。」
今にも泣きそうな声で話すななしに、徐庶はそっと彼女の白い頬を撫ぜて、
「君に出会ったばかりの頃、少し精神的に参っててね、正直誰かと話すのも億劫に感じるくらいだった。でも、色々と話をしていく内に、不思議と君だけは一緒にいて心地が良かったんだ。
俺の目をしっかり見て話してくれて、時折見せる笑顔がとても優しくて、何よりも眩しかった。
もう、君しか見えなかったんだ。あれからずっとななしの事を考え続けていた。だけど、教師と生徒の恋愛は禁じられているし、何より一方的に好意を伝えるのが怖かった。
これから訪れるであろう輝かしい将来を邪魔してはいけない……そう思って、最後まで心の奥底にしまおうとしていた矢先に、この前の事件だ。
明らかに様子がおかしいと気付いて、恐怖に怯えている君の事を何があっても守りたい一心で俺は彼を止めようとした。例え全てを失ったとしても、後悔はしなかっただろう。
……それに、彼が口にした言葉は、今でも怒りがおさまらない。下手すると殴っていたかもしれない……先生方が来てくれたお陰で事は大きくならずに済んだけれど、それくらい俺は腹が立っていたんだ……。」
一字一句逃さず、彼の紡ぐ言葉を真摯に受け止める。自分を犠牲にしてでも守ろうとしたその想いが、あまりにも愛おしくて、遂に涙が落ちてしまった。
「………ありがとうございます。私なんかの為に。」
「なんか、じゃないよ。君は素敵な女性だ。」
「うう……照れますって……。」
居た堪れない気持ちを表すかのように思わずスカートを握り締めて俯くななし。
「こっちを見てくれるかい?ななし。」
「……駄目……今は、恥ずかしくて……。」
「そんな君も愛おしいよ。だから、お願いだ。」
言われるがままに顔を上げれば、そのまま顎に手を添えられて優しく奪われる唇。啄むようにリップ音を小さく立てて、焦らすように微かに距離を置くと、
「俺と結婚してください。」
甘く囁くような告白にななしは瞬きすら忘れて頬に朱を注ぐ。咄嗟に返す言葉も見つからないまま、どうしていいか分からなくなった彼女は、瞬く間に彼の両頬に手をあてては無防備な唇を攫った。
自らキスをする事に酷く恥じらいながらも、彼の真っ赤な顔が見えた瞬間、それも何処かに消えてしまったようで。
「……これが、私の答え、です。」
「…………っ………確かに、受け取ったよ………。」
存在を確かめるように抱き締め合えば、互いの熱で冷えた身体は一気に体温を戻していく。
「これからは、君の事だけを想って生きていきたい。この気持ちに嘘偽りなく、心から愛しているよ、ななし。……俺を選んでくれて、ありがとう。」
これ以上ない幸福に包まれて、ななしは静かに瞼を閉ざして微笑んだ。
(ななし!私も上手くいったよ……!)
(本当によかった……おめでとう!)