秘密の恋に触れて溺れて

『好きです、先生。』

俺は、誰かに恋をする事がこんなにも苦しいとは思っていなかった。














「……………はぁ、今日も宿題が多いな。」

机の上に散らかる課題を見つめては大いに溜息を吐く徐庶。とはいえ他の生徒も同じような台詞と表情をしている訳だから、悩むのは一人ではない事を知って何処か安堵感を抱いていた。

「あ、徐庶君が珍しい事を言ってる。」

「………っ、ななし。」

その安堵感も束の間、背後からある女子の声が掛かった瞬間、敏感に反応した徐庶の身体は咄嗟に強張ってしまう。

「その……ごめんなさい、驚かせちゃった?」

「あ、いや、大丈夫だ。気にしないでくれ。」

良かった!と、屈託ない笑みを見せて横の椅子に座る彼女の名はななし。長い黒髪を綺麗にシュシュで一つに纏め、一切乱れのない制服、ふんわりと鼻を掠める石鹸の香り、それだけで十分清楚さを感じさせるごく真面目な生徒。

「確かに、私も今回は流石にお手上げ。あの先生って宿題が全てって感じがするから、少し苦手かな。」

そう言って困ったように眉尻を下げて笑う。そんなさり気ない仕草だけで、徐庶の心臓は張り裂けそうだった。

堪らず視線を逸らして、微かに頬を火照らせて。まるで初恋のような仕草を見せてしまう。


なにしろ徐庶は、ななしに恋をしている。


しかしそれは今に始まったことではない。入学した直後でクラスが一緒になり、更に席も隣になった事で二人の距離は一気に縮まり、二年や三年に上がってからも友達以上恋人未満という半端な関係で現在に至るのだ。

と言っても、彼女自身が徐庶をどう思っているかは不明であり、現状一方的な片思いというのが正しいだろう。故に恋愛に奥手な徐庶は未だ切り出せずにこの距離を保ち続けていた。

卒業もそう遠くはない話。どう足掻いても、いつの日か想いを打ち明けなければならないと腹は括ってるのだが。

だんまり物思いに耽けていると、慌てて教科書を取りに行く生徒や直ぐ様着席する生徒の姿が視界に入り、ああ、と現実帰りする徐庶。

慌てぶりから分かるように、次の授業は他とは違って生易しい物ではない。

何故なら、あの【悪党】の授業なのだ。

「えっと、教科書は………。」

悠長な言動とは裏腹、不幸にも教科書は見つからず、探る手の動きが止まってしまう。

「しまった……俺とした事が、こんな失態を………。」

勉学に対して人一倍優れていた徐庶だが、この授業だけは余計に教科書を忘れるなど許されるものではなかった。このままでは確実に叱られてしまう。酷く焦燥感に駆られつつも、どうしようもないと半ば諦めかけていたその時。

『……良ければ私の、使って。』

教科書を渡してくる彼女の言葉に思わず瞬きを繰り返し、意味を理解するや否や頑なに首を横に振った。

「そ、そんな事をすれば叱られるのは君の方だ……!大丈夫………忘れた俺がいけないんだから……。」

身振り手振りで遠慮するも、差し出したままのななしは一向に退かない。挙句には、

『私なら大丈夫、怒られるのに慣れているから。』

それに、徐庶君は頭が良いし、授業で皆勤賞取らなきゃなんだから、ね?

そう言って半ば強制的に教科書を机の上に置いた。急いで返そうとしたが、その男教師……法正は彼女の元へ静かに歩み寄り、その機会を失ってしまう。

「………………。(まずい)」

流石に気付かれたか。潔く覚悟を決めたが、横目で徐庶を軽く睨んだだけで、すぐにななしの方に注がれる鋭い視線。

「……………珍しいな、お前が教科書を忘れるとは。」

「………すみません、家で予習をしていたら、机に置いたままでした。」

困り顔ながらも小さな笑顔を見せて一切物怖じしない返答に、見つめたままの徐庶は何処か違和感を感じていた。

ふう、と一息吐いて、法正は手に持っていた教科書を渡す。

「……仕方ない、俺のを貸してやる。」

「あ………はい、ありがとうございます。」

まるで、恐れる事よりも彼との距離に慣れている、と言わんばかりの対応だ。当然ながら彼等のやり取りを見ている他の生徒も驚きを隠せない様子。

彼は呆気無く許したのだ。叱る事もなければ寧ろ教科書を貸すという意外すぎる行動に、一同驚かない訳がない。

教科書を忘れただけで課題を増やしたりと何かと無茶ぶりで有名なのは周知の事実。しかし、彼が最も優秀な教師だからという理由で上は一切対処せず、殆どの生徒は泣き寝入りの始末だ。確かに学校側からすれば失うには惜しい人材であり、皮肉にも生徒の両親への対応は全く変わって丁寧と聞くから余計に質が悪い。こうして生徒だけに降り注ぐ裏の性格を見れば存外捻くれた智者であり、悪党と呼ばれる所以が見事に出来上がる訳だ。

後は……その色気ある容姿から一部の女子にも人気があると聞く。この危険な香りを寧ろ好む者も少なくはないのだろう。出された課題を分からないと敢えて嘘を吐いて直接教えてもらうという、マンツーマンと言う名のアプローチをかけた勇気ある輩も存在するらしい。その後の発展があったかどうかは不明だが。

しかし、ここまで来ると男の自分には到底理解出来ない領域だ。これ以上考えるのはヤメにしよう。

こうして徐庶は彼女のお陰で何事もなく授業を終えるが、ななしの冷静な対処に幾つか疑問が残り、再び思考を巡らせ始めた。

ーーー何かを隠している。自分が知らない、何かを。

好いた人への探究心というのは実に厄介だ。いけない事とは承知の上で、彼女の後を追いかける事にした。

昼休みになると必ず教室から忽然と姿を消し、授業が始まる直前には何事も無かったかのように戻って来る彼女。いつも気になっていたが、今日は余計に気になって仕方がないと身体が疼く。

「…………………。」

気付かれないように生徒の人混みに紛れながら彼女の後ろを追いかける。するとどうだろう、人気の少ない隅の、とある部屋の前で立ち止まった。

「こんにちは、先生。」

数回のノックの直後、徐に扉が開かれて

「ふ、そろそろ来る頃かと思っていたぞ。」

法正が煙草を咥えたまま姿を現した。まるでななしを待っていたかの様な口ぶりで、煙に巻かれながら部屋の中に招き入れると、そのまま扉はゆっくりと閉まる。

「………っ、流石に部屋の中を覗くのは………。」

人気が少ない故、これ以上の大胆な行動は怪しまれる。一度退くしか手はないだろうと徐庶は名残惜しむ様に彼女が消えていった扉を見つめては渋々踵を返した。

しかし彼女は法正先生に一体何の用だったのだろうか。教科書は授業終了直後に返却しているし、毎日ここに通っているとはあの真面目な性格から考えて到底思えない。

いや、これは単に偶然に過ぎない出来事だ。偶々あの部屋に寄る用があったに違いないんだ。


そうでなければ真面目な彼女が悪党に惹かれる理由が、ない。


ひたすら自問自答の繰り返しで胸のつかえが取れないまま放課後を迎えた徐庶は、何もかもが上の空のまま空虚感漂う廊下を一人歩いていた。すれ違う友人達の言葉も耳に入らないまま、下駄箱に向かう足は黙々と進む。

「………、ん………?」

ふと歩みを止めて耳を澄ませてみると、寂寞たる廊下の最果てより、男女の声が微かに聞こえてくる。

「……………誰だろう、こんな時間に。」

吸い込まれるように徐庶はその声のする方向へと一歩一歩足を踏み入れていく。部活後の生徒がまだ屯しているのだろうか。

だが、そんな軽々しい考えを持っていた一分前の自分を激しく後悔した。



「……………好きです、先生。」



その声を決して聞き間違える事はない。凛として濁りのない、彼女の穏やかな声を。

「………ああ、俺もだ。」

その声を決して聞き間違える事はない。地に這うような低い、彼の囁くような声を。

「嘘、だ…………。」

階段の傍で抱き締め合う二人の姿に、徐庶は言葉を失った。あの黒髪を結う真っ赤なシュシュは紛れもなくななし以外の何者でもない。

「あの、好きって……結構言っている気がして、そろそろ恥ずかしいです……。」

「何を今更……ま、俺にとっては何度聞いても嬉しいですけどねぇ………。」

艶やかに笑って彼女へ顔を近付けると、そのまま噛み付くように深い口付けを施す。長く甘いキスは彼女を蕩けさせるには十分過ぎる位で、ななしは初々しく頬を染めては涙を薄っすら浮かべていた。

「ん……。」

「…………っ、襲いたくなるような表情を浮かべやがって………。」

「だ、駄目です………!これでも、私は、生徒なんですよ……。」

「生徒、ねぇ………俺にとっては、ずっと一人の女としか見ていないんだがな……。」

「………そうであったら、嬉しいです。」

「他の奴はどうでもいい……俺は、お前がいれば何も要らない………。」



これ以上は、聞けなかった。



あの向けられる笑顔を思い返す度に恋をしていると気付かされ、どうしようもなく惹かれてしまう愚かな自分がいる。

ああ、どうか、今日の出来事は神が気まぐれに作り上げたシナリオであればいいのに。若しくは夢でも構わない、これが悪夢ならば、覚めてしまえば何も無い現実が待っているのだから。

だから頼む………俺は、俺は………。

胸が苦しくて、泣き出しそうで、壊れてしまいそうで、今すぐに消え入ってしまいそうなんだ。

「…………帰らなきゃ。」

ぽつりと呟いた独り言も虚しく空間に溶けていった。

なるべく彼等とは鉢合わせたくないと、下駄箱に向かう別ルートを探して半ば乱暴に階段を降りていく。

ふと窓の外をよく見れば雨が降っていて、傘を忘れた事を思い出した徐庶は重苦しげに顔を歪ませた。

「何から何まで最悪だ……。」

教科書も忘れるし傘も忘れる、とんだ災難に見舞われた日になってしまった。何もかもが面倒くさい、このままズブ濡れになって帰ろうかなんて柄にも無くて、いよいよ自暴自棄に陥っていく。

何も考えられず針のように降り注ぐ雨へと一歩足を踏み出したその瞬間、

「徐庶君!」

聞きたかったような、聞きたくなかったような、ななしの声が遠くから響き渡り、咄嗟に引っ込める足先が彼女の方に向けられる。

「……………ななし…………?」

「良かった………っ…………私もこれから帰ろうと思ってて…………でも、傘は………?」

「……うん、なんだか、たまには雨に濡れながら帰るのも悪くはないかなって。」

へらり、目の全く笑っていない笑顔は実にあからさまで、自分でも嫌になる位に引き攣っている。

そんな投げやりな態度を見て不安げに唇を噛んだななしは、何か言いたげに制服の袖を握って

「徐庶君………あの。」

「ななし。」

言いかけた言葉を彼は制止して、優しい声色で彼女の名前を呼んだ。

「俺ね……ずっと前から好きな人がいるんだ。」

「え………。」

「彼女が笑顔を見せる度に眩しくて、愛おしくて、俺にとってかけがえのない……大切な、人。」

涙ぐむような愛おしさで見つめる瞳はしっかりとななしを映していて、それが誰か言わずとも分かる程に哀しい告白。

「私………私、は。」

戸惑いながら目を泳がせて、必死に何かを伝えようとするななし。

分かっているなら、何も言わなくていい。

「君の好きな人は、彼なんだろう?」

「………………。」

「いいんだ、教師とは言え君が選んだ人なんだ。きっと俺が知らない一面もあるのだろう。俺の想いが叶わないなら……何もかもが彼に敵わないのなら……このまま、独りで雨の中……歩かせてはくれないかい?」

「徐……!」

彼女が叫び終わる前に全身が雨に濡れて、制服が更に深い色へと染まっていく。刺さる雨は痛くて冷たいのに何処か気持ちが良い、寧ろ清々しい位だと、自然と笑みまで溢れる始末だ。



だけど、全てが綺麗に終わる訳もなくて。

神様は本当に、良い意味で、どこまでも意地悪だ。



「……………大好きだよ…………!」



「……………ななし……………?」

ノイズの中で聞こえた告白と共に身体に感じた衝撃。振り返る間もなく、ななしは徐庶の背中に縋りついていた。すっかり冷めた身体に温もりが染み渡り、思わず顔に憂愁の影が差す。

「ごめんなさい………確かに……誰にも内緒で法正先生と恋愛をしてるのは事実………彼が好きなのも、事実。」

「…………っ………。」

でも、とななしは続ける。

「………私は、カッコよくて、頭が良くて、誰よりも優しくて、いつも……どんな時でも、助けてくれる……そんな徐庶君の事………好きだよ………。」

止めどなく流れる雫は雨なのか涙なのか、瞼を閉ざしたまま徐庶はゆっくりと振り返り、

「…………はは、今はその言葉だけで………十分。」

そんな泣きそうな笑顔がななしの心を酷く揺さぶる。しかし、今はこれが精一杯の気持ちであり、これ以上は何も言えなかった。

「徐庶君………。」

「辛い思いをさせてごめん。だけど、漸く……漸く決心がついたよ。」

いつか、君に振り向いてもらう為に。

「今日だけは、一緒に、帰ろう。」

彼女が持っていた傘をそっと開いて頭上に持っていく。お互い雨に濡れてしまった故に役割は殆ど機能しないが、せめて家まではと、徐庶は彼女の方になるべく傘を向けながら歩き出した。

「徐庶君……もっと寄らないと、雨が。」

「……はは、ここまで来たら、寧ろどうって事ないかな。意外と身体も丈夫だから、気に………」

しないでと、言う間もなくななしは躊躇なく腕を引き寄せて密着する形となる。

「え………あ………ななし………その………。」

「貴方が風邪引いて学校に来なかったら、隣で話を聞いてくれる人がいなくなるから。」

そう不貞腐れる顔を見るなり、徐庶はついつい笑みをこぼしてしまう。

「ど、どうして笑うの?おかしな事は何も……。」

「ああ、いやごめん。うん、そうだね……それじゃあ元も子もないや。」

確かに、君の笑顔が見れなくなるのは御免だ。













「徐庶君、おはよう。」

「ああ、おはよう。」

今日も今日とて何事も変わらない学校生活を送る。賑わう生徒の間をすり抜けて着席するなり、既に登校していた隣の少女は短い挨拶と屈託のない笑顔を見せた。

「…………………。」

反対側の開いている窓から涼やかな風がそよいで、不意に澄んだ瞳に安堵の色を滲ませる。

「さて、と。」

お決まりのチャイムが鳴れば、悪党は颯爽とやって来る。いつもと変わらず他の生徒をいびりながら、今日も同じく彼は彼女の愛を独占するのだろう。


だけど、今までのように泣き寝入りするのはゴメンだ。やれる事は全てやるつもり、いっそ当たって綺麗に砕けてやろう。


「席に着け。」


男の影は軽快に靴音を鳴らしながら、何故か後ろの扉から入ってきた。

「……………?」

不思議に思いながらも、先生はわざわざ俺の席の前を横切ると



「俺は、負けるつもりはない。」



そう小さく呟いて笑ったのを、決して見逃さなかった。




(そう、これは、宣戦布告)

(さぁ、卒業までに俺は、どれだけ伝えられるだろう)