手を繋いで

「ねぇ…………。」

と、短く声を漏らしたその主に、そろりそろりと目を合わせれば、もれなく笑顔が返ってくる。

「ごめん、無理だよ……。」

「やっぱり………どうしても?」

「…………うん………。」

「ほら、私の手、さっきから一度も離してないよ。二人で行けば怖くないって。」

「分かってる……分かってるけど、君より俺の方が体格が大きいし、万が一何かあったら………。」

「別に遠くまで行くつもりはないんだけどなぁ………それに、まだここ、足先が浸かる程度だよ?」

「………………。」

「うーん……。」

二人は一体何を話しているのか。そして今ここは何処なのか。ぐるりと辺りを見渡せば、青い空、白い雲、エメラルド色とまでは行かないが、それなりに透き通っている海。

そう、ななしと徐庶はデートという名目で夏の定番である海に来ている。長期に渡る休みという事もあってか、人もそれなりと多い。砂浜ではパラソルが色とりどりに咲いており、男の集団は女の子目当てにどうどう歩き回ってはちゃっかり輪の中へ。また女の集団はビーチボールや浮き輪などの道具で悠々と堪能し、時折色男の誘いに黄色い声を上げていた。

そんな中、二人はある事で未だ海に入れずにいる。

「大丈夫、ほんの少しだけ、ね?」

「うう………やっぱり俺には出来ない……。」

「それなら、私一人で行っても……。」

「だ、駄目だ!君に何かあったら俺は生きていけない……!せめて一緒に砂浜で遊ぼう。」

「お、大袈裟だって……!私こう見えて結構泳げるし、溺れたことだって一度も………。」

これも無意識なのか、じりじりと手首を掴む手が痛く思わず表情を歪ませるが、どうにも彼を説得させる言葉が見つからない。

聞くところ、どうやら徐庶は海が大の苦手らしい。では何故わざわざ此処に来たのかと問えば、それはそれで苦い顔を見せる。

「……苦手なら苦手って最初から言ってくれれば、場所変えたのに。」

「すまない………でも、君が行きたい所に連れて行ってあげたかったから、敢えて言わなかったんだ……。」

「………もう、徐庶さんは優しすぎるよ……もう少し我儘になっても良いんだから。」

そう言えば徐庶は申し訳無さそうに頬を掻く。

「はは……なんでだろう、君の前だとついそうなってしまう。」

「知ってる、だからこそ、もっと自分の意思も出して欲しいな。」

足先で砂に埋まる石ころを蹴りながら、ななしは小さく笑った。

「……うん、分かった、じゃあ砂浜で遊ぼっか。」

「本当かい………?すまない、俺が不甲斐ないばかりに。」

「苦手なものは仕方無いよ、私だって無理強いはさせたくないし、こうして眺めているだけでも十分楽しめるから。」

海から上がると、足に付いた砂を払いながら歩みを進めるななし。その後を申し訳無さそうにそろそろと付き添っていく徐庶。

「そうだなぁ……砂のお城、どんな風に作ろうか。」

そんな事を考えながら二人で海沿いを歩いていると、向こうから歩いて来る女性達が何かに気が付いたかのように歩みを早めてこちらに向かってくる。

「徐庶先輩!」

「え?」

その女性達がななしの目の前まで来ると、後ろで呆然と立ち尽くしている徐庶に向ってそう呼んだ。

「やぁ、君達も来ていたんだ。」

「はい、折角の休みなので、会社友達でちょっとしたプチ旅行を。徐庶先輩も来ていらしたんですね。」

一人の女性が頬を緩ませて唇に綺麗な弧を描く。清楚なビキニから覗かせるは日差しには無縁の白い肌とそれを際立てさせる豊満な体つき。自分の身体と比べてしまい、何処か虚しくなってしまった。

後ろに控える数人の女性も同じようにモデルのように美しくて、つい劣等感を抱いてしまう。

「あ、こちらの方は?」

「あ、あぁ……この人は……。」

「そうだ!私、ちょっとジュース買ってきますね、すぐ戻ってきますから待ってて下さい!」

何かを思い立ったななしは思わず声を上げて向こう側を指さした。軽く頭を下げると逃げるようにその場を後にし、海の家あたりに向かって足早に歩き始める。

「え、そんな、ななし!待ってくれ!」

いきなりの行動に血相を変えて名前を叫ぶが、その声に振り向く事なく彼女は人混みの中へと溶け込んでしまう。

「………私の、馬鹿………!」

なんて事をしてしまったんだ。逃げ出す事なんてなかったのに、素直に自分が彼女です、それだけで話は済んだのに、素っ頓狂な口実を残した挙句、肝心な彼を残してしまったらそれはそれで最悪な展開になってしまうではないか!

もしこのまま徐庶があの人達と行動する事になって、自分の事をすっかり忘れてしまったら?誰にでも優しい彼だから、一緒にいようと言われたらきっと嫌でも断れない。仮に、その中で彼に気を持つ女性がその後を誘惑したのであれば……。

早く戻らなきゃ。頭では分かっているのに、足はどんどん彼等から遠ざかっていく。

「………おや?」

人混みに揉まれて騒がしい中、一際目立つ低い声が耳元を掠めた。

「え、あ、法正さん?」

そこには黒いパーカーに見を包んだ男が立っていた。日に焼けていつもの素肌より少々浅黒く、海に入ってきたのか髪は癖毛の様にうねっている。

彼は法正、徐庶と同じ会社に務めるインテリヤク……とてもエリートな男だ。自分が務める会社と彼等の務める会社は長い付き合いという事もあり、顔を合わせる内に彼とも親しい関係になった。

「どうも、貴女一人で海ですか。」

「あ……いえ、一応彼も来ています。」

「へぇ、海とは無縁のアイツがねぇ。珍しい事もあるもんだ。」

「法正さんは一人ですか?彼女とか……。」

「いいえ、俺、彼女なんていませんから。まぁ、日頃の気分転換に来てみたまで……ですが、どうにもこの有り様……これ程面倒なものはありませんね。」

「そ、そうでしたか……てっきりそういう人がいると思ってました。法正さんって結構モテそうですし。」

「そうですかねぇ……ま、かつて鈍感で俺のアプローチに気付かなかった女性はいましたが。」

「…………いるんですね、そういう人。」

「ええ、いますとも。」

口にはしないが、法正はほとほと呆れていた。

「それで、貴女がどうして一人で行動しているので?」

そう言われて今の自分の立場にハッとなり、みるみる顔を曇らせる。

「その………非常に言い辛い事なんですが………彼の職場仲間と偶然居合わせてしまいまして、それで……。」

綺麗な方達に囲まれて……。

「その空気に耐え切れなくなって逃げてきた、そんな感じですかね。」

「…………はい、なんだか情けないです……。」

「やれやれ、お子様か。」

「うう、分かってます……。」

「そいつ等と自分を比べる必要、ありますか?」

「だって、私なんかよりずっと容姿端麗でしたし……惨めな気分になりました……なんの取り柄もない私なんかでいいのかなって……。」

「……………ななし。」

「え………わっ!」

突然手を握られて、思わず声が上擦ってしまう。存外逞しいその手付きと間近な端正な顔に堪らず頬が真っ赤に染まり、喉まで出かかっている言葉を詰まらせた。

「少し、俺に付き合っていただけませんか。」

「で……でも、私………!」

「……俺といる事が満更でもない、そんな顔していません?」

「そんな………!私は彼を裏切るような事だけは絶対にしません!」

首を横に振って必死に訴える瞳。それを見て法正は微かに唇を噛み締めた。

「…………知っていますよ、そんな事くらい。」

「法正さん………?」

目を伏せて、そんな悲しそうな顔は一瞬だけ、いつもの勝ち誇った様な笑みを浮かべて彼は腕を引いて歩き始めた。

「さて、まずは何をしてもらいましょうか。」

「えええ……どうして結局そうなるんですか……。」

ずるずると引き摺られる様にななしは法正と供に人混みへと消えて行った。















「付き合うって………これですか?」

「ええ、余興みたいなものです。」

地面に並べられたスイカを見て、呆然と眺めるななし。周りには観客と参加者、審査員でひしめき合っていた。

「見事割る事が出来れば豪華な景品……欲しいと思いませんか?」

指さす方角に目をやると、そこには喉から手が出る程欲しいであろう、米俵、家電製品、採れたて海鮮セット、こんな単純なゲームで手に入っても良いのだろうかと思う程の豪華な品々が並んでいた。

「欲しい………。」

ゴクリ、無意識に喉が鳴る。今月は何かと出費が激しくて丁度食料が欲しかったのだ。特に米は是が非でも手にしたい、そんな庶民の心の叫びが響き渡っていた。

「でしょう?だから参加名簿に書いておきました。」

「………ええ!本当に参加するんですか!」

「勿論、別に難しい話ではないでしょう。」

「う………。」

「さ、貴女の番が近いですよ。覚悟して下さい。」

そう言われて棒を持たされ、目隠しに鉢巻を巻かれる。

だが、これが終われば彼の所に戻れる。…………戻れるのだが、一体何処にいるのだろう。もうあの場所には居ない筈、結局探し回らなければいけない。

今頃あの女の人達と楽しくいるのだろうか。そんな姿を想像してしまったら、何だか足がフラフラしてきた。

ああ、目が廻る。じゃなくて、もう廻されているんだった。真っ暗な視界の中、法正さんの声だけが聞こえる。

………右?左……前……?

違う、そうでもない、私に聞こえる言葉はもっと大切な………。




「ななし、そこだ!」




言われた瞬間、自分の中の何かが吹っ切れたかの様に棒を握り締め思い切り振り翳した。その刹那、スコン、指先から感じた衝撃の痺れと、何かが勢い良く割れて清々しい音が同時に行き届く。

「ナイスショット!」

耳だけが頼りの今、湧き上がる歓声が大きく聞こえる。どうやら見事にスイカのど真ん中を仕留めたらしい。

「………どうです、スカッとした気分になりません?」

「………………。」

鉢巻が外れて見えた先には、自分が叩いたスイカの残骸。美味しそうな蜜が溢れて砂を色鮮やかに染めていく。

法正の言葉に、すんなりと頷けた。

「何だか、とっても良い気分です。」

「だろうよ、そういう鬱憤はこうして晴らしてしまえばいい。」





そうしてななしは念願の米俵を貰う事が出来た。大きいので宅配で後日届くらしく、今手元にあるのは自分が割ったスイカの欠片のみ。

辺りはすっかり日が暮れて、もう少しで海の向こう側に昼間散々輝いていた太陽が沈みそうだ。人もそこそこ帰る支度を始めて、やっと辺りが見渡せる程度までになった。

しかし、未だ徐庶の姿は見当たらない。



「………ありがとうございました。」

「この礼ならいずれ頂きますよ。」

それに、法正は続ける。

「……………取り柄がないなんて嘘だ、貴女は十分魅力のある女性です。」

「………………。」

「もっと自分に自信を持て。でなければ、俺が認めた意味がなくなる。」

「法正さん………?」

夕日に照らされた彼の横顔は、やっぱり悲しそうな顔をしていた。しかし、それもすぐに何処かへ消えてしまう。

「さて、そろそろ来る頃合か?」

「え?」

向こうから砂を蹴りながら必死に走る男を見つけ、思わず瞠目させる。

そう、それは決して見間違える事の無い、一番会いたかった徐庶の姿。

「ななしーーー!!!」

「………っ、徐庶さん………!」

ぶつかる様に抱き締められる身体は、すっかり冷えきっていた。息を切らせながら、途切れ途切れに言葉を発する。

「ずっと、探していたんだよ……君の事………。」

「え、でも………あの人達とは……。」

「彼女達、かい………?君がいなくなってからすぐに別れて、その後はずっと………。」

休みなく探していた、その言葉を聞いて自分の中で次々と後悔の念が押し寄せてくる。なんて事だ、自分の為にずっと走り回っていたなんて。

「………ごめん、なさい……私……怖くて………。」

「怖かった………?もしかして、俺の気が変わるんじゃないかって………?

………そんな事ある訳ないじゃないか!いつだって俺はななしの事しか考えていないし、君の様な聡明な女性が、むしろ……俺みたいな不甲斐ない男と一緒にいて本当に大丈夫かとか……そんな不安ばかり考えていた………。」

「………そんな事、ない……徐庶さんは頼もしくて………私にとって一番大切な人だから……。」

「ななし………君以外は考えられない………これからもずっと一緒にいてくれ……どんな時も……。」

それを終始見ていた法正は呆れ気味に肩を竦める。

「やれやれ、そういうベタな台詞を吐くのは俺のいない時にやってもらえませんか。」

「…………って、どうして貴方がここに!……一体、どういうことだい……?」

「全く、貴方方には散々振り回されてばかりだ。それに付き合わされるこちらの身にもなって頂きたい。」

「あの……実は、別れた後偶然会って……それで………。」

「呑気にスイカ割りしてましたよ。」

「ス、スイカ割り……?」

「呑気にじゃありません!言われて仕方無くお付き合いしたんです!」

「つ、付き合うって……ななし………。」

「違う、そういうのじゃないから!ああ、もう!法正さん余計な事言わないでください……!」

「事実を申し上げたまでですが?まぁいいですよ、後はどうぞお好きに、俺はそろそろ帰りますから。」

ひらひら手を振ってその場を後にする法正。その姿を見送ると再び二人きりになり、波のさざなみだけが静寂を支配する。

「………………ななし、俺………。」

ぽつりと呟いて徐に身体が離れると、不意に差し出される大きな手。その顔と交互に見比べれば、照れくさそうに、しかし何処か勇気を振り絞った顔も覗かせていた。

「徐庶さん………?」

「一緒に、海に入らないかい。」

「……………!でも、泳げないって……。」

大丈夫、君となら、そう言って彼女の腕を引くと海へと足を踏み入れる。日が沈みかけている為か水は少しばかりひんやりと冷たかったが、半身浸かれば案外慣れてしまった。

「…………………。」

「大丈夫………?怖かったら手、繋ごうか。」

ゆらゆらと腰辺りに映る水中の手を掴んでゆっくりと指を絡ませれば、それだけで安心感が広がり、強張っていた彼の顔も少しずつ緩み始めた。

「…………ななし…………。」

「ん………?」

ゆっくりと近付き、その距離はほぼ0に近い。目と鼻の先にまで迫る彼の顔は、いつになく真剣そのものだ。

「キス、してもいいかい……?」

「……………!……………。」

敢えて言葉にはせず、静かに瞼を閉ざせば、それを合図に徐庶は優しく唇を重ねて、身体ごと抱き寄せた。冷えた互いの唇に熱が宿り、波より高鳴る心臓の音がはっきり聞き取れる。


音もなく離れれば、頬に触れる指先。なぞる様に滑らせて、首筋まで撫れば愛おしそうに細められる目。


「…………また、一緒に、行ってくれるかい……?」

「勿論………今度は絶対に離れないから……。」

「………良かった……じゃあ、そろそろ帰ろうか。」

嬉しそうに笑みをこぼすと、徐庶は額辺りに口づけを落とした。
















「…………いっそ、そのまま連れ去ってしまいたかったですね。」

上から見ていた法正は、煙草の煙を吐きながら苦々しく笑った。






(そう言えば彼は一人で来ていたのかい?)

(あ、はい、彼女はいないみたいで……でも、一応好意を持っている人はいるみたいですよ)

(……………、そうなんだ、あはは………)