第6話


 知りたければ、自分から近付かなければいけない。
 それは、簡単なことでとても難しいことだった。
 やっぱりというか、薄々気付いてはいたけど、鶴丸さんは私に近寄らないようにしているみたいだ。というか、なるべく避けるようにしているのかな。……もちろん、私に踏み出す勇気が足りないのもあると思うけど。
 誰かに、たとえば、歌仙さんに相談しようかな。そう思ったこともあったけど、これは私の問題。私から、歩み寄らないといけない。だから、やっぱり誰にも相談はしなかった。というか、その挑戦は僅か数日で一度頓挫してしまった。
 ――なぜかというと。

 十二月に入ってから数日後。
 期末試験を終えた私は、久し振りに本丸に向かおうとしていた。
 十月の中間試験の時もそうだったけど、歌仙さんに『試験期間はきちんと勉学に励みなさい』と言われてしまっていたから。だから今日までの一週間は、本丸には行かず、勉強をしていたのだ。頓挫の理由はこれ。
 勉強は嫌いではないけど、だからと言って試験が好きなわけでもない。だから、試験から解放された私は、いつもより解放された気分でいた。
 いつもみたいに、寮の自室で懐中時計を動かす。
 一瞬の浮遊感。
 いつもなら、土間に立っているはず。
 それなのに。
 なぜか私は浮いていた。いや、落ちていた。
「え」
 絶望的な声音が自分の口から零れた。だって、目の前に屋根のてっぺんが見えたのだ。たぶん、これは本丸の屋根。それが見える位置から、私は落ちている。咄嗟のことで、受け身を取る方法も思いつかなくて、ただ私はきつく目を瞑った。
「夕鶴!」
 誰かが私の名を呼ぶ。声がした。
 それから、抱きかかえられたような、暖かい感覚。けれど、間に合わなかったのか、落ちた衝撃が襲う。でも、思ったより痛くない。それどころか、何かを潰しているような、そんな気配。
 恐る恐る目を開けると、金色の瞳と至近距離で目が合った。
 焦った色をしている鶴丸さんの瞳の中に、私がいる。私は、ただただ今の状況が理解できていない、間抜けな顔をしていた。
「……」
 驚きで、声も出ない私。でも、それは鶴丸さんも同様だったみたいだ。それこそ、大げさだと思えるほど長い長い、安堵の溜息を吐いた。
 きっと、本当に驚いたのだろう。こんなに動揺している鶴丸さんを見たのは、初めてだった。
 でも、それは私も同じことで、話がしたいと思う日々はあっても、押し潰したいなんて思ったことは一度もない。
 ……押し潰す?
 そこで、やっと気づいた。
 私は、この人の身体を押し潰す形で、乗っかっていたのだ。
「わぁ!」
 慌てて、降りた。慌てすぎて、足首をひねらせて、そのまま尻餅をついた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、重かったですよね」
「いや、無事なら別に良いんだが」
 慌てすぎな私とは対照的に、鶴丸さんは落ち着きを取り戻していた。もしかすると、私の慌てっぷりに逆に冷静になったのかもしれない。
 そういえば、さっきの声。私の名前を呼んだあの声は、鶴丸さんのものなのだろうか。
 立ち上がって砂を払う鶴丸さん。私が押し潰したせいで、白い着物が砂まみれだ。
「……あ」
 私が怪我一つしていないのを確認できたのか、鶴丸さんはその場から去ろうとする。
 その白い背中。
 きっと、無意識だったんだと思う。
 気が付いたら、私は腕を伸ばしていた。
 伸ばして、鶴丸さんの袂の裾を掴んでいた。
 あの時と違う。ただ道場の外から眺めていることしかできなかった、あの時と。
 私の手が、鶴丸さんに届いたのだ。
 急に引っ張られるような形になってしまったのか、鶴丸さんは足を止める。
「……」
「……」
 沈黙を沈黙で返して、ただ私は鶴丸さんを見上げた。
「……どうしたんだ?」
 そんな沈黙に耐え切れなかったのか、鶴丸さんが問いかけてくる。
「腰が、抜けちゃって」
 嘘じゃない。だって、鶴丸さんが助けてくれたとはいえ、空から落下したのだ。
「だから、ええと……」
 なんと言えばいいのだろう。言葉に迷っていると、袂を掴む手の力が抜けたらしい。気づいたら、引き抜かれていた。
 けれど、鶴丸さんは立ち去ることはしなかった。座り込んだまま動けない私の前に、そのてのひらが差し出される。
「ほら」
「ありがとう、ございます」
 手を伸ばす。
 掴んで、引っ張ってくれる。立たせてくれる。
 でも私は、震えでうまく立つことができなくて、そのままへたり込んでしまった。
 なんだか情けない気分になってしまう。
 高いところから落ちて、完全に竦んでしまっている私にも。
 こうして、せっかく鶴丸さんと離せる機会が巡ってきたのに、うまく言葉が見つからない、私にも。
「……わっ!」
 そんな情けない私を、鶴丸さんは軽々と抱き上げた。……これ、俗にいうお姫様抱っこなのでは? 別の意味で固まってしまう。
 そうして、私は鶴丸さんに縁側まで運んでもらってしまった。
「すみません……」
「なぁに、空から落ちたんだからな。足も竦むさ」
 どこか労わるような声音に、私は顔を上げた。それなのに、鶴丸さんは私が顔を上げると、するりと視線を逸らしてしまう。
 嫌われているわけじゃない。それは、なんとなく分かった。だって、落ちた私を助けてくれた。今だって、座り込んで動けない私を、運んでくれた。言葉を、掛けてくれた。
 だったら、どうして。
 こんな機会、きっともう二度とない。
 だから私は、そのまま去ろうとする鶴丸さんの袂をまた掴む。
 困ったように見返してくる鶴丸さんに、私も困った顔をして返した。だって、本当に何を話せばいいのかわからなかったから。
「あの、…………今日もいい天気ですよね」
「……………………は?」
 悩んで悩んで、出た言葉がそれだった。そんな私の言葉が予想外過ぎたのか、鶴丸さんはたっぷりの間を持って問い返す。
 その顔には、ありありと「こいつは何を言っているんだろう」という色が浮かんでいた。
「やっぱり、今のなし!」
 ばかなことを聞いた。というか、私は何を言ったのだろう。いくら話すことが何も思いつかなかったとはいえ、今言う言葉がそれなのだろうか。
 突拍子もないことを口走った恥ずかしさで、鶴丸さんの顔を見ることができない。視線を落として、改めて別の話題を考えていると、ふいに、くつくつとした笑い声が聞えてきた。
 今ここにいるのは、私と鶴丸さんだけ。それから、その笑い声は私より少し上の位置から聞こえてくる。
 見上げると、鶴丸さんが肩を震わせて笑っていた。私のばかな問いかけを、面白そうに。
 それを見てしまうと、恥ずかしさより嬉しさが勝ってくる。だって、笑ってくれたのだ。
 ただ、私が可笑しなことを聞いたからかもしれないけど、私のばかな質問に、笑ってくれたのだ。
 でも私は、その嬉しさを隠すようにして、小さく頬を膨らませる。
「そこまで笑わなくても良いと思うんですけど」
「いや、すまんすまん」
 あまり申し訳ないとは思っていない、その声音。その声には笑みが滲んでいる。袂を離しても、鶴丸さんはどこかに行こうとしなかった。そのまま、私の隣に腰かける。
「確かに、良い天気だな?」
「うぅ」
 どこか、からかうようなその声音。ばかにしているわけじゃなくて、私の冗談みたいな質問に、冗談で返してくれた、優しさみたいな。そんな感じ。
 だけど、私のばかみたいな言葉がきっかけの一つだったのかもしれない。
 ぎこちなさは残るけど、この日以来、鶴丸さんと話せるようになった。