第5話


 十一月も下旬。本丸を行き来するようになって、なんだかんだで、二か月が経とうとしていた。
 その日の昼休みは、珍しく千歳とお昼を食べていた。大人びた印象を見せるこの友人は、高校一年生からの付き合いだ。
 私はいつもみたいにサンドイッチで、千歳は彩り豊かなお弁当。一緒に食べてはいるけど、特に会話らしい会話はしてない。だけど、千歳との距離感はそれが逆に心地良かったりする。
 食べ終わって、サンドイッチを包んでいたビニールを折りたたんでいると、千歳が「夕鶴」と声を掛けてきた。ブロッコリーが嫌いなのだろう。微妙な顔をして、フォークで突っついている。
「ん?」
「最近、何かあった?」
 どこか平坦な声音で千歳は尋ねる。心配だけど、踏み込もうとはしない適度な距離感のある声。
「別に、なんにもないよ」
 何もないわけじゃないけど、審神者のことを彼女に話すわけにはいかない。だから私は、曖昧に笑うことでそれをごまかした。
 後から思うと、本当になんにもない人は「なにが?」と返すはずだから、私のごまかしは千歳にはまったく通じてなかったのだと思う。それはきっと、あの日の厚くんの時もそう。
 でも、それを言った時の私はそのことに気づいてなくて、なんだか物言いたげな顔をしている千歳を不思議そうに見返した。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
「そう?」
 さっきの私と同じ返しをした千歳は、小さく息を吐いた。話はこれで終わりらしい。いらないことを訊いた、とばかりに千歳は卵焼きをフォークに突き刺すと私に手渡す。
「あげる」
「……ありがとう?」
 ここで断るのはおかしな気がして、遠慮なく貰う。卵焼きを一口食べた。ほうれん草を捲いている、和風の味付け。
「美味しい」
「ありがと。伝えておく」
 家族が作ってくれたのであろう。私の感想に、嬉しそうに千歳は小さく笑った。



 その日の放課後。
 日直の私は、学級日誌を書いていた。もう一人の日直は、黒板を綺麗に消して、窓に鍵を掛けた後、部活に赴いて行った。私の役目は日誌と教室の鍵閉めだ。
「よしっと」
 書き上げて、座ったまま背伸びをする。
 私も、早く帰って本丸に行かないと。そう思って立ち上がると、教室の入り口に見知った人が立っていた。
 国見楠那先輩。
 九月のあの日から少しの間はやりとりをしていたけど、最近はすっかりご無沙汰だった。同じ学校に通っているはずなのに、一度も会わなかったから、先輩を見るのは本当に久しぶりだ。
 目が合うと、先輩はにこりと手を振った。
「久しぶり」
「……お久しぶりです」
「入ってもいい? ――あ、何を今更って顔しないでよ」
 二か月前は勝手に教室に入ってきた人が今更何を言っているんだろう。思いっきり顔に出したら、先輩は白々しい顔でそんなことを言った。
「どうぞ。でも、用件は手短にお願いします」
「はいはい」
 軽い返事をして、先輩は教室に入ってくる。
 そうして、私の隣の子の席に勝手に座った。
「ほら、夕鶴も座って」
 言われたまま席に座る。椅子をずらして向かい合おうとする先輩に、私もずらして応じた。
「何かようですか?」
「まぁ、別段と大したことじゃないんだけどね。最近どうしてるかなって」
「どうって言われても」
「本丸にはもう慣れた?」
「そうですね。みなさん、優しいので」
「だろうね」
 何が楽しいのか、先輩はくすくすと笑う。けれど、その笑顔のまま、先輩はさらりとそれを聞いてきた。
「鶴丸国永はどう?」
 ピンポイントであの人の名前が出てくるとは思わず、私はすぐに答えることができなかった。
 たぶん、私は強張った顔になってしまったのだろう。先輩は、また面白そうに笑う。
「うまくいってないみたいだね」
「そういうわけじゃ……」
「まぁ、君は後継の審神者だからね。一振りか二振りかはそういう相手も出てくるさ」
 むしろその鶴丸国永だけ、とはなんとなく言いたくなかった。
 そっと視線を逸らして俯く私に、先輩はなおも言葉を続けてくる。
「ねぇ、夕鶴」
「なんですか?」
「君は別に人嫌いってわけでもないし、大人しい性格なわけでもないだろう? それなのに、あまり人と深く接しないのはなぜだい?」
 意図の読めない質問。だけど、私の心はざわざわと落ち着かなかった。
 無意識に、スカートを強く握りしめる。この人は、何を言いたいのだろう。
「……いきなりなんですか?」
「別に。ちょっと疑問に思っただけ」
 昼休みのことを、千歳との会話を思い出す。

『最近、何かあった?』
『別に、なんにもないよ』

 なんでもない、ふつうの会話だ。
 そもそも、審神者のことなんて、そう話せることじゃない。
 だけど、わかってる。
 審神者のこと関係なしに、なんでも話せる仲なのかと聞かれたら、そうじゃない。一定の距離を取って接しているのは確かだ。それに千歳が気づいているかは、わからないけど。
「……先輩はそう見えるかもしれないですけど、人付き合い、あんまり得意じゃないんです」
「本当に?」
「何がですか?」
 分かったような言い方に、私は苛立った。顔を上げると、先輩は、ただただ見透かすように私を見ている。
 私よりずっと年上のような顔をして、なんでも知っているような顔をして。
 そもそも、私は先輩と知り合ったばかりだ。それなのに、勝手に私のことを知っているような顔をしている。
 正直に言うと、腹が立つ顔だ。
「君は想像以上に臆病だね」
「あなたが私の何を知ってるんですか。勝手に知ったようなことを言わないで。それに、世の中強い人間ばかりじゃない」
「まぁ、そうなんだけどね」
 何が言いたいのだろう。私は、苛立ちを隠そうともせずに先輩を睨んだ。先輩は、ただただ笑うだけ。どこまでも見透かすかのように、私を見る。
「ねぇ夕鶴。あいつを知りたいと思うなら、自分から近付かないといけないよ」
 主語のない言葉。
 だけど、先輩が指すあいつ≠ェ誰なのか、私はすぐに分かってしまった。
「別に、私は」
「知りたくないって?」
「……」
 なぜだろう。「そうだ」と答えることができなかった。
 あの人のことを、知りたいのか。知りたくないのか。
 知りたくないと言ったら嘘になる。
 だけど、私は。
「誰かに踏み入るのも、踏み入られるのも苦手だから」
 気づいたら、ぽつりと零していた。先輩の目から逃れるように、視線を落とす。
 誰かに踏み入るのも、踏み入られるのも苦手だ。
 どうしてそうなのかは分からないけど、なぜだか無意識に分かってもらおうとすることも、分かろうとすることも私は避けていた。
 ずっと昔。記憶を失くしたあの頃からずっとそう。だから私は小学生の頃も、中学生の頃も、その時に仲の良かった友達は、今ではすっかり誰とも連絡を取っていない。
 それが寂しいわけじゃないけど、でも別にいいのだ。
 だって、その子たちのことを私は深く知らないのだから。その子たちも、きっと私のことなんて忘れているだろう。
 千歳も、きっとそう。高校を卒業したら、もう会わなくなるだろう。きっと、今だけの友達だ。
 だから、きっと。
 あの人だって、鶴丸国永だって同じはず。
「まったく、君たちは本当にめんどくさい性格をしているな」
 溜息混じりの言葉に、顔を上げた。
 めんどくさいと言ったのに、先輩はどこか呆れと優しさが混じった中途半端な顔をしていた。
「鶴丸国永のことが知りたいんだろう」
「私は」
「知りたいのなら、近付けばいい。踏み入ることを、踏み入られることを恐れていたら、何も始まらない」
 そんなの、言われなくても分かっている。分かっているけど、それができない。できる人ばかりじゃない。先輩は、それが分からないのだろうか。
「君ならできるよ」
 私の心を見透かしたように、先輩は言う。
「どうして、そう言えるんですか」
「なぜかって? だって君は、あいつを知りたい≠ニ思ったんだろう?」
 答えになっていない答えだ。
 でも。
 私はあの人のことが知りたい。そう思っているのは確かだった。
「踏み出す勇気は付いたかな?」
「……はい」
「よろしい。まぁ、これ以上は僕もちょっと干渉しすぎになるからね。これは最初で最後の助言かな」
 おどけたように言う先輩を、私は不思議な気持ちで見つめた。
「あの」
「なに?」
「どうして、そこまで気に掛けてくれるんですか?」
 私はまだ審神者になることを決めたわけじゃない。やっぱり、ならないという選択肢を取るかもしれないのだ。それなのに、どうして先輩は気に掛けてくれるのだろう。
 それこそ、他の本丸の内情なんて、先輩が気にする必要はないことなのに。
 私がそんな質問をするとは思っていなかったのか、先輩はきょとんとした顔で私を見返す。
「さて、どうしてでしょう?」
 だけど、すぐにはぐらかすかのように笑って、そう言った。
「それじゃあ、そろそろ本丸に行かないと。あんまりサボると、僕の近侍が煩いから」
 それは先輩が悪いんじゃないだろうか。そう思ったけど、今日だけはそう言わない代わりに、別のことを言う。
「ありがとうございます」
「気にしなくていいよ。ただのお節介だから」
 それじゃあね、と立ち上がると、先輩はひらりと手を振って、教室から出て行こうとする。けれど、扉の前で立ち止まると、振り返った。
「ねぇ、夕鶴」
「はい」
「君の今の友達も、本当に今だけの友達でいいのかな?」
 そう、投げかけて先輩は教室から出て行った。
 ……まったく、今日の先輩は先輩が自分で言う通り、とてもお節介だ。
 だけど、と考えてみる。
 たとえば、来年。千歳とクラスが別れたりしたら――。

 今はまだ話せないけど。
 もしも私が、審神者になることを決意することができたら、その時は。