ひなたのとなり
かたん、と音が聞こえた。誰かが、部屋から出る音。その音で、目が覚めた。音が聞こえた方角から察するに、あいつの……碧依の部屋ではないかと思った。
……碧依は、眠れないのだろうか。しばらく経っても、部屋に戻ったような気配はない。
気になって、俺は起き上がると、兄弟を起こさないように気を付けながら部屋を出た。
今夜は満月のようだ。雲一つない夜空に、月が浮かんでいる。
碧依の部屋がある方向に向かうと、やはり碧依は部屋の前にいた。膝を抱えるように座り、ぼんやりと月を見上げている。
月を見ているようで、どこか別のところを見ているような。なぜか、そんな気がした。
「眠れないのか?」
近づいて、声を掛ける。
「……びっくりしたぁ」
脅かすつもりはなかったのだが、碧依は心底驚いたような顔をして、俺を見上げる。
「すまん。驚かせるつもりはなかったんだが」
「ううん、大丈夫」
碧依は首を振ると、なぜか小さく笑った。
それから、不思議そうに首を傾げる。
「国広くんも、眠れないの?」
「いや……」
なんと言ったらいいだろう。
物音が聴こえて目が覚めた、とは言わない方がいいだろう。ついでに、その音がここから聞こえたような気がして、部屋に戻った気配がないから心配だった、とも。
あまり弱さを見せようとしない……むしろ弱っていても元気な振りをするような奴だ。下手に聞くと、「大丈夫だよ」と笑って意地を張るのだから、ここはあえて何も言わない方がいいだろう。
「目が覚めたから、水でも飲もうかと」
「そっか」
そんな、俺の適当な返しに碧依は頷く。けど、何か思案するような顔をすると、立ち上がった。
「ちょっと座って待ってて。すぐ戻ってくるから」
「は? おい……」
俺の返事も聞かず、碧依は厨に向かって行ってしまった。……待ってて、と言われてしまったからには、ここで待っている方がいいだろう。人の返事を最後まで聞かないときがあるのは、碧依の悪い癖だ。
……そういえば、随分前にもこんなことがあったように思う。
あの日も、俺は眠ることができなくて、気晴らしに部屋を出ると、同じように眠れなかったらしい碧依と居合わせた。
それから……そうだ。碧依はホットミルクを入れてきたのだ。はちみつを入れたホットミルクは、優しい味がするから。きっとよく眠れる。――確か、そう言っていたはずだ。
あの頃は、互いの距離感を測りかねていたように思う。
俺は碧依へどう接すればいいかわからなかったし、おそらく碧依もそうだろう。それでも、碧依は少しずつ歩み寄ろうとしてくれた。
戦のない時代に過ごしていたというのに、突然、審神者として歴史を守る戦いの中に放り込まれた。戦いが終わるまで帰ることができない中、それでも碧依は弱音を吐かずに前を見据えていた。
あの頃から、碧依はずっと変わらない。
己のことより、他人のことを優先する。
手を差し伸べることは得意なくせに、誰かに頼るようなことはしない。まるで、自分がそうすることは悪いことだと思っているような気がしてならないのだ。……そんなはず、ないとうのに。
過去、碧依に何があったのかは知らない。けれど、今の碧依の性格を形作っている何かがあったことは確かなのだ。
そうして、二つのコップを持って戻ってきた碧依は、一つを俺に差し出した。
「はい」
「ホットミルクか?」
「うん、そう」
どうして分かったんだろう。そんな顔をして、碧依は俺の隣に座る。
「ホットミルクはね、ねむ、」
「眠れないときはこれがいいんだろう?」
「……うん」
先回りするように言うと、碧依はますます不思議そうな顏をした。
けれど、碧依もあの時のことを思い出したのだろう。
「覚えていてくれたんだ」
「あぁ」
「そっかぁ」
そうやって、嬉しそうに笑った。
碧依のこの笑顔を、ひなたのように思えるのは、俺だけだろうか。穏やかで、暖かな陽のひかりのようで、どこか安心する。
いつも、そうやって笑っていてほしい。最近、そう願うようになっていた。
「あつぅ」
一口飲もうとして、火傷をしかけたのか、碧依はあまり聞いたことがない声を上げた。
なぜか恥ずかしそうにして、再び息を吹きかけて口に付ける碧依の様子がおかしくて、吹き出しそうになった。
「国広くん、笑ってる?」
「……笑ってない」
「私の目を見て言ってみてほしいなぁ」
そう言う碧依の声音も、どこか笑いそうになるのを堪えているように思えた。
「ふつうに笑っても、気にしないよ。あの時、国広くんが火傷しそうになったでしょう? 私、あの時ほんとうは笑いそうになっちゃったから。だから、これでおあいこだよ」
「そうなのか?」
「うん。すこしだけ」
そうだったのか。
「なんていうか、少し反応がかわいかったから」
…………なんだ、それは。
「……かわいいって言うな」
「じゃあ、綺麗だよ?」
「やめろ……」
「ふふっ……」
顔を背けるが、それでも碧依は楽しそうに笑っている。
……けれど、碧依にそう言われることは、昔ほど嫌ではなくなっていた。
当たり前のように俺を見てくれる。
「きみは、きみだよ」と。そう言われることが、ただ俺自身のことを肯定してくれる存在がいることが、どれだけ嬉しいか。安心するか。碧依は、知らないだろう。けれど、別に知らなくたっていい。
碧依は俺に光をくれた。ただ、それだけなのだから。
ふたりで、話をした。
戦いは、まだ続く。終わりは少しも見えない。だから、少しでも、碧依の心が穏やかになればいい。そう願って。