Red AngelL
「兄貴、あれは⋯」
次の任務で使用するビルの屋上を視察した後。ポルシェを駐車してあるパーキングへ向かう途中、道路を挟んだ通りにあるカフェテラスに見覚えのある女を偶然視界に捉えたウォッカは何気なく自らの疑問を口にした。ウォッカの問いにジンもテラスへ視線を向ける。そこには紛れもなく名前とあのパーティーで居合わせた男の姿。二人は楽しそうに談笑している。
「⋯行くぞ」
ジンは特に反応を示さず、それだけ言って足早に歩き出す。それに続くようにウォッカも慌ててその後を追った。
それから幾日が経過する。ここのところ任務中にジンがハンドルを握ることはなく、運転するのは私用時のみ。ウォッカが車外に出たことを受けて自らも助手席のドアを開けた。
「俺は報告書を提出してから帰りますんで」
「⋯ああ」
「お疲れ様でした」
兄貴分であるジンが運転席に乗り込み、車を発進させその姿が消えゆくまで見届けるとウォッカは軽い溜息を吐いた。
最近、どうも彼の様子がおかしい。元々口数が少なく、冷淡で愛嬌があるタイプではないが以前にも増して無表情・無感動に拍車が掛かってしまっている。今まで通り任務の遂行は完璧で何ら支障が出ている訳ではないけれども、任務時以外は刺々しいオーラを纏っているにもかかわらず心此処に在らず⋯といった空気も醸し出していてどうにも居心地が悪い。彼のこんな姿を初めて目の当たりにしたウォッカはジンの身を案じる毎日だ。
一方、ウォッカと別れたジンはセーフハウスには向かわず、当てもなく愛車を走らせていた。ずっと頭の中を支配しているのはあの日ベルモットに投げられた言葉の数々と、幾日か前に偶然目撃した名前と寶井が談笑している光景。じわじわ浸食され、己の中で燻り続けている感情に対し見て見ぬ振りをする事など⋯とっくに出来なくなってしまっていた。いくら否定しようとも、こんな風に彼女のことばかり考えている時点ですでに答えは出ている。
そして気がつけば、そこは彼女が住んでいるマンションの前。ジンは自嘲気味に嗤うとゆっくり車から降りて名前の部屋がある階層を見上げた。22時に差し掛かろうかという時刻、明かりはついていない。もう寝てしまったのか、とふいに内ポケットの煙草に手を伸ばした所で背後に人の気配を感じた。振り向くとつい今しがた思い描いていた人物がラフな格好で、小さな買い物袋を手にして立っていた。
互いに言葉はなく、その場で立ち尽くす。いつもなら「こんな時間に一人で出歩くな」とか「相変わらず色気のない格好だな」とか他愛のない軽口が口をついて出るのに、何一つ出てこない。彼女もどうしていいか分からないのか、酷く戸惑っている様子だ。
微妙な空気に支配される中、意を決したように名前が先に口を開いた。その声はいつも通りのトーンで話し方も普段の調子と同じであった。
「今日のお仕事はもう終わったの?」
「⋯⋯ああ」
「急にミルクティーが飲みたくなってそこのコンビニまで行ってきたの。ジンも、上がって珈琲でも飲んでく?」
ジンは無言のまま、車からキーを抜くと彼女の後を着いて行った。
***
ジンを部屋へ招き入れると名前は不自然な程に明るく振舞っていた。まるで何事もなかったかのように接する。それは彼女なりの精一杯の配慮であろうことは容易に想像がついた。本来ならそういう態度を取れる人間に対して好感を抱く筈なのに、今は苛立ちが募るばかり。
彼の心情など知り得る筈もない名前は世間話をしながら淹れたばかりの珈琲をテーブルに置いた。その時、此処へ来てずっと沈黙を守っていたジンが唐突に彼女の右腕を掴む。すると名前は反射的に身を強張らせた。ジンの鋭い視線に射抜かれ、一瞬にして笑顔が消える。
「随分と巧く誑し込んだじゃねーか」
「⋯え?」
「大財閥のお坊ちゃんと優雅にティータイムとは、お前も良いご身分になったモンだ⋯」
「ち、ちが⋯!あれは、」
「まぁ精々弄ばれねェように気を付けるんだな。金持ちに群がる女なんざ、掃いて捨てる程いる」
「ちょっと待って」
「安心しろ。寶井程の大財閥なら組織も簡単には手を出せ「だからっ 少しは私の話も聞いてよ!」
これまで一度も目にした事のない名前の剣幕に気圧され、ジンは口を噤む。
「彼とお茶をしたのは本当だよ。折角誘ってくれたし、一度くらい会ってみてもいいんじゃないかって助言してくれた人もいたから」
「⋯⋯」
「楽しかったよ?私の知らない世界の事とか色んな話を聞かせて貰えて。だけど⋯」
「だが、何だ」
「ジンとは関わらない方がいいって⋯。多分彼はジンの事も、何か知ってるんじゃないかな⋯」
「当然だろう。大財閥ともなればそれなりに闇との繋がりもある。それが表面化していないだけだ」
「それでも関係ないって私は言ったよ。ジンがどんな世界で生きてるのかなんて詳しい事は何にも分かんないけど、私にとってジンはジンだから」
「⋯何が云いたい」
「つまりね、私はジンが好きだってこと」
「!」
「気が付いたらすごく好きになってた。もう、自分でもどうしようもないくらいに」
「⋯⋯」
「あの夜の事があってからずっと考えてた。あんな酷い事されたのに⋯それでも私はジンが好き」
「――馬鹿が」
「うん、馬鹿だよ。馬鹿だからちゃんと答えを貰わないと私分かんない」
名前は真っ直ぐな瞳でジンを見据え、ずっと聞きたかった事を問うた。私の事をどう思っているのか、何故あの夜あんな事をしたのか。ほんの僅かな希望を託して。だがそんな彼女の想いも空しく、ジンが口にした答えは悲しいものだった。
「あの時言った筈だ⋯。男を甘く見ているとどういう目に合うか、と」
「⋯⋯」
「更に云えば、お前が抱いている感情は只の錯覚だ」
両親に先立たれ独りになった後、偶々傍に居た人間がジンだった。云わば孤独を埋める依存心から来るものであって決して特別な感情などでは無い、と。ジンの言葉を聞いて名前は大きく頭を振る。そんなんじゃない、と必死に訴えるがジンは全く聞く耳を持たない。
「大体俺の様な人間に好意を抱いたとして、お前に何のメリットがある?」
「っ、」
「ククッ⋯そもそもお前みたいな子供(ガキ)相手に俺が興味を持つとでも?」
違う。
そうじゃない。
本心とは裏腹に、名前を傷つけるだけの言葉がスラスラと口を衝いて出て行く。仮にここで彼女に本心を伝えたとして⋯その後どうなる?この先、彼女を危険に曝すだけではない。例え双方の心が通じていようとも当り前の幸せを与えてやることすら出来ない。だとすれば、ベルモットが言った通り名前を自由にしてやる事が最善ではないか。
様々な葛藤を抱きつつもそれはおくびにも出さず、冷めた眼差しと表情を浮かべ続けるジン。するとずっと堪えていた涙がとうとう名前の瞳から零れ落ちた。ジンが放つ言葉の一つ一つが残酷に心を抉り、突き刺さる。
「それじゃあ⋯ジンにとって今でも私はただの⋯監視対象者、なの?」
「そうだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「⋯っ、」
「だがそれもそろそろ潮時、だな⋯。“苗字名前”が組織にとって何の脅威にもならないことは充分検証できた」
「! ぃや⋯ッ」
「そういう訳だ、お前の監視も今夜で最後にしてやる」
「やだ⋯最後、なんて言わないで⋯」
「組織について永久に口を噤んでいる限り、お前は自由だ。いいか?それだけは絶対に忘れるな」
「ジン⋯!」
「話はこれで全て終いだ。⋯じゃあな、」
椅子から立ち上がりながら最後の別れを彼女の顔を見ずに言い放つとジンは即座に背を向けた。その背中に向かって、名前は何度も何度も彼の名を叫び続ける。今追いかけなければもう二度とジンには逢えない、と分かっていた。けれどその場に凍りついてしまったかのように足が竦んで動けない。そして響いた、玄関の戸が虚しく閉じる音。それはまるで彼と彼女の相容れない世界を象徴するかのように⋯。
それが、唯一のリアルだった。
next
2015/10/24
加除修正 2023/4/6
次の任務で使用するビルの屋上を視察した後。ポルシェを駐車してあるパーキングへ向かう途中、道路を挟んだ通りにあるカフェテラスに見覚えのある女を偶然視界に捉えたウォッカは何気なく自らの疑問を口にした。ウォッカの問いにジンもテラスへ視線を向ける。そこには紛れもなく名前とあのパーティーで居合わせた男の姿。二人は楽しそうに談笑している。
「⋯行くぞ」
ジンは特に反応を示さず、それだけ言って足早に歩き出す。それに続くようにウォッカも慌ててその後を追った。
それから幾日が経過する。ここのところ任務中にジンがハンドルを握ることはなく、運転するのは私用時のみ。ウォッカが車外に出たことを受けて自らも助手席のドアを開けた。
「俺は報告書を提出してから帰りますんで」
「⋯ああ」
「お疲れ様でした」
兄貴分であるジンが運転席に乗り込み、車を発進させその姿が消えゆくまで見届けるとウォッカは軽い溜息を吐いた。
最近、どうも彼の様子がおかしい。元々口数が少なく、冷淡で愛嬌があるタイプではないが以前にも増して無表情・無感動に拍車が掛かってしまっている。今まで通り任務の遂行は完璧で何ら支障が出ている訳ではないけれども、任務時以外は刺々しいオーラを纏っているにもかかわらず心此処に在らず⋯といった空気も醸し出していてどうにも居心地が悪い。彼のこんな姿を初めて目の当たりにしたウォッカはジンの身を案じる毎日だ。
一方、ウォッカと別れたジンはセーフハウスには向かわず、当てもなく愛車を走らせていた。ずっと頭の中を支配しているのはあの日ベルモットに投げられた言葉の数々と、幾日か前に偶然目撃した名前と寶井が談笑している光景。じわじわ浸食され、己の中で燻り続けている感情に対し見て見ぬ振りをする事など⋯とっくに出来なくなってしまっていた。いくら否定しようとも、こんな風に彼女のことばかり考えている時点ですでに答えは出ている。
そして気がつけば、そこは彼女が住んでいるマンションの前。ジンは自嘲気味に嗤うとゆっくり車から降りて名前の部屋がある階層を見上げた。22時に差し掛かろうかという時刻、明かりはついていない。もう寝てしまったのか、とふいに内ポケットの煙草に手を伸ばした所で背後に人の気配を感じた。振り向くとつい今しがた思い描いていた人物がラフな格好で、小さな買い物袋を手にして立っていた。
互いに言葉はなく、その場で立ち尽くす。いつもなら「こんな時間に一人で出歩くな」とか「相変わらず色気のない格好だな」とか他愛のない軽口が口をついて出るのに、何一つ出てこない。彼女もどうしていいか分からないのか、酷く戸惑っている様子だ。
微妙な空気に支配される中、意を決したように名前が先に口を開いた。その声はいつも通りのトーンで話し方も普段の調子と同じであった。
「今日のお仕事はもう終わったの?」
「⋯⋯ああ」
「急にミルクティーが飲みたくなってそこのコンビニまで行ってきたの。ジンも、上がって珈琲でも飲んでく?」
ジンは無言のまま、車からキーを抜くと彼女の後を着いて行った。
***
ジンを部屋へ招き入れると名前は不自然な程に明るく振舞っていた。まるで何事もなかったかのように接する。それは彼女なりの精一杯の配慮であろうことは容易に想像がついた。本来ならそういう態度を取れる人間に対して好感を抱く筈なのに、今は苛立ちが募るばかり。
彼の心情など知り得る筈もない名前は世間話をしながら淹れたばかりの珈琲をテーブルに置いた。その時、此処へ来てずっと沈黙を守っていたジンが唐突に彼女の右腕を掴む。すると名前は反射的に身を強張らせた。ジンの鋭い視線に射抜かれ、一瞬にして笑顔が消える。
「随分と巧く誑し込んだじゃねーか」
「⋯え?」
「大財閥のお坊ちゃんと優雅にティータイムとは、お前も良いご身分になったモンだ⋯」
「ち、ちが⋯!あれは、」
「まぁ精々弄ばれねェように気を付けるんだな。金持ちに群がる女なんざ、掃いて捨てる程いる」
「ちょっと待って」
「安心しろ。寶井程の大財閥なら組織も簡単には手を出せ「だからっ 少しは私の話も聞いてよ!」
これまで一度も目にした事のない名前の剣幕に気圧され、ジンは口を噤む。
「彼とお茶をしたのは本当だよ。折角誘ってくれたし、一度くらい会ってみてもいいんじゃないかって助言してくれた人もいたから」
「⋯⋯」
「楽しかったよ?私の知らない世界の事とか色んな話を聞かせて貰えて。だけど⋯」
「だが、何だ」
「ジンとは関わらない方がいいって⋯。多分彼はジンの事も、何か知ってるんじゃないかな⋯」
「当然だろう。大財閥ともなればそれなりに闇との繋がりもある。それが表面化していないだけだ」
「それでも関係ないって私は言ったよ。ジンがどんな世界で生きてるのかなんて詳しい事は何にも分かんないけど、私にとってジンはジンだから」
「⋯何が云いたい」
「つまりね、私はジンが好きだってこと」
「!」
「気が付いたらすごく好きになってた。もう、自分でもどうしようもないくらいに」
「⋯⋯」
「あの夜の事があってからずっと考えてた。あんな酷い事されたのに⋯それでも私はジンが好き」
「――馬鹿が」
「うん、馬鹿だよ。馬鹿だからちゃんと答えを貰わないと私分かんない」
名前は真っ直ぐな瞳でジンを見据え、ずっと聞きたかった事を問うた。私の事をどう思っているのか、何故あの夜あんな事をしたのか。ほんの僅かな希望を託して。だがそんな彼女の想いも空しく、ジンが口にした答えは悲しいものだった。
「あの時言った筈だ⋯。男を甘く見ているとどういう目に合うか、と」
「⋯⋯」
「更に云えば、お前が抱いている感情は只の錯覚だ」
両親に先立たれ独りになった後、偶々傍に居た人間がジンだった。云わば孤独を埋める依存心から来るものであって決して特別な感情などでは無い、と。ジンの言葉を聞いて名前は大きく頭を振る。そんなんじゃない、と必死に訴えるがジンは全く聞く耳を持たない。
「大体俺の様な人間に好意を抱いたとして、お前に何のメリットがある?」
「っ、」
「ククッ⋯そもそもお前みたいな子供(ガキ)相手に俺が興味を持つとでも?」
違う。
そうじゃない。
本心とは裏腹に、名前を傷つけるだけの言葉がスラスラと口を衝いて出て行く。仮にここで彼女に本心を伝えたとして⋯その後どうなる?この先、彼女を危険に曝すだけではない。例え双方の心が通じていようとも当り前の幸せを与えてやることすら出来ない。だとすれば、ベルモットが言った通り名前を自由にしてやる事が最善ではないか。
様々な葛藤を抱きつつもそれはおくびにも出さず、冷めた眼差しと表情を浮かべ続けるジン。するとずっと堪えていた涙がとうとう名前の瞳から零れ落ちた。ジンが放つ言葉の一つ一つが残酷に心を抉り、突き刺さる。
「それじゃあ⋯ジンにとって今でも私はただの⋯監視対象者、なの?」
「そうだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「⋯っ、」
「だがそれもそろそろ潮時、だな⋯。“苗字名前”が組織にとって何の脅威にもならないことは充分検証できた」
「! ぃや⋯ッ」
「そういう訳だ、お前の監視も今夜で最後にしてやる」
「やだ⋯最後、なんて言わないで⋯」
「組織について永久に口を噤んでいる限り、お前は自由だ。いいか?それだけは絶対に忘れるな」
「ジン⋯!」
「話はこれで全て終いだ。⋯じゃあな、」
椅子から立ち上がりながら最後の別れを彼女の顔を見ずに言い放つとジンは即座に背を向けた。その背中に向かって、名前は何度も何度も彼の名を叫び続ける。今追いかけなければもう二度とジンには逢えない、と分かっていた。けれどその場に凍りついてしまったかのように足が竦んで動けない。そして響いた、玄関の戸が虚しく閉じる音。それはまるで彼と彼女の相容れない世界を象徴するかのように⋯。
それが、唯一のリアルだった。
next
2015/10/24
加除修正 2023/4/6