ブラックダイヤは縷々語る


 吸血鬼の起源は、古代ローマ、ギリシャ、エジプトにまでさかのぼる。古代の埋葬方法には、死者を吸血鬼にしないため、吸血鬼を増やさないために工夫されたものも少なくない。吸血鬼がどんなものなのかは時代とともに変遷しているとはいえ、恐れられる人外という点は変わりないだろう。
 吸血鬼に関する逸話は多い。有名処だと――人の血を飲むという点は当然として――日光に弱いだとかにんにくに弱いだとか木の杭で心臓を貫くと死ぬだとか。実話も多い。鮮血を飲み日光で皮膚がただれるポルフィリン症も、吸血鬼病として知られている。ヴラド三世もドラキュラとして有名だが、そちらはどちらかというと悪魔なので厳密には吸血鬼ではない。
 そのあたりは、魔術に関わりのない者も知っていて不思議ではない。架空の存在としての吸血鬼。
 しかし紅子にとっては違う。魔術師として、人間ではないものの存在も知っている。吸血鬼の実在も疑ったことはない。ただ、疑ったことが無いからといって、目の前に、しかも超級の吸血鬼が現れるだなんて思っていない。
 魔力の塊かと見まごうほどの力を持った存在だ。彼女はきっと何でもできる。魔術師を一掃することも、人間を吸血鬼に変えてしまうことも、吸血鬼の軍勢を作ることも、きっと出来るだろう。
 紅子はその体を預かったのだ。重すぎる役目は誇らしいよりも先に不安になる。紅子が少し何かを間違えば、科学の通用しない最強が世に放たれてしまう。魅入られた人間たちによる新興宗教も興りかねない。容易に国がひっくり返る。幸いなのは、"パパ"と呼ぶ身内が弱点になりうることだろうか。
 そんな亡国の吸血鬼は、自身が入っていたトランクケースを椅子にして足を組んでいる。小学校高学年程度の体躯にエネルギーがこれでもかと詰まっている。身にまとっているのはセーラー襟のシンプルなワンピースだ。パパが仕事帰りに買ってきてくれたの、と嬉しそうに教えてくれた。眠る前のことだ。
 
「ひと月ね」

 錦は座ったまま伸びをしながら言う。
 そう、ひと月。錦はひと月、トランクケースで眠っていた。トランクケースの魔術錠を開けて起こしたのは紛れもなく紅子自身だ。紅子は、錦に言われていたことを実行したのである。寝ているところを起こせばいい、棺を開けたものを害せない、と錦は紅子に教えていた。

「眠りにしては短いけれど……よくひと月起こさなかったわね、と言うべきかしら」
「生きた心地がしなかったわよ」
「一日で起こせば良かったのに」

 その通りなのだが、警戒する紅子の気持ちも分かってほしい。錦のことは信用しているし、意図して紅子を害すことはないだろうが、本人にそんなつもりはなくても事故というものは起こりうる。眠っている吸血鬼を起こすのだ。目覚めが平穏なものだと一体誰が保証するのか。紅子はこのひと月、トランクケースを警戒しながら身を守るための呪具を揃えていた。

「安心して、紅子さん。これであなたはわたくしの主よ。わたくしはあなたに傷一つ付けられないわ。つけるつもりも、ないけれどね」
「不思議な仕組みね」
「刷り込みみたいでしょう? なぜか、こういうものなのよ」
「……あなたにも分からないことがあるのね」

 純粋に驚いて言う。吸血鬼と全知全能がイコールで結ばれないと分かってはいても。

「吸血鬼は突然変異で生まれたものなの。研究も不十分……特に、わたくしたちを研究なんて、失礼なことを他の吸血鬼は出来ないわ」
「錦さんは、吸血鬼のなにかを区別しているのね」
「階級だと思って。ピラミッドの境目には、絶対的な線引きがあるわ。同族でも、同じ土俵ではないのよ」
「錦さんは……いえ、なんでもないわ」
「気になる?」
「……ええ。けれど、ルーツを問うのは無礼だわ。少なくとも、わたしはそう思っているの。血統を重んじるからこそ」
「なるほど」

 錦はトランクケースに座ったままで微笑んでいる。起きてすぐに寝なおすのかと思いきや、トランクの中に戻る様子がない。もう一つの肉体で動けるのだから、この世界を楽しみたいという心境でもないだろう。単純に、紅子との会話を楽しんでいるのかもしれない。柔らかい微笑みは、どうぞ、と言わんばかりである。宿代なのかもしれない。
 紅子は、このひと月一番頭を悩ませていた問題を口にした。

「寿命を……あの、気を悪くしないでほしいのだけど」
「平気よ」
「あなたを預かることは了承したけれど、きっとわたしよりも永く生きるでしょう。わたしが死んだらどうするの? あなたの命は……あなたは、いつ朽ちるの?」
「永久に。たとえ肉体が千々になっても」

 錦は胸に手を当てる。

「吸血鬼を殺すための武器がここにはないから、殺されてもあげられないの」
「わたしは、番人の跡継ぎを探せばいいのかしら?」
「不要よ。わたくしも、こうなってしまったから考えていたの。あなたの命が尽きる前には、対処するわ。この体を殺す方法が一つだけ」
「……どうやって?」
「すす……小さい体のほうを"人間にするの"。そうすれば、この肉体は滅び、あちらは人間になり、懸念事項はすべて解決」

 ぱ、と両手を広げて笑い、次いで腕を組んで思案顔だ。「問題はタイミングなの」と呟いている。
 紅子は流されかけたが、手をこめかみに当てて頭をふった。
 人間が吸血鬼になる伝説はよく聞くが、その逆も出来るのか。

「……吸血鬼って、人間になれるの?」
「なれるわ。純血の吸血鬼の命を引き換えにね。問題は、術の対象になった者の記憶がすべて消えてしまうことなのだけれど……わたくしの場合、術をかけるのも、かけられるのもわたくしだから、記憶は保てるかもしれないわ」
「じゃあ、錦さん、それは……」

 それは、ひどくさびしい決断なのではないのか。今こうして紅子と話している錦はいなくなってしまうということだ。記憶を失うということは、それまでの過去を失うということで、つまりほとんど死ぬことと同義だろう。おまけに、人間になるという。人外としてのステータスを捨てるというのだ。
 錦はなんでもないように語っているが、これは流していい話ではないはずだ――紅子は口を開きかけ、閉じた。あるいはこの感覚の違いこそが、人間とそうでないものの違いなのかもしれない。

「ああ、そうだ、紅子さん」

 言い淀んでいると、錦がすいと近寄ってきた。小学一年生の姿とは別人だが、雰囲気や表情の浮かべ方がそっくりだ。

「次に起こすときは、輸血パックを用意しておいてくださる?」

 にこりと笑った口元には、小さな牙がのぞいていた。

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