パパとお母さん

 閑静な住宅街に建つ一軒家の表札は"橙茉"だ。家人に対する明確な目的意識がないとたどり着けないその家は、ダイレクトメールや宗教勧誘とは無縁で、ただ住居を突き止めたいだけの職務に真っ当に取り組む人間をもはじく。それほど強固な人除けがされている。純粋な子どもであれば潜り抜けることもあるというのは、錦自身も最近知って驚いたものだ。
 空き家が城となって約三年。リビングにて、一家の主/稼ぎ頭と一家の主/ヒエラルキートップが向かい合っていた。

「問題です。今すべき、とっても大事なことはなんでしょうか」
「カニカマの補充?」
「俺たちの"設定"の確認です」

 景光がA4コピー用紙とボールペンを取り出す。
 先ほどの昼食でカニカマを使い切ったことを知っている錦は、やや不服ながらも景光の行動を見守った。
 景光は"錦""光/明美""凌/俺"の三人の名前を書き、"錦"と"光/明美"を丸で囲う。

「二人は、組織に囚われていた。錦のご両親はきっと組織の構成員で、何らかの事故で他界している。組織への潜入でそれを知った俺は、組織を抜けるときに錦を引っ張って抜けることに成功した。その後、明美が抜けるときも協力をした。……錦の前で組織組織って言うの、なんか嫌だな。もっと違う呼び方ないか?」
「じゃあ、ドリンクバー」

 景光が、さらに自身の名前も含めて丸で囲う。囲った外に"橙茉家"と書き足した。

「これが、事情を知っている人向けの我が家。俺の職場……警察が把握している内容だ。まさか錦が、ドリンクバーから俺達を保護したなんて言えないからなぁ」
「ドリンクバーから脱出した一家、ということね」
「ファミレスの話みたいになるけどな。そういうことだな。そんで、学校とか本当に表向きの設定はまた別になる」
「まず、凌と景光が別人の扱いだものね」
「そこなんだよ」

 景光はコピー用紙を裏返すと、五つの名前を書いた。錦、凌、光、景光、明美、である。錦、凌、光の三人を丸で囲い、凌と景光の間に矢印を伸ばす。

「元々は、母親が死んで親戚から持て余されていた錦を凌が引き取り、そこに凌の恋人である光が加わった三人家族だ。まず、光が抜けるだろ。凌と光は結婚してないから、そこはまあ、あんまり問題にならない」
「戸籍はなくなるのよね。折角つくったのだけれど」
「光のも、凌のもな。で、錦は次に凌とも離れて後見人が俺になる。両方俺なんだけど。ここの理由付けが難しくてさ」
「光はただ凌と別れた、ということになるけれど、凌はどうするの?」
「急逝したことにします。子煩悩だった男が、小学一年生の娘を残して失踪する……これは事件性を感じるし、不信感がウナギ上りでちょっとまずい。なので、さくっと死んでもらうことになった。で、なんで諸伏景光が引き取ったかってところなんだけど、俺と凌は腹違いの兄弟ということにする。錦は元々、俺……景光のほうとも面識があったから、抵抗なく懐いている」
「わたくしは、突然父親を亡くしたけれど、以前から交流のあった父親の兄弟に引き取られる、という設定なのね。でも、凌の戸籍は消えちゃうんでしょう? 血縁関係はどうするの?」
「対面した人間の戸籍、一々調べないだろ? もし万が一があっても、そこは職場が助けてくれる。警察関係者じゃない人……ドリンクバー関係じゃない人には、以上の設定を通す。錦の設定が重たすぎるんだが、そこはなんとか芝居するなり誤魔化すなりしてくれ」
「ドリンクバー関係者的には、わたくしは名前を変えたパパと一緒にいる、ということなのよね」
「そう。ただ、ドリンクバー関係じゃないけど警察官で、表向きの設定が通用しない男がいる」
「だぁれ?」
「俺の実の兄貴。諸伏高明っつーんだけどさ」

 錦は、新たに書き足された"高明"という名前を見る。実の両親が亡くなっていることと、兄がいることはふんわり聞いていた。景光の兄であるその人が、異母兄の話など信じるわけがない。ドリンクバー関係者外向けの説明が通用しないのは、中々骨が折れるのはないだろうか。

「ドリンクバーの説明をするの?」
「多分、色々察してくれる」
「察してくれるの」
「うん。兄貴は聡明だからな。俺が一回音信不通になった時点で、潜入のこととかそれに伴う危険とか、分かってくれているはずだ。子連れで現れたら、音信不通期間に何かあったんだと察して、黙っててくれると思う」
「ご挨拶しなきゃいけないわね」
「追々な」
「景光と似てる?」
「うーん、俺も長いこと会ってないけど……俺よりクールで賢いよ」

 景光が、話しながら情報の足されていったコピー用紙を小さく折りたたむ。ただのメモだが、内容の機密性は高い。最後はフライパンに置いてから、ライターで火をつけて処分していた。
 真似しない様に、と言われるので、発火する能力はないわ、と返答する。そっとライターを隠されたので、ライターさえあればなんでもかんでも燃やすと思われているのだろうか。好奇心旺盛な錦といえど、そんな危険なマネはしない。

「あとは、個人的に気になってることなんだけどさ。錦、外で俺のことなんて呼ぶの?」
「パパ……本当に父親が代わった子どもなら、落ち着くのが早過ぎるのかもしれないわね。景光、と呼んで問題はない?」
「いいよ、潜入している身でもないから。前から名前は呼ばれてたし、俺は違和感ゼロでありがたい。しっかしほんとに重たい設定になったな……強く生きろ……」
「パパこそ、強く生きるのよ」

 元の職場と関わるようになってから、景光の疲労は目に見えて濃くなっている。失態の埋め合わせに命を要求されるような非情な職場ではないとはいえ、過酷な仕事には変わりない。まだ肩慣らし程度だと景光は言うけれど、疲れているのはよく分かる。それ以上にやりがいがあるというので、止めはしないけれど。
 
「だーいじょーぶ。錦からもらった、超万能変装道具眼鏡も持ち歩いてるから」
「ピンチには駆けつけるわ」
「そうならないようにしたい」

 ぺしぺしと乱暴に頭を撫でると、無言でされるがままになっている。今日こうして設定確認をしたのも、職場でのごたごたが一段落したからだろう。きっとお疲れなのである。
 また、食事の準備をして帰宅を待つのもいいかもしれない。

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