凪くんと付き合うまで1
登校して自席につく。まだSHRまでは時間があり、急がずとも良さそうだ。
教科書やノートを整理しながら、数学の問題集を家に忘れてしまったことに気が付いた。普段教科書類は学校に置きがちなので忘れ物のやりようがないが、問題集は宿題のために持って帰っていた。ノートを持ってきているだけ幸いである。
忘れ物問題は、別のクラスの友達に借りるのが最善手だ。わたしは隣のクラスに移動して後ろのドアから教室をのぞきこみ、一番親しい友達を探して手を振った。
「璃乃ー!」
教室の真ん中の列の真ん中で、クラスメイトと話していた女子生徒がこちらを見る。神岡璃乃は一年の時に同じクラスで、何がきっかけだったかもはや覚えていないが、おそらく同じ学年で一番仲の良い女子生徒である。
璃乃はへらへらとした笑顔で歩み寄ってきた。
「世治じゃん、どしたの」
「数学の問題集持ってる?」
「あるよ。何時間目?」
「一時間目。璃乃も使う?」
「午後だから大丈夫。持ってくるからしばし待たれよ」
「恩に着る」
ふらっと自席に戻る璃乃を見送りながら、視線を別の席にずらす。璃乃の席がある列から一つ廊下側の列、その一番後ろ。つまり、教室の後ろのドアにいるわたしとかなり近い位置で、白髪の男子生徒が机に伏せっている。寝ているのかただ伏せているだけなのか分からないが、動く様子はない。
白い頭を見つめて数秒、戻ってきた璃乃に笑われる。
「見すぎー」
「うっいやっ」
「はいご所望の品です」
「かたじけない……」
璃乃はわたしが見ていた方向を見て、にっこり笑みを深める。
「話しかけてみれば?」
「誰? ってなるでしょ……」
「だからこそさあ、あなたのことを知りたいです! ってさ」
「いやいやいや」
もう一度ちらりと視線を向けると、緩慢な動作で起き上がっていた。見ているのがバレるわけないと分かっていても、思わず視線を逸らしてしまう。
彼は凪誠士郎。面倒くさがりでゲーム好き、面倒くさそうにサッカー部に所属し、そこでは天才として活躍していると聞く。去年の体育祭でもやる気なさげなのんびり具合だったので、いまいちスポーツマンな凪くんは想像できない。ぽやぽや小動物系の性格に似合わない長身。よく別の男子生徒に世話を焼かれている。
わたしは去年も今年もクラスが被っておらず、おそらく彼には名前すら認識されていないだろう。わたしとて、彼のことはろくに知らないが、その、まあ、あの、恋に落ちたものだから仕方がない。
璃乃が満面の笑みで声をひそめる。
「呼んでこようか」
「やめてやめて」
「えー」
「御影くん呼んでくるよ」
「あたしを殺す気?」
「問題集ありがと」
横目で凪くんを見てから、璃乃に手を振って自教室に戻る。
凪くんはその長身から、入学当初からなんとなく生徒の注目を集めていた。ただ、目立った行動が無かったことと、同学年の御影くんという大企業御曹司の万能っぷりにかき消され、比較的影は薄かったと思う。しかし、その御影くんといつの間にか仲良くなっておりサッカー部に引っ張られ、再び目を引く存在になった。
わたしが凪くんをちゃんと認識したのは、学校の売店だった。挨拶すらせず、遭遇しただけ。それだけなのだが、もっと話してみたいと思ったのがどんどん膨れ上がって恋になった。以来、凪くんの気配を察知するたびに横目で確認する日々を送っている。
「話してみたらいいのに」
問題集を璃乃に返しに行くと、開口一番そう言われた。
話してみたいで声をかけられるわけがない。何か接点があるわけでもなし。せめて同じクラスとか、わたしがサッカー少女だとか、同じゲームをプレイしているだとか話題があれば良いが、何のゲームをしているのか分からない。
わたしはまた横目で凪くんを見た。凪くんはフードを被ってゲームをしていた。
「じゃあさ、璃乃は『ちょっと話してみたくて』って御影くんにアタック出来るの?」
「無理でしょ。どんだけ人気があると思ってんの」
「だったらわたしだって無理だよ。面白がってるでしょ」
「あたしは世治のためを思ってさぁ。御影くんは接点ワンチャンだけど、あのものぐさ王子はこっちから行かないと無理じゃん」
「それは、でも、別にわたしは別にそんなんじゃないし」
「えー?」
そんなんじゃないこともないが。そりゃ、話せるなら話したいし、かの、か、彼女になれるもんならなりたいが。
にやにやする璃乃の肩を小突いて、教室を後にする。
璃乃の言うことは尤(もっと)もだ。凪くんは自分から動くタイプではない。食事すら面倒だとゼリー飲料を好んでいることも聞いている。部活にも御影くんが引っ張って行っている。そんな凪くんと関わるのは、クラスが別のわたしには不可能に近い。
わたしだって、なれるものなら凪くんの隣の席になりたかった。しかしなれない。クラスが違うのだから。
わたしは英語の授業を話半分に聞きながら、片想いを拗らせる。ノートに小さく薄く<凪誠士郎>と書いてすぐに消した。名前すらかっこいい。
そう、隣の席にはなれない。でも、誰かが凪くんの隣に座って、誰かが凪くんと一緒に日直の仕事をして、誰かも凪くんを好きだろう。凪くんも、誰かを好きだったりするかもしれない。わたしにはとても、凪くんを振り向かせられる気がしない。それでも、凪くんに彼女がいるという噂を聞いたらショックを受ける自信がある。何も行動していないのに、わたしは勝手に振られるのだ。
関われるものなら関わりたい。話しかける度胸もない。しかし、やらねば何も叶わない。
『宝くじはさ、まず買わないと当たんないわけ』
父親の言葉が頭をよぎる。当たる当たらない以前に、買わないと話にならない。宝くじなんてどうせ当たらないのに、と言ったわたしへの返答だった。
やってみないと分からない、ではない。まず土俵に乗らないと、やることすら出来ない。
わたしはシャーペンのグリップ部分を指先でこねながら、高揚を自覚して顔を上げた。
あのときああしておけばよかったと、後悔するのだけは嫌だった。
昼休みに手早くお弁当を食べて、また隣のクラスを覗いた。にぎやかな教室に凪くんの姿はない。わたしのクラスにも御影くんの姿は無かったので、二人で食堂にでも行ったのだろうか。食堂に行ってみようかと教室から離れると、背中に声がかけられた。
「誰か探してるの?」
振り向くと、璃乃が教室のドアから顔を出していた。わたしに気付いて、わざわざ席を立ったらしい。右手には箸を握っている。
わたしはうるさい心臓を自覚しながら、精一杯かっこよく笑った。
「凪くん探してくる!」
「えっ⁉」
きょとんとした璃乃にウインクをして、食堂を目指して早足になる。
璃乃に宣言した以上、もう引き返せない。かっこ悪いことはしたくない。走り出したら止まりたくない。この勢いのまま、凪くんに会いたい。
食堂にいたら流石に人目が、と徐々に冷静さを取り戻したところで、廊下を曲がると凪くんがいた。「オッ」変な声が出たが、昼休みの喧騒にかき消されたと思いたい。
凪くんは御影くんと並んで、こちらへ歩いてきていた。眠たそうで、気だるそうに歩いている。
わたしは凪くんに釘付けだったが、わたしに気付いたのは御影くんが先だった。自分たちの進路を妨げている女子生徒がいたら、そりゃ声もかけたくなるだろうとは思うので、御影くんが特別気を利かせてくれたわけではない。進路妨害している上に自分をガン見している女子生徒すら眼中にない凪くんが呑気すぎるのだ。
「空山さん?」
「御影くん、ちょっとだけ凪くんを借りてもいい?」
「凪を?」
呼ばれてるけど、と御影くんが凪くんの視線をわたしに誘導してくれる。
眠たげな目がわたしに向けられ、それだけで単純な恋心は舞い上がりそうだった。心臓が、ソロパートにテンションが上がりすぎたドラマーの演奏よりもうるさい。口から出そうなそれをなんとか胸に留める。
凪くんはわたしを見たものの、表情ひとつ変えなかった。
「誰?」
「空山です」
「俺に用事? めんどくさい。玲王、代わりに聞いておいて」
「それは駄目なやつだと思うけど……」
御影くんは何かを察してくれたのか、代理を拒否する。わたしは今とんでもなく赤面している自覚があるので、やはり凪くんが呑気すぎる。
しかし、これで引き下がるわたしではなかった。あの、超絶面倒くさがりな凪くんが、知りもしない女子生徒と、一対一になる手間を許容してくれるとは思っていなかった。覚悟していた状況になっただけだ。
わたしは、生徒の行き交う食堂近くの廊下で一度深呼吸をした。興味なさそうな長身を見上げて、両手を握る。
「凪くん」
「うん」
返事をしてわたしを見てくれるだけ幸いだ。それだけで嬉しいが、それだけでは、まだ土俵に立っていない。
「わたし、空山世治。御影くんと同じクラス。凪くんって好きな人とか彼女いる?」
「そういうのはいないけど……」
凪くんが少し驚いたような顔をした。わたしの言わんとすることに気づいたらしい。ここまで言ったのだから察せられてしかるべきだ。
付き合える付き合えない以前に、話しかけないと友達にすらなれない。
「わたし、凪くんのこと好きで、でも話したことないし、凪くんはわたしのこと知らないと思うから、あの、これから話しかけるから!」
「え、うん……?」
「とりあえず名前覚えてほしい。あと色々凪くんのこと知りたい。毎朝挨拶しに行くから、邪険にしてないでくれると嬉しい」
「うん……?」
「あ、でも本当に鬱陶しかったら優しく教えてね。じゃ! お時間いただいてありがとう! 御影くんもありがとね」
「俺は何もしてないけど」
驚きから困惑に変わっていく凪くんを目に焼き付けて、御影くんにも礼を言って踵(きびす)を返す。
言った、言えた、ちゃんと伝えた。自分の力で土俵に上がった。とりあえず、凪くんに認識されるところはクリアした。ついでに告白もしたので、突如挨拶しに行っても変な誤解を与えなくていい。悩んでいる間にまたいじいじしてしまうくらいなら、最初から全力で当たりに行く。
「玲王、俺告白された?」「されたな」「どうしよ」「俺に聞かれても」そんなふたりの会話を聞きながら、わたしは何もないところで転んだ。
五時間目後の休み時間に、御影くんがわたしの席へやってきた。
御影くんはその家柄ルックス成績等等から注目度が嫌でも高い男子生徒だ。同じクラスとはいえ普段ほぼ関わりがないわたしに話しかけているというのは、なんとなくクラスメイトからの視線を感じる展開なのだった。食堂近くの廊下で公開告白をこなしてきた後なので痛くも痒くもないが。
他のクラスメイトからの視線はともかく、御影くんがわたしの席の横に立ったのには背筋が伸びた。御影くんは凪くんの保護者のようなイメージが定着しているのだ、わたしの目的が凪くんとはいえ、御影くんの存在感はどうしたって大きい。
御影くんは座っているわたしを見下ろして、なんとも形容し難い複雑な顔をしていた。
「昼のアレ、マジ?」
何かしらの苦言を呈されるかと身構えていたので、わたしは肩の力を抜いた。
「マジだよ」
「なんか意外すぎて……空山さんってあんなに男前な告白するんだな」
「ありがとう。既にあんまり記憶がない」
「嘘だろ」
「部活の邪魔はしないから」
「ああ……うん。流石に恋路にまで口出すような無粋なことはしねぇよ」
御影くんは「凪かあ……」と思案げにした。
「凪はかっこいいからモテるのは分かってるんだけど、いざ告白に遭遇すると……告白を振るのは予想できるけどさ、宣戦布告はどうすんのかなって」
「引いてた?」
「あんなにびっくりしてるの初めて見た」
「アタクシ、凪くん、落とします」
拳を作って言うと、御影くんが笑った。
「空山さんって面白いキャラだった?」
「清き一票、よろしくお願い致します」
「凪誠士郎彼女総選挙でもやってんの?」
「このくらいふざけないと照れてしぬ」
「心配になるくらい赤面してたし、派手にコケてたな」
「見てたの⁉」
「もうちょっと転んでてくれたら、俺も凪も声をかけたけど」
「惜しいことをした……」
御影くんがまた笑う。御影くんは我が学年イチのモテ男なので、あちこちで流れ弾に当たった女子生徒の声がした。
「応援ってのも変だけど、凪を落とすの頑張って。空山さん面白いから」
「うん」
御影くんは爽やかに言って自席に戻った。凪くんの誕生日や食べ物の好みを聞こうかと一瞬思ったが、それこそ凪くんとの話題になると気付いてやめた。
さて、明日から、凪くん口説き落としチャレンジの開始である。