おたまじゃくし


 白と黒の鍵盤を前に、錦は両腕を横に伸ばした。床と水平の腕は、どこにも触れていない。これが普通の幼児であれば「突然、飛行機の真似でもしたくなったのかな?」と微笑ましくなるが、錦にそれは通用しない。
 手を横に伸ばして、制止。その位置で鍵盤を押すと、ポロンポロン、と不格好な音が鳴る。電子ピアノ独特の、わずかにこもったような音だった。
 錦は足をぷらぷら揺らして、短い指でいくつか鍵盤を押す。そしてまた飛行機の真似事をした。
 大型スーパーに入っている楽器屋だ、人目はある。不思議な行動をする錦を見守る客がいる中、ようやく保護者が登場した。

「なーにやってんだ」
「遅かったわね」
「銀行が結構混んでてな。んで?」
「見て、凌」
「見てるけど」
「全然届かないわ」
「錦はこっちだろ」

 がら空きの脇に手を入れられ、別のピアノの前に移動した。
 子供用の小さなピアノである。鍵盤の幅も小さく、数も少ない。足が床につくが、ペダルはない。
 鍵盤の端から端まで手は届くが、当然、奏でられる音域は狭い。適当に鍵盤を押す錦のそばに、凌がしゃがみこんだ。

「……ピアノ弾けるのか?」
「ええ、もちろん」
 
 錦は覚えている旋律を数小節だけ弾いて見せる。これが子供用の陳腐なピアノではなく、演奏者がもう少し成長した姿であれば、様になっただろう。

「予想以上だった……すげえな」
「ありがとう。音楽は、いいものよね」
「まーな。俺はベースくらいしかまともにやってないけど。ほら、あそこに並んでる」
「ああ、チェロのなり損ないのような見た目の」
「ぼろくそだなあ。弦楽器は嫌いなのか?」
「ヴィオラを弾けるわよ」
「そりゃすごい」
「あとマリンバ」
「打楽器もマスターしてんのか」

 椅子から降りて、エレキベースが並ぶコーナーへ移動する。凌に弾いてもらおうとしたが、何故か苦い顔をされた。曰く、冷やかしはあまりよくないのだと。錦は子供だから良いのだ、とも。
 錦は黒いボディのエレキベースを前に、こてりと首を傾けた。

「わたくしが、聞きたいと言っているのに?」
「あー錦のそういうの、久々に聞いた気がする。しかもその黒、この中で一番高いヤツ」
「わたくしの目利きも、衰えていないわね」

 錦は見たことのない楽器に興味津々だった。凌がそれとなく話題を逸らしたことに気付いても、引くつもりなど皆無。店員の視線が自分達に向いたことを確認して、ぱっと猫を被った。

「パパが弾いている所みーたーいー」
「えっ」
「これ、弾けるんでしょ?ねえ、弾いてみてよパパぁ」
「……こら、わがまま言うな」
「パパに弾いてほしいの!」

 不満ですとばかりに頬を膨らませた錦に、店員が笑いながら声をかけた。
 凌が呟いた「アカデミー賞」という言葉はかすかなものだったが、錦の耳はしっかり拾っている。

「パパに弾いてもらおっか?」
「うん!」
「すみません、本当にすみません」

 店員は人の良さそうな笑みを浮かべて、安いエレキベースをセッティングしてくれる。錦は猫を脱ぎ捨てて、チェロよりもよほど薄っぺらいボディを眺めた。
 凌が弦を弾くと、足元から震えるような感じがする。ベースアンプとやらに、店員が繋いでくれたらしい。錦は凌の抱えるベースとアンプとに視線を往復させながら、確かめるような凌の音を聞いていた。
 
「……ヴィオラとは共演できるかしら」
「錦がもうちょっと大きくなったらな」
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