天使のママになる


 錦がシャワーから戻ると、リビングのフローリングに寝かせていた彼女が目を覚ましたところだった。
 彼女は飛び起きたものの、具合の悪さからフローリングに逆戻りする。彼女は錦に気付いて口を開くが、錦は一方的に凌の服を押し付けた。

「てんし……?どうして、」
「血の匂いがひどいのよ。はやく着替えなさい」
「血の、あれ、傷が……?」
「シャワーは出来ないと思って、軽く拭かせてもらったわ」
「っ……そうよ、私撃たれて、」
「はやく着替えなさい、と言っているの。そのくらいなら動けるでしょう?」

 彼女は混乱したままだが、錦に押される形で着替え始める。身長があり体格もいい凌の服は大きいようで、袖やすそをたくしあげていた。
 彼女の服はビニール袋に入れ、きつく縛る。ただの泥ではなく血まみれだ、このままゴミ箱行きである。
 錦が椅子に座ると、彼女も躊躇いがちに腰掛ける。錦は頬杖をついて、一度深く息を吐いた。その顔色は、彼女に負けないくらい青い。

「体調は?」
「え、ええと……少しくらくらするけど、大丈夫。ねえ、ここはどこなの?私はどうして、助かってるの?」
「わたくしは橙茉錦。あなた、お名前は?」
「…………宮野明美よ。でも、さっき死んでしまったわ」

 彼女はそう言って自嘲する。
 錦は頬杖をやめて、背もたれに身を預けた。

「再婚するには早いから……そうね、諸星光(ひかり)はどうかしら」
「っ諸星……?」
「ええ、諸星光。いかが?」

 目を見開く彼女に、錦は満足げに笑った。彼女の強い想いは、いくらか錦にも伝わっている。
 彼女は涙を浮かべて、脱力するように笑う。

「とってもとっても素敵な名前ね。ありがとう、えっと、錦ちゃん」
「構わないわ、ママ」

 その時、ガチャン、と玄関の鍵が開く音がした。
 光が表情を凍らせる。状況を把握しきっていないのだから当然だ。常識的に考えて、光の立場は完全に不法侵入者である。
 身を隠そうとする光に、錦はそのままでいるように告げる。錦も隠れることなく、夜更かしを誤魔化す気もなく、リビングから動かない。
 錦は凌に、凌が家を出るときには消灯して私室に引っ込むよう言われている。つまり、今部屋の電気がついているだけで、錦がなにか行動しているのはバレているのだ。

「錦ー、明日も学校……だろ……?」

 呆れ顔でリビングに入ってきた凌は、中途半端な体勢で硬直した。テーブルにつく錦と光を交互に見る。
 錦は「おかえりなさい」と声をかけながら椅子をおりた。緊張で硬直する光と、動揺で硬直する凌の間に立つ。

「凌、あなたの恋人よ」
「っ……どっから連れてきたんだ」
「拾ったのよ」
「犬猫じゃねぇんだから……元の場所に戻してきなさい」
「いくらわたくしでも、倒れてしまうわね」
「あ、ほんとだ、錦すげぇ顔色悪い。どうした?貧血か?」
「一応、補充はしたのだけれど、良くはないわ」

 凌は、焦りから呆れ、心配とせわしない。眼鏡のフレームをしきりに触りながら、横目で光をうかがっている。
 錦は両者の困惑をよそに、私室のドアを開く。

「だから、おやすみなさい」

 引き留める声などお構い無しに、容赦なくドアを閉めた。
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