明日から頑張る


 某日某所で男性の射殺体が発見された。身元不明、犯人不明、銃は未だ発見されていない。
 見落としてしまいそうなほどの小さな記事を、凌は長い間見つめていた。
 何日も前の記事だ。新聞は契約していないので一部だけはコンビニで買い、あとは図書館だったりバイト先のホテルのロビーで目を通している。
 被害者の男は、元々、警視庁公安部の所属だった。潜入捜査で国際指名手配組織に潜り込み、コードネームを得るに至っていた。
 その組織は強大で、凶悪で、あらゆる機関からスパイが送り込まれて尚その全貌は明らかになっていない。
 男は、特出した技術があるわけではなかったが、全てをそつなくこなし、着実に組織に食い込んでいった。
 そこへ降りかかった、NOCーーNonOfficialCover疑惑。スパイの嫌疑がかかったのだ。あまりにもあざやかで唐突な出来事に、男は任務続行の不可能を悟った。
 そしてなんとか身を隠そうとも思ったが上手くいかず、自殺の道を選んだのである。疑わしきは罰する、という方針の幹部に始末されるのだけは御免だった。
 死んだ男の身元は、公安が抑えているのだろう。事件そのものはメディアに取り上げられてしまったが、騒がれていないのがその証拠だ。
 
「俺、死んでるんだよな……」

 バーボンと炭酸水の入ったグラスを傾けて、しみじみと呟く。記事になっている男は、凌自身のことだった。
 あの時――錦と出会った時。錦が具体的にどう"誤魔化した"のか聞けていなかった。新しい生活を整えることに精一杯であったことはもちろんだが、なんとなく、聞いてはいけないような気もしていた。手品のタネを見るような、演劇の舞台袖を見るような。
 だが、本当に己が気にしているのはあの時のことではない。
 ーー死んだ処理は上手くいったのか。生存が漏れてはいないか。残された二人は。あの二人も潜入捜査官だ、危ない立場にある。自分がいなくなったことで決別してはいないか。任務は続行出来ているのか。自分だけが、命の危険から遠ざかってしまった。
 身体中の空気を全て抜くように息を吐き、捨てられない新聞を畳む。

「随分、暗い顔をしているわね」
「錦?まだ起きてたのか」

 錦は一階の洋室を自分の部屋として使っている。深夜とは思えないすっきりとした顔で、ダイニングの椅子によじ登った。目が覚めたのではなく起きていたのは明らかだ。
 四歳児が夜更かし。よくない傾向である。道理で朝が遅い訳だ。

「子供はとっくに寝る時間です」
「わたくし夜行性なの」
「出た夜更かし常習犯の常套句」
「パパは寝ないの?」
「普段はバーにいる時間だからなあ。ほら錦は布団に戻りなさい」
「悩み事?」
「ちっこい子供に愚痴る親がいるか」
「母親に愚痴をこぼす男性ならいるでしょうね」
「込み入った仕事だし、これは俺が解決すべきことだ」
「あなたが生きているというトップシークレットを知っているわたくしに、これ以上隠すことがある?」
「話してどうなるんだ」
「どうもならないわ。わたくし、人同士のいさかいに関わる気は毛頭ないもの」
「なら別にいいだろ。パパの言うことを聞きなさい」
「直接関わりはしないけれど、多少首を突っ込むのは吝かじゃないわ。大事なあなたのことだもの」

 錦はそう言って、眠たげな、常に微笑んだような目元をさらに細める。ふくふくした幼い指で、半分程度中身の無くなったバーボンの瓶をなぞる。

「大事な人なのでしょう、彼」
「……知ってたのか」
「名を呼んでいたから分かるわよ、スコッチ」
「温厚そうに見えて、短気で強引なんだ」
「生きていると知らせたいのなら、わたくしが向かうわよ」
「いや……まだ、だめだ。年単位、組織のやつらが俺のことを忘れたくらいじゃないと」
「もう一人は?」
「あいつのことも心配なんだよなあ。放っとくとどっかで死んでそうなんだ、自分のことに無頓着で」
「世話が焼けるわね」
「まったくだ」

 グラスのバーボンを飲みきる。潜入捜査官として当然アルコールには強く、この程度ではほろ酔いにもならない。
 グラスを流しに置いて、バーボンを棚へ片付ける。心の重みは消えないが、心配性な母親を寝かしつけるのが先だ。

「よし、眠れないならパパと一緒に寝ようか」
「ほんと?わあい、パパだっこしてー」
「……そのスイッチの切り替えどうなってるんだ」
「抱っこしてくれても、いいのよ?」
「はいはい」

 片腕で錦を抱えて、二階の自分の部屋に向かう。態度は大きいが、子供らしく小さく軽い。
 今自分の生存を明かすことはしないが、このまま隠居し続けるつもりもない。多少鈍ってはいるだろうが、元々潜入捜査を命じられる程度には実力もあるし、今でも簡単なトレーニングは欠かしていない。大一番には、何がなんでも参加したい。
 再び危険な立場になったとき、深く関わった錦に危険が及ぶ恐れがある。しっかり守ってやらねば、恩を返さねば。そんな風に思うようになっていた。
 娘で母親な死神の正体は、未だ不明なのだけど。



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