朝風呂


 午前九時、錦は帽子を深くかぶり、凌と家を出た。日傘が邪魔になるということで、凌と出掛けるときは日除け道具を日傘から帽子にかえている。
 何度も欠伸を噛み殺す錦に、凌の笑い声が降ってくる。錦は朝が非常に苦手だった。

「寝るか?」

 片手に荷物を持った凌が、少し呆れたような顔でしゃがむ。錦は目を擦りながら、凌の首にしがみついた。

「もしかして、まーた夜更かししたのか?」
「わたしくし、夜行性だから……」
「はいはい。そのうち早寝早起きの練習しないとな」

 錦はうなりながら、凌の首に頭を押し付ける。凌はくすぐったいのと、駄々っ子のような錦が珍しいのとでとても楽しげだ。
 錦は深夜から朝方に眠り、昼前から夕方に活動するという生活を送っている。一見不健康そうに聞こえるが、錦の"本来の生活時間"から凌に合わせて精一杯動かした結果なのだ。これからも少しずつ"ずらして"いくつもりではあるが、やはり朝はつらいものがある。

「はあ…………おいしそう…………」
「朝ごはん帰ってからって言ったの錦だぞ?」

 そういうことでは、ないのだけれど。
 錦は内心呟いて、まるであやすような揺れに目を閉じた。
 そもそも給湯器が故障などしなければ、いつも通り昨夜に入浴ができ、朝風呂に銭湯へ向かう必要などなかったのだ。寿命を迎えた給湯器ーーどうやら十九年目だったーーに文句を言っても仕方ないのだが。
 近くの銭湯は二十四時間営業ではない。町中にあることと地域住民の利用が多いので銭湯と呼ばれているが、一応温泉が湧いていたりする。
 自宅から徒歩二〇分ほど。到着すると、凌は錦を下ろして支払いを済ませ、男湯に向かった。

「いいか?絶対、絶対、絶対に俺から離れるなよ」
「どちらかというと、それはわたくしの台詞なのだけれど」

 子供でありながら一人で大概をこなせてしまう錦が男湯に入るのには、決して無視できない理由があった。
 風呂に入るので、当然凌は眼鏡をとる。眼鏡を手放すときには錦がそばにいないと、何かあっても誤魔化しがきかない。銭湯で知り合いと遭遇するとは考えたくないが、備えあれば憂いなし。
 そして、それにより凌は気を"抜けなくなった"。凌に課せられた任務とは、男性客をペドフィリアーーつまり幼女趣味に目覚めさせないことだ。錦が男湯を利用することにより発生するとんでもないリスクである。
 なんたって錦は魅惑の四歳児。性欲対象にならないと言い切れない。そうでなくとも、そっと持ち帰りたい衝動に刈られる者がいるかもしれない。

「美人過ぎるのも考えものだよなあ……」

 凌は錦の色気から客を守り、怪しい客から錦を守らねばならないのだった。平日の朝とあって利用客が少ないことが救いである。
 シャワーは当然隣り合って座った。錦は凌を横目で見つつ使い方をマスターし、体も髪も綺麗に洗う。髪はタオルでまとめて、凌より遅れてシャワーを止めた。
 錦が滑って転ぶビジョンを容易に想像できてしまったらしい凌と手を繋いで、浴槽に向かう。錦は段差の所に座り、凌は底で長座した。

「…………子供だけど、普段あんなだから、男湯はもっと嫌がるかと思った」
「裸体を晒すのは、愉快ではないけれど。ほら、まだまだ幼児でしょう?」
「幼児が裸体とか言うなよ……」
「凌はおいし、じゃなくて、とっても鍛えているのね。他の男性を見ても、凌のような体作りしている人はいないわ」
「まーな」
「皆、凌のようなのかと思っていたけれど」
「鍛えてるのは嫌いか?」
「いいえ。男らしくて、健康そうで、とっても魅力的ね」

 錦は思わず、うっそりと笑む。凌はその言葉が意味する正確なところは分からないながらも、器用に青い顔をした。

「そういう笑い方は止めて……パパとの約束だ……庇護欲スイッチの強打で済まないぞ」
「将来が楽しみでしょう?」
「恐ろしいわ」

 錦は自分の魅せ方を十二分に心得ている。しかしパパには不評ならしい、とくすくす笑った。



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