秘密主義


 鉄の塊が、錦の頭上を跳び越えた。
  


 錦に実感はなかったが、どうやらそこそこの規模の交通事故に巻き込まれたらしかった。無傷を自覚していたので処置は辞退したのだが、車に乗っていた外国人に説得される形で病院に移動し、検査を受けることとなった。
 事故で搬送されたのは錦の他、バイクに乗っていた女性と、道路に飛び出した男の子だ。
 不思議な事故だったと思う。通りすがりの錦が男の子を庇うために道路に出たところ、走行していた乗用車が急停止し、その上からバイクが跳んだのだ。この道路に限って特殊な交通ルール――バイクは車のルーフへの乗り上げ可能、だとか――が設けられているのかと首をひねる羽目になった。
 錦に検査を勧めたのは、乗用車に乗っていた外国人たちだ。彼らは錦や少年の怪我を心配し、意識のない女性に応急手当を施し、病院の手配もスムーズに行ってくれた。警察への通報や現場検証から医療費の支払いまで任せてくれ、とやけに手慣れていた。
 病院や警察の世話になりたくない錦からすれば願ったり叶ったりの"お任せコース"である。
 検査の結果は"問題ナシ"。医師からそう告げられて診察室を出て、付き添ってくれていた外国人と待合室のソファに座った。

「まさか、かすり傷一つないとは思わなかったが、何事もなくて本当に良かった。もし、これから体調が悪くなったりしたら遠慮なく連絡してくれ。もちろん、今日のも含めて診察費用はこちらで負担するよ。……と言っても、分からないかなあ」
「いいえ、分かるわ。男の子とあの女性はどうなったの?」
「男の子は検査が終わって、さっき保護者が迎えに来ていたよ。膝を擦りむいただけだったから、安心して。彼女は入院だ。君のパパは、まだかな?」
「ええ……ああ、いえ。いいタイミングよ」

 錦はソファをおり、総合受付に声をかけようとしている凌の脚に突撃した。「おっ」という声の後、いつもより低い声で名前を呼ばれる。

「錦……怪我は?」
「全く」
「そりゃ良かった。ほんっとうに、びっくりしたんだからな」

 凌が深い深いため息をつきながら錦の頭を豪快に撫で、無傷の頬をつつき、両の手のひらを錦に向けて動きを止める。錦は笑みながら、ぺち、と小さな手でハイタッチをした。
 そのまま大きな手を握って、小さく笑っている外国人を示す。
 
「車に乗っていた方が、パパにお話があるって。検査費用や事故のこと、お任せしていいそうよ」
「おう、了解」

 エントランスの邪魔にならない場所に移動し、錦の頭上で真面目な話が始まる。探られたくないことが多すぎる橙茉家なので、任せられることは全て任せる方向だ。凌の携帯番号は仕方がなかったとしても、それ以外の個人情報は極力伏せたい。
 錦は、自分が口を挟む必要もないだろうと凌の脚にくっついて大人しくしていた。鼻に、消毒液や病院ならではの独特なにおいがこびりついて少々不快である。馴染んだ凌のにおいを目一杯吸いこむと、「こら」と優しい声で控えめに制止された。
 深呼吸を止めて今度こそ大人しくしようとしたのだが、おや、と凌の脚から顔を出した。病院の正面玄関から入って来た人物に見覚えがある。見つめていると、相手も錦に気付いたようだ。
 
「……」
「……」

 相変わらず顔色の悪い男は、無表情で歩み寄ってくる。にこにこと見上げる錦が何かを言う前に、男の方から膝を折った。
 一度だけ会ったことのある男だが、妙に錦を警戒している節があり、あの時は名乗りもしなかった。

「……災難だったな、お嬢ちゃん」
「髪を切ったのね。わたくし、そちらのほうが好きよ」
「Hey, Shyu! All right?」
「ンッ!?ゲホッゴホ」

 激しく噎せているのは凌だ。
 外国人と、シュウと呼ばれた男が英語で短く会話している間に、錦は凌とアイコンタクトを取る。
 (どういうことだ?)(わたくしは、事故に巻き込まれただけよ。彼とは以前会ったことがあるだけ)(コイツの洞察力はあなどれない、さっさと撤退するぞ)(はあい)
 錦はさっと凌に抱え上げられた。シュウも立ち上がり、外国人の男と並ぶ。彼らが口を開くよりも先に、凌が頭を下げた。

「この子も無事ですし、色々とお任せしていいそうなので……僕たちはこれで失礼します」
「分かりました。しばらくは、安静にしてあげてください」
「この度はこちらの事故に巻き込んでしまって、申し訳ありません」

 真摯な態度で謝罪してくる二人に、凌があたりさわりのない返答をして、ごく自然な流れで病院を出た。
 凌は普段通りに振る舞っていたが、緊張していることは錦にお見通しだった。断じてわざとではないが、知らないふりも出来ず、抱っこされたまま凌の肩を軽く叩く。

「眼鏡もかけているし、わたくしもいるし、大丈夫よ」
「おう」
「他にも心配事があるのかしら」
「……錦、巻き込まれてる気がするなあ、と思って」
「事故に?」
「……そうだなあ」

 凌は、今更なんだけどなあ、とつけたして錦を肩車した。
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