ビターチョコレート


 その日の披露宴が夕方の四時からということで、錦は長い散歩に出掛けていた。図書館で借りた本を読んでもいいが、凌は披露宴でのバイトを終えたらそのままバーへ向かうことになっているので、折角ならと夜にかけて散歩を楽しむことにしたのである。
 町内はすっかり歩き尽くしているので、ふらふらと移動距離を伸ばす。知らない方へ 、知らない方へと歩き、辺りが赤く染まった頃。広いグラウンドでたった一人、ボールと戯れる姿が目に留まった。

「上手いものね……」

 フェンス越しに見る姿は遠いが、錦は聴力や嗅覚も良ければ視力も良い。澄んだ青の目を持つ少年が、白黒のボールを操る様ははっきりと見えていた。
 素人目に見ても上手い。よほどその競技が好きなのだろう、踊っているようだ。
 ーーカシャン、とフェンスの揺れる音がした。錦と同じようにグラウンドを眺める少女が、じっと少年を見つめている。その視線には分かりやすく感情が籠っていた。

「上手ね、彼」

 錦が声をかけてみると、少女は弾かれたように錦を見る。ほんのり色づいていた頬は一気に赤くなり、視線を泳がせた。

「え、え?その、あたしは別に」
「恋人?」
「恋っ!?違う違う違う、違う。えっと、人気のある先輩で、たまたま見かけたから見てただけでっ」
「片想い中なのね」
「この、おませさん……っ!」

 少女はフェンスをぎゅっと握って、口を尖らせる。錦に向いていた視線は、グラウンドの彼に戻っていた。
 一人で練習していた彼のもとへ、別の少女が駆け寄る。長い黒髪をなびかせながら走り寄った少女は、少年にタオルを投げて寄越した。気のおけない間柄らしい。
 
「……先輩の幼馴染なんだって。付き合ってないらしいけど、仲が良いのは見てわかるもん」

 幼女への恋愛相談というよりは、自分に言い聞かせているようだった。
 錦は、先程までの赤面から一転して消沈した様子を盗み見る。

「身を引くの?」
「美人で明るくて前向きで……そんな先輩に叶うはずないもん」
「あなたは、あなたの魅力を見つけるべきね。彼女と勝負するんじゃないわ、彼に選ばれるために磨くのよ」
「けどあたしが磨けるところなんて、」
「思考停止は感心しないわよ。諦めたら、それ以上何も変わらないわ。あり得ない、なんてことこそあり得ない。あなたは、たった十数年生きてきただけで、自分の可能性の限界を知っているの?」

 幼女に諭されると思ってもみなかったのか、少女はきょとんと錦を見て、それから俯いた。

「自分で自分を認めてあげないで、どうするの。彼よりも素敵な男性に、きっと巡り会える未来もあるのに」

 グラウンドでは、少女と少年が片付けをして移動を始めている。二人が並んでいることに何の違和感もなく、幼馴染としての付き合いの長さが分かる。
 二人を見送る錦の隣に、少女が腰を下ろした。フェンスを背もたれにして、足を投げ出す。

「最近の子供は、ヘビィなドラマでも見てるの?」
「うちテレビないわよ」
「うぇ、ありえない。無理無理」
「こうして出歩くのも楽しいわよ」
「それで変な知識を身に付けるの?」
「あなた向けのアドバイスのつもりよ」
「何通りでもあるような言い方ー」
「わたくしは違うから」

 じとりと見てくる少女に少し笑う。癖っ毛をぽすぽす撫でてやると、非常に複雑そうな顔をした。錦にとっては、少女も幼い子供に変わりないのである。
 すると少女がまるで試すように言う。

「おませさんは、好きなひとに振り向いてもらうためにはどうするの?」
「奪うだけよ」

 即答すると、少女は手を叩いて笑った。幼女の冗談として受け取ったのだ。彼女の脳内では、スモッグを着た園児のおままごとのような愛憎劇が繰り広げられていることだろう。
 錦にとっては、全く冗談でもなんでもない。振り向いてもらう、選んでもらう、といった感覚は持ち合わせていない。

「欲しいものは、奪ってでも手にいれる……そういう生き物なのよ」
「……何ごっこ?」
「吸血鬼かしら」
「吸血鬼ごっこって斬新……。本能のままにってやつ?」
「ええ」
「最近の子供の遊びは分かんないな……」
「……ま、謙虚は美点だとも思うけれど。謙虚であることと卑屈になることは別なのよ」
「……いーことゆーじゃん」

 子供の癖に、という心の声が聞こえてきそうだった。拗ねている様子だが、アドバイスに関しては思うところがあったのだろう、小さな礼が聞こえた。



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