過剰防衛と不法侵入


「あー生きてるー?」

とある吸血鬼の姫の先輩かつ家庭教師の藍堂英は、目の前にいる少女とも女とも呼べそうな存在に、そう声をかけられた。

伸びた声に緊張感はないが、英の喉には刃物が突きつけられている。言うまでもなく、突きつけているのは目の前の女。どのような形状なのか、確認は出来ないが、刃物独特の冷たさが伝わっていた。

英は突っ立ったまま、どことなく驚いた様子の女を凝視する。この状況の意味が分からなかった。驚いているのはこちらである。

「おー生きてるー。すげーなー」

感情のこもっていない声。

英はとっさに能力を発動させていたため、女の足は氷によって地面に縫い付けられている。もし判断が遅れていれば、英の頭は体とおさらばしていただろう。それほどの勢いがあった攻撃だったのだ。

そうなってしまえば、<純血種>でない自分は命を落とす。

……僕は、何でこうなってるんだ。

頭痛を覚えながらも現実逃避はせず、繰り出された目潰しを、女の手首を掴むことで止める。

氷はいつの間にか砕かれていた。





英が、見知ぬ女から出合い頭に刃物を突き付けられる、一月ほど前のことである。

英が、玖蘭の屋敷である資料を見つけたことがそもそもの始まりだった。




「東洋……?」
「ああ。枢様が一時期、滞在されていたらしい」

<純血種>軍勢との戦いが終わった後、"吸血鬼を人に戻す研究"の資料が発見された。かつて枢が試み、しかし当時の技術では実現できなかったために、不完全なまま残されていた。

今の吸血鬼やハンターが受け継いでいるが、とても順調とは言えなかった。吸血鬼を人に戻すには、吸血鬼や人間の根本を理解しなければならず、最早神の領域にさえ近いのだ。研究の完成には長い年月が必要なのは周知であった。

そんな中で、英は枢が東洋に滞在していた記録を偶然発見したのである。枢にとって興味深い場所であったのか、大陸のどのあたりに滞在したのかも分かった。ただし、今は地形が変わっており、その場所は島国として存在しているようだった。

「枢が、訪れた場所……」

英からの話を聞いた優姫は、どこか遠くを見るような目で笑んでいた。英は地図を示し、例の島国を示す。

「枢様が気まぐれで立ち寄っただけの土地かもしれない。けれど、記録に残してるってことは、何か枢様の印象に残ることがあったはずなんだ」
「なにか手掛かりになるかもしれませんね」
「そういう訳で、僕はしばらく玖蘭家(ここ)を空ける。丁度瑠佳が来る予定だったろ?臨時家庭教師を頼んでおくから」
「え?いやいや待ってくださいよ。私も行きます!」

テーブルに手をついて抗議する優姫に、英は呆れたように眉を寄せた。





結果だけ言えば、優姫は課題をやってのけた。そして英を含む数人の吸血鬼を伴い、東洋の島国へと向かったのである。

零はというと、思いのほかあっさりと了承した。枢が関わっているとなると、零も優姫の意見を優先するようだった。




英は、京都の山奥にある屋敷を玖蘭の別荘として買い取っていたためーー優姫の了承は得ているーーそこを拠点とすることになっていた。

到着後荷物を整理し、行動計画を立て、休むことになった。英も適当に休むつもりだったのだが、散歩も兼ねて見回りをしようと山へ足を踏み入れた。時間は朝の五時、決して快適とは言えない時間帯であるが、高揚しかかっている気分を落ち着けるのには丁度良かった。

……枢様の研究を進める手掛かりがあるかもしれない。

そんなことを考えながら山を歩き、呆としながら中腹まで来た時ーーーー突如目の前に、女が現れたのである。否、現れたのは確かに突然であったが、英はその気配を認識していた。

この朝早くから、ホテルもないこの山にいるとなると、遭難か自殺志願者か。英はそう考えて、接触を避けなかったのだが、

「あれま」

女が間抜けな声を発すると同時、意識をもっていかれそうなほどの殺気が膨れ上がる。発生源は言うまでもなく女。英が殺気の意味を問おうとする前に、女は地面を蹴った。




ーーーーそして冒頭に戻る、という訳だ。

「何なんだお前いきなり!僕に恨みでもあるのか?!」
「そう言われてもー。あたしは朝ご飯の調達してただけでー」
「僕を食べる気か?!」
「うひっ。そうじゃなくてー、ウサギでも狩ろうと思ってー」
「なにサバイバルしてるんだよ!街で買い出ししろよ!」

それに僕を襲う理由になってないだろ、と英は心の中で叫んだ。会話している最中も、ナイフを避け目潰しをかわし、蹴りから逃れている。蹴りはそのまま木をえぐったため、英は受け止めなかったことを心底安堵した。

「まー大人の事情ってやつでー」
「ウサギを狩ることが?!」
「まーまー落ち着いてー」
「落ち着いたら死ぬからな!」

冷や汗を流しながら攻撃を避けていたがーー不意に殺気が収まった。襲われた時の様に唐突に、風船がしぼんでいくように。殺すことしか考えていない女の動きが緩やかになり、英の懐へ踏み込むのを止めた。

ほっとするが警戒を解くことは出来ず、心臓はかつてないほど早鐘を打っている。ドキドキではなくドドドドと表現したいくらいだった。

「おー生きてるね、あなたすごいねー」
「何なんだよ!普通の人間なら五回は死んでるぞ……!」
「だろうね。いやーしかしすごいすごい。反応を見る限り、あたしに用事でこの山に来た訳じゃないんでしょー?」
「?……そうだが」
「名前はー?」

女はいつに間にかナイフを仕舞っており、殺気も敵意もない。英は顔をしかめたまま、少しだけ緊張を和らげた。

「……藍堂英だ。お前は?」
「あー……狛織ー。藍堂くんね、了解ー。生きててくれてうれしーよ」
「お前が襲ったんだろ……で、なんで殺そうとしてきたんだよ」

女ーー狛織は気まずように頭をかく。

「理由は……ないなー。不意に人に会ったから、つい」
「お前は"つい"で人を殺すのか?!」

僕は吸血鬼だけど、とは言わない。事実、狛織のあの攻撃を人間がかわせるとは思えない。狛織の動きも人外じみてはいたが、吸血鬼の気配はない。

「んーまーいいじゃん、君は生きてるし。じゃああたしは行くねー。朝ご飯調達の途中だったしさー」
「いやいや待てよ、僕は色々と納得してなーーーー」
「あ、ウサギさんはっけーん」
「おい待てって言ってるだろー!」

朝食にするらしいウサギーー肉眼で確認できるとは思えない距離にいたーーを風のように走って追った狛織は、あっという間に英の視界から消えた。英は追いかけようかと一歩踏み出したが、強すぎる殺気にさらされた疲労が思い出されて、それを止めた。





英が再び狛織と会ったのは、二日後の夜のことだった。

その日は午後から街に下り、情報収集や近隣に吸血鬼がいないか探すことに時間を費やした。人間の活動休止時間となり、別荘へと戻る所で、英は身に覚えのある殺気を感じたのである。

車を使っていないのは、この山の車道は舗装されておらず、乗り心地が悪いからである。初日に優姫が酔いかけたほどだ。徒歩に関して英は特に意義は無かったが、今ばかりは、車であればこの殺気から逃れられたのではと思ってしまう。

……これ、またアイツか。

生憎一人ではなく、英は優姫と一緒だった。英も殺気に慣れている訳ではないが、優姫はひどく怯えてしまっているようで、落ち着きなく周囲を見回している。いくら吸血鬼としての位が高く、能力があるとはいえ、何の雑念も混ざっていない殺気は体に悪い。英は優姫を一瞥して、[狩りの女神]を構えるよう言った。

「目的は分からないが、あいつの攻撃はおよそ人間のものじゃない。お前は武器があるんだから、構えておいて損ないぞ……」
「センパイ、"これ"知ってるんですか……?こんな禍々しいの……」
「話したろ、狛織だ、多分。僕らに恨みは無くても、あいつは何か知らんが殺す気でくる」

言いながら、英は冷や汗が流れるのを感じた。初めて会った時とは違い、狛織の強さと理不尽さを思い知っている今、彼女を待ち受けるのは精神的に苦しい。別荘まで走って帰ろうにも、彼女の脚力を思い出せば逃げ切れる自信はなかった。

人間に対して引けを取るようなことは無いと言いたいが、狛織を人間の枠にくくるのは間違っている気がする。何なんだよ意味が分からない、と悪態をついていると、空気が動いたのを感じて、英はとっさにしゃがんだ。何かが英の頭上を通り、地面に落下する。ベキ、と地面が抉れたのは見間違いだと思いたい。

「あれー藍堂くんだー」
「やっぱりお前か……」
「はろはろー」

英は引き攣った笑みを浮かべて立ち上がり、足がすくんでいるらしい優姫を庇うように立った。優姫とて厳しい戦いを経験しているが、狛織の放つ殺気は桁違いに鋭いのだ。

「可愛い子がいるー。藍堂くんの彼女ー?」
「違う。だからなんで攻撃をーー」
「きゃあっ?!」

どこからか取り出したナイフで英に切りかかっていた狛織だが、おもむろに優姫に刃を振りかざした。ナイフは一つだけではないらしく、装飾されたナイフを両手に一本ずつ握っている。

優姫は[狩りの女神]の柄でナイフを防いだが、狛織の強い力でバランスを崩す。あれが[狩りの女神]でなければ粉砕されていただろう。

「狛織!そいつには手を出すな!」
「そう言われてもさー……でも防いじゃうなんてすごいよー」

狛織は驚いたようにそう言い、英が避けたために木にめり込んだナイフを引き抜きーー惨いくらいの殺気を収める。空気が軽くなったような感覚に、英は知らず詰めていた息を吐いた。

鎌の柄を抱えるようにしていた優姫も、それに気付き、その場にへたり込んでしまう。<純血種>が腰を抜かすなんて、と普段の英なら言っているところだが、今回ばかりは仕方ない気がした。

「狛織……本当にやめてくれ。心臓に悪い。いちいち殺そうとしてくれるな」
「えーこれでも頑張ってるよー。前よりも落ち着くの早かったでしょー?」
「襲わないようにするって頑張ることか……?」
「ところでさー、お嬢さんもやるよねー。違うと思うけど一応聞くけど、石凪の人?」
「え?う、ううん、違うよ……」
「だよねー。鎌使ってるからびっくりしたよー」
「あなたは……」

先ほどまでの荒々しさを消し去った狛織は、優姫の困惑した視線に首を傾ける。英は優姫に手を貸しながら、いつでも殺気に対応できるよう注意を向けていた。

「狛織さん……だよね?どうしてこんなこと……」
「またそれー?まあいいじゃないかー」
「で、今日はこんな所で何してたんだ?またウサギ狩りか?」
「散歩だよー。目が冴えちゃってね」

こんな時間に、こんな山奥に散歩。自殺行為である。へらへらと核心をつかせない狛織に英は眉を寄せる。が、優姫はどこか決意に満ちた目をしていた。

英は嫌な予感に、一体何をする気なんだと優姫を一瞥する。

「あの、良かったら!うちの別荘に来ない?!」

……まじか。

「別荘?」
「夜中にうろうろしてたら、迷子になって大変だし!この山の上のお屋敷、うちの別荘なの。よかったら……」
「えー。面倒そうだからヤダ」
「折角だし、ね!ご飯もごちそうするよ!」

食べ物につられる年齢でもないだろう、と英は溜め息をついたが、狛織のキラキラした目を見て口元を引きつらせた。

優姫も優姫だ。危険人物を目の届くところに置きたいのは理解出来なくもないが、気が進まない。

「美味しいご飯!あ、けど深夜に押し掛けるなんて非常識だ」
「大丈夫、私がいいって言ってるんだから!」
「兄さんが非常識だって言ってたもん。気が向いたら訪ねるよー」

吸血鬼(こちら)からすれば、早朝や昼間に訪ねる方が非常識だが、人間は違う。狛織にも一応、人間としての常識はあるらしい。

お誘いありがとー、とへらりと笑う狛織にため息を一つ。狛織が両手で弄んでいる装飾ナイフがいつ飛んでくるかと、英は気が気じゃない。問いかけたいことはいくつもあるが、もし地雷を踏んでまた襲い掛かられたらと思うと、安易に踏み込んだ質問は出来なかった。


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