あしもと



「雲雀先輩。無意識に人を踏み台にする人間って、怖いと思いませんか」

青いフレームの眼鏡の奥で、彼女の目は死んでいた。整った容姿を誤魔化すような長めの前髪に、何の変哲もない眼鏡、明るい茶髪は肩あたりで好き勝手にはねている。彼女の目が死んだように霞んでいるのも、僕に物怖じしないのも、抑揚のない声も、いつものことだ。

「なに、急に」

書類に視線を落とし、一応声を返す。書類は先日起こった校舎破損の規模や被害額。僕も物を良く壊すけど、僕以外の人間が校舎を傷つけたかと思うと苛々する。

「『天然』って、言われた本人は嬉しくないらしいんですけど」
「……宮子、さっきの話はどうなったの」
「続きです。……でも周りから、天然って悪い意味に捉えられること少ないですよね。周りとずれててちょっと鈍い、でもそれが良い、みたいな」
「知らないよ」
「それって、周りを見ていないってことにもなると思うんです。一概には言えませんが、少なくとも私の兄妹はそれです」
「……」
「先輩もご存知の通り、あの兄は人の話を聞きません。いつも自分本位……ですが、何事も自分で確かめようとする姿勢は、好感が持てると思うんです。ま、それを上回って人の話を聞かないので、困ったものですけど」

予算を組んで、即刻修理させる手配が出来るよう、必要書類を準備する。いつもは電話一本で終わらせるけど、今回は、宮子が喋ってるので電話を控えたいからだ。宮子がここにいないか口を閉ざしたままならば、迷わず電話していただろうけど。だからといって、宮子と特別な関係な訳ではない。要は、単なる僕の気まぐれだった。

「……一方で、妹は。眩しすぎる位綺麗で、純粋で、愛される優しい子です。警戒心をほとんど持たないお人好しで、でも時に敵は敵だと認識するんです。老若男女問わず好かれ、いっつもニコニコニコニコして」
「で、結論は」
「私は京子が嫌いです」
「知ってるよ……何を今更」
「再確認です」
「で?冒頭とどう繋がるわけ」

ペンを置いて、椅子の背もたれにもたれる。窓辺に立つ宮子を見れば、宮子はその暗い目で外を眺めていた。笹川京子とは一卵性双生児なので、容姿は整っているはずだが、彼女の雰囲気と目つきーー常に瞼が半分落ちたようなーーのせいで、笹川京子のように人気者ではない。むしろ、どことなく避けられてさえいる。

「人を疑うことを京子はしない。言葉の裏の悪意に気付かない。汚れたものを知らない。……当然のように陽だまりを歩いて、太陽みたいに笑って、俯くことをしない」
「……」
「俯かないから、自分の足元に何があるのか気付かないんですよ、あの子。なのに、いざ傷を負ったモノが視界に入ると心を痛めて心配するんです。『大丈夫?どうしたの?』『辛いことがあったなら言ってね』『私は味方だからね』……自分が踏みつけた故の傷だとは、夢にも思わない」

宮子の口元に笑みが浮かんでいる。しかし笑っているより引きつっているように見える。種類としては"嘲り"だろうか。僕は、彼女のそれ以外の笑みを見たことが無い。

「ふうん……なら、意識して人を踏み台にする奴は?」
「踏んでいる自覚があるだけマシだと思いますよ。それを悔いているか、償っているか、無視しているのかは別にして」
「僕や君は、どれ」
「わたしは主に京子に踏まれる側ですけど、踏んだ後に後悔も何もないタイプですね。でも踏んだことは忘れませんよ。ちなみに兄は踏む直前で気付いて、人を踏むことをしないタイプです。……先輩は、完全に踏む側で、それを当然としている人間です」
「否定はしないけど……僕と君の妹、大して変わらないようにも聞こえるよ」

言うと、宮子は僕の方に顔を向ける。長い前髪に隠れて見えないが、「違いますよ」と言った宮子の眉は寄っていそうだ。少し馬鹿にしたような言い方にむっとするが、宮子は無視して続ける。

「先輩は、人の上に立つことが当然だという認識を持ってるじゃないですか。その時点で、誰かが下にいるのは分かってるでしょう。……京子の質が悪いのは、自分で傷つけたのに自分で心配することです。殴られてから『そのアザどうしたの?』って言われたらイラッとするでしょう」
「……なのに、笹川京子は君以外にたいそう好かれているよね」
「京子が踏み台にするのはわたしだけだからです。周りは京子の綺麗さしか見えてませんから」

宮子が笹川京子のことを嫌っているのはよく知っているが、こういう話を聞いたことは初めてだった。何か余程気に障ることでもあったんだろう。宮子風に言えば、"踏み台"にでもされたのだろうか。

時計を見ると、退校時刻が迫っていた。さっきの書類が最後だったので、別に驚く時間でもない。見回りに行かせていた風紀委員からの報告も十数分前に終わっているので、あとは帰るだけだ。

「言いたいことは分かったよ」
「ありがとうございます、戯言に付き合っていただいて」
「僕はもう帰るから、君もさっさと帰りな」
「今日はやけに優しいですね。持ってきたお茶菓子、気に入っていただけましたか」
「……まあね」

学ランを羽織り直して、荷物と鍵を持つ。宮子はソファに置いていた鞄を肩にかけ、また持ってきますね、と抑揚なく言う。微笑みでも添えれば可愛げがあるだろうに、宮子はつくづく妹と正反対だ。話すことといい、性格といい、物の考え方といい。

僕が宮子の存在を許すのは、宮子が群れることをせず、群れを羨んでもいないからだ。どうしようもなく弱いけど、宮子は確かに強い。彼女の在り方を、僕は気に入っていた。

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