Cry, Cry, Cry.5


 ふと目を覚ますと、真っ白な天井。様々な薬品が混ざり合ったような独特のにおい、行き交う足音と空調の音。柔らかい枕と軽い布団。上手く動かせない身体。
 幸村は、いつの間にかベッドに横になっていた。幸村が目覚めたことに気付いた看護師が、早足で近づいてくる。さっとバイタルを確認すると、医師を呼びに出て行った。
 どうやら、ベッドに戻り損ねて転び、一時意識を失っていたらしい。外傷はなかったものの、幸村は入院中の身だ。担当医は、何事も無くて良かったと笑顔を見せた。
 幸村は看護師と医師に礼を言い、一人静かに横になる。
 相応の時間は経っているが、衣服は綺麗なままだ。もちろんスリッパも血に汚れてなどいない。夢だったのではないか――夢であってほしいと思いながらも、血生臭さは鼻の奥にこびりついていた。

『――コードブルー、コードブルー、中央診療棟一階――』



 気づいたときには、汚れていた髪は綺麗になり、点滴に繋がれていた。天井にかざした手は思ったよりも痩せている。噛みちぎってやり過ごしていた爪も整えられていた。
 蟲毒の部屋から脱出し、病院にいるのだとはすぐに分かった。医師や家族の言葉から、自分の置かれている状況も理解した。
 白一色の部屋と蛍光灯がひどく眩しく、慣れるまでは時間がかかったが。
 冴永は高校の卒業式直後から失踪し、先日病院内で発見された。およそ二年間、全く手がかりが無かった中の突然の発見に、メディアもこぞってとりあげているらしい。冴永は衰弱しきっていたのでそのまま入院となり、現在は精神科に入院している。
 
「覚えてる、よく覚えてるよ。七部屋と廊下、下に通路があるの。わたしが扉を閉めてしまったから、クモが来てからは三部屋だけしか移動出来なくて……。場所は知らない、魔法空間ってだけ。魔術師が作ったんだよ、大体食われた」

 入院して数日が経過した。担当医も看護師も、面会に来た両親も、何故か冴永を見ると表情を硬くする。
 冴永は五体満足で、栄養失調ではあったが体を動かすことに支障はない。最後に刺した傷は戻った当初から消えており、痣があるのみだ。その痣も日に日に薄くなっている。
 身体も正常、記憶もきっちりある、どう見てもマトモな自分が未だ入院しているのが耐えられなかった。
 失踪中のことも、いくら冴永が事実を話しても信用されない。怖い夢を見たんだね、と宥められる始末だ。夢などという呑気な代物ではないことが、どうしても伝わらない。冴永にとって紛れもない現実だったのに、その現実を"なかったこと"にしようとするのだ。
  現実を否定され、異常だと無言で突き付けられるたび、冴永はパニックに陥る。それこそが退院の目処が立たない原因なのだが、冴永は気付いていなかった。

「だから覚えてるって言ってんじゃん!だって生きてたんだから!ナチャが怒ってるんだって!わたし知ってんだから皆すぐ理性なんてなくなる!ううう、うー、出るために死んだのだって幸村くんが許してくれたから、ああ、怖がりなのわたしが鍵を探してくるね!」

 世話をしてくる女性も、鍵が閉まっている病室も、冴永にとって毒だった。
 


 冴永は素足でベッドから降り、ドアに寄り添って立つ。いくら引手に力をこめても、外鍵が閉まっているスライドドアは開かない。閉じ込められているという状況を受け入れられず、執拗にドアを開けようとするのは日課になっていた。
 ガコガコガコ。ガコガコガコ。
 廊下を行き交う看護師や医者は、冴永の行動も"よくあること"として相手にしない。冴永はそれでもドアを開けようとするのを止めない。そもそも、開けてもらおうと思って行動しているわけではない。
 彼以外、誰も自分を助けてくれないことは分かっているのだ。ただ、出たいから出ようとしているだけ。
 無言で引手とたわむれていると、不意に外からノックされた。

「冴永ちゃん、お昼ご飯だよ。入ってもいい?」

 優し気な男の声。いつもは挨拶ともに渡されるだけの昼食だが、今日は様子が違う。
 冴永は、ととと、とドアから離れてベッドに座った。すぐに鍵が開く音がして、プレートを持った男性医師が入って来る。
 医師が首から下げているネームカードには"望月"と印字されている。若い医師の名前は望月真咲(まさき)。冴永の兄であり、この病院の精神科勤務医である。冴永の担当医ではないが、ない時間を縫って様子を見に来るのだ。
 女性看護師を警戒する冴永も、真咲に対しては大人しい。失踪前から可愛がられていたことに加え、彼は冴永の悪夢を否定しないからだ。

「はい、ご飯。どうぞ」
「うん」
「冴永ちゃん、外に出たい?」
「出たい。閉じ込められたくない」

 真咲からの問いかけに食い気味に答える。真咲は少し笑って、五センチ程度しか開けられない窓を指さした。

「太陽の光を浴びるのは良いことだよ。冴永ちゃんも好きみたいだしね。それで、この病院、中庭があるんだ。本当は、冴永ちゃんは病室から出られないんだけど……病室にいることが、全くプラスにならない気がしてね。中庭に行けるようお願いした」
「!」
「冴永ちゃんは自傷行為も暴力行為もないから、ほんの少しだけならって条件でオーケーが出たよ。もちろん、僕と看護師さんが付き添う。この病室にちゃんと戻って来るって約束してくれるなら、明日、散歩に出かけよう」

 冴永は大きく頷いた。目覚めた時には病室だったので、蟲毒の部屋から出ても未だ外には出られていない。直に太陽の光を浴びていないのだ。
 病室に戻らずともよくなるのは、いつだろうか。

「わたしは、どうしたらここから出られるの」
「……前みたいに元気になったら、出られるよ。大丈夫」

 正常なつもりである冴永にとっては、難しいことだ。現実を悪夢扱いする周囲こそ、異常であるように見えてしまう。
 彼はまた、自分を殺して連れ出してくれないだろうか。

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