Cry, Cry, Cry.4


 寝室にある扉は二枚だ。一つは見慣れた鉄の扉、もう一つも見慣れた木の扉。鉄扉の向こうは既に見たので、開けるという選択肢はない。
 幸村は木の扉の前に立ち、望月を振り返る。

「次が六部屋目で最後なんだよね。何の部屋?」
「死体置き場だったよ」
「……それ、この部屋にも当てはまらない?」
「アトラック=ナチャが怒る前の。最初の頃、死んだ人をここに運んでた」
「なるほど……」

 物置のように穏やかな場所ではないらしい。
 最後の部屋になるが、ここまで脱出の手がかりらしきものはない。望月も知らなかったという地下通路を発見できたことくらいだ。次の部屋でもめぼしいものがなければ、六部屋と地下通路を調べ直さなければ。いずれは、廊下のクモをどうにかすることも視野に入れなければならない。
 幸村は短く息を吐き、覚悟を決めて扉を開けた。
 薄暗い部屋には淀んだ空気が溜まっており、事切れてしばらく経つであろう死体には虫が蔓延っていて――そんな風景を想像していた幸村は、扉を開けた体勢のまま硬直した。
 部屋にいたのは、一体のクモ、とも呼べぬ何かだった。
 真っ黒い巨体、毛をはやした八本の脚。腹は緑と金のしま模様で、頭部に並んだいくつもの目が幸村を見据えている。それは背に女性を張り付けており、女性の背を突き破って生えたようだった。
 幸村は、即座に資料を思い出す。不気味な怪物の名前を既に知っていた。

「"アトラック=ナチャの娘"……?」

 数々の死体や廊下の巨大クモを見たからか、吐き気をもよおしても取り乱すことはなかった。この空間に来て早々遭遇していたら、腰を抜かしていたかもしれない。
 時間にするとほんの数秒。幸村がぼんやりそんなことを考えていると、背中からぐっと服を引っ張られた。
 うぞ、とアトラック=ナチャの脚が動き、開けたままの扉に巨体が迫る。扉が小さくて通れないらしいが、壁がミシミシと音を立てているので時間の問題だろう。
 幸村は寝室で深呼吸をし、驚くほど冷静な望月に問いかけた。

「あ、りがとう……運び込まれた死体のどれかが、あれになったのか?」
「順当にいけばああなるのはわたしだから、外から来たんじゃないかな」
「ああ、そっか、君が唯一の生き残りだったね……」
「わたしにトドメ差しに来てたのかも」

 アトラック=ナチャの娘を見ている望月の感情は読めない。醜く不気味な怪物は、望月がなっていたかもしれない姿だ。寝室に来ようとしているそれは、望月ではない誰かの姿なのだ。おそらくは普通の女性だった誰かの成れの果て。
 幸村は軽く頭を振り、ドアから距離を取りつつアトラック=ナチャの娘がいる部屋を指さした。

「右手に鉄の扉があるのが見えたんだけど、左手には赤い扉があった。右手は廊下だとして、左の扉はどこに続いてる?」
「そんな扉、なかったと思う」
「床扉と同じで、気づいてなかったとかじゃなくて?」
「否定は出来ないけど、見覚えはない」

 話している間にも、狭い扉から脚が伸び、ガリガリと床を引っかいている。扉付近のベッドの残骸と死体をかき混ぜ、扉の枠に体当たりを始めた。
 静かに部屋に閉じこもっていたアトラック=ナチャの娘が、標的を見つけたことで活発化したのだろうか。だとすれば、ここから離れたところで大人しくしてくれる保障はない。地下通路に逃げ込めばしのげるとしても、脱出するという目標は遠ざかってしまう。
 逃げながら他の部屋を調べ直すか、望月も知らないという扉に向かうか。
 迷ったのは一瞬だった。

「あの赤い扉に行こう。望月さんも知らない七部屋目だ、きっとなにかある」
「分かった」
「問題は、どうやってアトラック=ナチャの娘を切り抜けるか、だけど……殺虫スプレーに期待しよう。威嚇しつつ、扉までダッシュだ。行けるかい?」
「うん」

 無茶苦茶な作戦に頷かれて面食らう。アトラック=ナチャの娘に対する恐怖心はないのだろうか。廊下のクモを恐れていたのは、"二体いる"という単純な理由だったのかもしれない。
 潔い姿勢に、幸村も引っ張り上げられる。人間らしさを忘れた彼女が無鉄砲なだけだとしても、大丈夫な気がしてくる。

「よし。扉から離れたタイミングで――行こう!」

 クモの脚を避け、転がるように部屋に入る。幸村は、思い通りに動く体に自嘲してから胴体めがけてスプレーを噴射した。
 アトラック=ナチャの娘は、駆け込んできた幸村と望月に一瞬迷ったのか、幸村のスプレーをまともに受ける。キャアともギャアともつかない耳障りな声を上げて、嫌がるように幸村から距離を取った。怯んだものの、ダメージには至らない。粘液がしたたる口をガバリと開き、巨体には似つかわしくない動きで望月に襲い掛かった。
 望月はスプレーを構えながら、間一髪で攻撃を避けて床に転がる。だが起き上がる前に、アトラック=ナチャの娘が口を開いて構える。

「望月さん!」
「!」
  
 望月はまたしても間一髪でそれを避けた。元々、運動能力が高いのかもしれない。回避した体勢のまま、すかさずスプレーを噴射し、アトラック=ナチャの娘を怯ませて起き上がる。
 幸村は望月の無事を確認してから、赤い扉に向かって駆けだした。アトラック=ナチャの娘が動く音にひやりとして振り返るが、あれは望月を標的として定めたらしく、淀んだ複眼は望月しか見ていない。
 そう広くはない部屋だ、望月がアトラック=ナチャの娘の注意を引いていることもあり、幸村は赤い扉のドアノブを握った。
 ほんの短い距離しか走っていないのに、息が上がり鼓動がうるさい。もし扉が開かなかったら、という最悪も脳裏をよぎる。内臓が浮遊するような不快感を覚えながら、ドアノブを回した。
 幸村の不安をよそに、赤い扉はすんなり開く。

「開いた……!」

 今までの薄暗さから一転、不便さを感じない明るさのある廊下だった。幸村が一足先に入り、すぐに望月が駆けこむ。長いクモの脚が追いかけてきたが、不気味な巨体は赤い扉枠を突破できない。幸村の目の前で掻き出すように脚が動き、脚に生える毛がかすめた。
 急いで脚の届かないところまで進む。廊下は血の汚れも虫もおらず、抵抗なく壁に背を預けた。
 どん、と巨体が体当たりしているが、壁がきしむ様子はない。安全地帯だと思ってよさそうだ。
 
「望月さん、怪我はない?」
「平気。幸村くんは、平気?」
「ああ……うん、怪我はないけど、平気じゃないかな。でも大丈夫だよ、進もうか」

 壁から背を離し、ずいぶん汚れてしまった寝衣の袖で冷や汗をぬぐう。強く握った殺虫スプレーの缶は、一気に軽くなった気がする。 
 廊下の先にはまた赤い扉がある。幸村と望月は、きれいな廊下を血の足跡で汚しながら進んだ。
 また、アトラック=ナチャの娘のような化け物がいるのではないか。そんな予感がありながも、幸村はドアノブを握る。スプレー缶を握りしめ、一層慎重に扉を開いた。
 物音はなく、大きな影もない。揺らめく蝋燭の光にどこか安堵を覚え、誘われるように足を踏み入れる。扉が閉まる音がすると同時に蝋燭の火が少しだけ大きくなった。
 一切の雑音が無い空間に、第三者の声が響いた。

「やあ、待ってたよ」

 幸村は息を飲んで視線を動かす。
 七部屋目はごつごつとした石造りで、床の中央には魔法陣を思われるものが描かれている。その魔法陣の側に女性が立っているのだ。長いブラウンの髪を三つ編みで束ね、緑の目を微笑ませている。
 幸村が望月の次に出会った、生きている人間だ。おまけに友好的に見える。
 幸村は緊張を解いて口を開くが、思考が声になる前に、女性が一方的に喋りはじめた。

「私は手を貸さずに見ていたけれど、ここまでよく辿り着いたねえ。全くお疲れ様。さて、残念ながら私、君たちの声はよく聞こえなくてね。だから手短に説明だけしようか」

 横目で望月をうかがうと、ただじっと立っているだけ。知り合いには見えない。
 幸村は、解いた緊張を再び張り詰め始めていた。目の前の女性の口ぶりからして、"巻き込まれた"側ではなく"黒幕"側だ。敵意がないのは幸いだとしても、味方ではない。

「ここがどういう場所かは概ねわかったかな?まあ、元は魔術師たちによって作り出された、もう少し出入りしやすい空間だったわけだけど、今はあの……アイツ、蜘蛛神によって閉ざされてしまっているわけだね。その子を閉じ込めるために」

 女性は顎をしゃくって望月を示す。

「そこでこの私が、ちょっと首を突っ込んだワケ。なんでかって、まあ私もその子に大事な我が子を殺されたんだけど、ちょっと待てよ?と」

 幸村は口を挟まず、一言一句をしっかり聞き留めながら、望月から聞いた話を思い出していた。
 魔術師たちが殺され、望月が閉じ込められたのは『アトラック=ナチャを怒らせた』から。怒らせた原因は、望月の『殺したクモがアトラック=ナチャの仲間だった』からだ。
 女性は、『私"も"大事な我が子を殺された』と口にした。"大事な我が子"とやらがクモなのか、虫か、人間の女性かは分からないが、女性自身の立場はアトラック=ナチャと同等であると思われた。そうでなければ、アトラック=ナチャを"アイツ"呼ばわりできないだろう。

「ニンゲンって本能的にさ、生きるために行動するんでしょ?そこのお嬢さんは確かにたくさんのものを殺したけど、それはこの状況じゃなきゃ起こり得ないことだったかもしれない。その子が望むなら、その子は許される存在なのかもしれないんだけど。ただ、その子、もう選べないんだよね。心が壊れてるから。許されたいかどうかも、何もかも」

 だから、と。女性がひたりと幸村を見据える。

「折角なら同じニンゲンに選んでもらおっかなって。君はどう思う?その子は許されるべきか、罪を背負うべきか。言い方を変えれば、君はその子を救いたいかどうかだね。情を持っている君が、ニンゲンが、その子を救いたいと思うなら、その子は君にとって救われるべき存在だ。ならば私はその子を救おう。その子の記憶に蓋をして、その子の心を壊れる前にも戻せるだろう」

 つらつら述べた後、ことん、と何かが床に落ちる。視線だけで確認すると、幸村のつま先から数センチの所にナイフが落ちていた。

「選んで頂戴、ニンゲンさん。君のその手でさ。救いたいなら君の手で。救えないならその子の手で。その子を殺せば、その子の呪いは君に渡る。ただ、二人とも元の世界には返してあげるよ。ああ勿論、君がその子を殺さなくても君だけ返してやる」

 何もしなくとも、幸村は元の場所に戻れるという。ただし、望月を救いたいのなら、望月をここで殺せという。
 望月を見捨てるつもりはない。狂った空間で確かに助けてもらったし、そうでなくても、目の前にいる人間を見捨てて自分だけ生き延びるのは後味が悪すぎる。ただ、条件が問題だ。ここで望月を殺したとして、本当に望月を助けることになるのだろうか。目の前の女性を全面的に信用していいものなのか。
 殺したとして彼女が助かるのか。そもそも、人を殺すということが自分に出来るのか。望月から移る呪いとはなんだ?

「はあ、手短に済ませたかったけどどうしても長話になっちゃうのは親父様のせいかしら。それじゃあ私はそろそろ帰ろうかな、あんまり長居すると蜘蛛神様にたたられかねないし。じゃあね、アンラッキーなニンゲンさん。まあ次会わないことを願ってるよ」

 女性は一方的にそこまで話すと、幸村の様子を気にする風もなく、くるりと陣の中心に躍り出る。陣が光ったかと思えば、瞬く間に女性は姿を消していた。
 幸村は、溢れた光の残滓を目で追う。部屋を照らすものが蝋燭だけになると、おもむろにかがんで殺虫スプレーを床に置き、かわりにナイフを取り上げた。

「きっと、望月さんが待ち望んだ脱出のチャンスだ。でも……俺に殺されてくれとも、自殺してくれとも言えない」

 でも、彼女はここで死なない限り助からない。
 手にナイフを乗せて黙り込む。良く握ったテニスラケットよりもうんと小さいが、人の命を奪うには十分すぎる代物である。
 刃先を睨んで沈黙していると、幸村よりも小さな手がナイフをかすめとった。

「望月さん?」
「なにかを殺すのは、わたしの方が慣れてる」

 望月はナイフの柄を握り、髪の隙間から幸村を見上げている。
 幸村がここで何も言わなければ、望月は狂った生活に戻るのだろう。ただ死にたくないというだけで、生きる意味もなく、脱出する方法もなく、巨大クモから逃げながら息をする。
 それだけは許容できない。
 幸村は冷えた空気を吸い込み、それを絞りだした。

「俺は望月さんを救いたい。だからここで死んでほしい」
「分かった」
「俺が気を狂わせずにここまでこれたのは、君のおかげだと思ってる。死にたくないと言った君を死なせるのは辛いけど……せめて、手伝わせてくれ」

 ナイフを持つ望月の手を握る。望月にちゃんと触れるのはこれが初めてで、情けなくも手が震えた。震えや緊張を隠そうと強く握ると、生きている人間らしい体温を感じる。
 望月は幸村の行動に驚いたようだった。反応らしい反応はないものの、幸村の握った手が居心地悪そうに動く。

「ありがとう、望月さん。また出会うことが出来たら、テニスの試合を見に来てよ」

 望月がこくりと頷く。そして幸村が心を決める間もなく、望月は自らの胸にナイフを突き立てた。
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