38.あなたのことを知っていますか

何事もなく数日が過ぎた。相変わらず安室さんはポアロに送迎してくれるし、一人で外出することもなく。あの怪しい女に遭遇するタイミングはない。わたしが一人にならないから接触してこないのか、もう私には用無しで諦めてくれたから遭遇しないのかは定かではない。正直そろそろお買い物に出かけたりしたい。もうよくない?と考える自分と、油断大敵 単独行動は凶 これ以上安室さんに迷惑をかけるな!と考える自分が戦っている。毎回単独行動は凶派が勝つため、今日もポアロから直帰して引きこもる予定だ。安室さんは私を玄関ホールの前に降ろし、またどこかへ消えて行った。まだお昼だ。この後他の仕事があるみたい。忙しい人。エントランスでポストを確認する。チラシとかダイレクトメールとか、広告しか入っていない。揃えて取り出そうとすると、道路の方から泣き声が聞こえた。空耳かと思ったけど、次第にはっきり聞こえてくる。子供だ。一度気付いてしまったら、無視することはできない。エントランスを出ると、マンションから10mも離れていない場所で4〜5歳くらいの女の子が泣いていた。近づいて声をかける。

「どうしたの?お母さんかお父さんは?」

爆泣きして答えてくれない、子どもだから仕方ない。迷子だろう。放置するわけにもいかず、交番に連れて行くしかない。名前を訊ねても泣いてばかりで答えはない。知らない人に名前を教えちゃいけないしね。正しいことだ。えらい。私は困ってしまったけど。
交番に連絡して、そのまま連れていくことになった。パトカーで迎えに来てもらうこともできたけど、歩居ても5分ちょいくらいだからと断った。女の子に声をかける。

「おうちの人に連絡するために、交番に行こうね。おまわりさんが助けてくれるから」

ようやく顔を上げた。大きな瞳にたくさんの涙を浮かべている。顔はぐちゃぐちゃだのどろどろだ。ハンカチを差し出すと思いっきり鼻をかんだ。ああ私のハンカチがべとべとに…。いや。もうこの子にあげたものと思おう。一緒に来てくれる?と聞くと、頷いてくれた。よかった。車通りは少ないけれど、手をつないだほうがいいのかな、でも嫌がるかな、他人だし。一歩間違えれば不審者だ。ゆっくり歩きだすと、女の子も着いて来てくれたので、注意して歩いた。いつもより少し時間がかかって、交番に到着した。女の子を引き渡す。

「ご協力ありがとうございました。このハンカチ、お姉さんのものですよね?この子の親御さんに連絡先とか伝えましょうか?」
「いえ、もう処分してくださいとお伝えください」


女の子を置いて交番を後にする。警察のお兄さんには名前をちゃんと答えていた。警戒心がしっかりあってえらい。すぐに保護者もみつかるだろう。私は久々の単独行動となった帰路につく。単独行動は凶。わかっていたのに。安室さんに迎えに来てくださいと連絡するまでも無い距離だ。家に帰ってきたときに事後報告で良いかと思ったけど、事なかれ主義(?)なので、早めに報告しておく。

”マンションの前に迷子が居たので、近くの交番に送り届けました。今は帰り道で、もうあと3分くらいで家です。夕食は要りますか?”
送信。すぐに既読マークがついた。よろしく、とたった4文字の返信。スタンプで返してスマホをしまう。
最後の信号で引っ掛かった。乗用車がゆっくり走行している。青信号なんだからさっさと行けばいいのに。運転下手か?人通りも車通りも少ない。わたしだったらアクセル踏んでる。制限速度内で。
青信号が点滅する。車が止まる…かと思いきや、徐行のまま後部座席の扉が開き、やばいと思う間もなく私は車内へと引きずり込まれた。一瞬の出来事で、私は声も出せないまま、ボコッと頭を固いもので殴られて意識が遠のいた。

単独行動は凶ってわかってたのにな。どうしてこうなるんだろう。


*

目が覚めたとき、殴られた頭が痛かった。意識ははっきりしているのに、視界が暗い。目隠しをされていると気づいた。両手両足も高速されているようで、動かない。冷たい床に転がっているようだ。誰かの声がする。

「まだ起きない?」

顔を見ることはできないけど、あの女だと思った。百貨店で声をかけてきた女。苗字名前について調べたうえで近づいてきた女。まさかこんな強硬手段をとられるとは思っていなかった。思ったより暴力的で怖い人のようだ。つまり絶体絶命?いやすぎる。足音が近づいてきたかと思うと、思い切りおなかを蹴り飛ばされた。息が止まる。痛みと衝撃で席と涎がでた。久しぶりに人に殴られたのでめちゃくちゃ驚いた。父親に最後に殴られたのは高校3年生の時だ。もう何年も暴力を受けたことがなかったから忘れていたけど、殴られたら痛い。当たり前のことだ。

「苗字さんおはよう。何時間寝るつもり?」

息を整えて、動かないようにじっとする。口も開かない。私がうっかり下手なことを話して、安室さんに不利益があった場合、とても困る。安室さんも困るかもしれないが、私が困る。わたしが嫌だ。
幸いと言っていいのかは謎だけど、殴られることには慣れている。どうやって息をすれば痛みが和らぐかも思い出した。そして抵抗すればするほど痛くされるだろう。わたしはサンドバックになるしかない。
女とは別に、男の声がした。だれだよ。男は私に話しかける。

「苗字さん、痛いのは嫌だよね?大丈夫。持ってる情報さえ教えてくれたらそれでいいんだよ」

情報ってなんの情報だよ。誰だよ。知らねーよ。と言ってしまったらハズレで用無しということで一発ぶち込まれて命がなくなる可能性がある。さも彼の言う「情報」を持っていますよという雰囲気でいなければならないらしい。ああどうしてこんなことに。怖すぎる。恐怖で涙がジワリとにじんだ。目隠しが湿った。気持ち悪い。泣いたら痛くされる。これ以上泣きたくない。ばれたくない。

「情報流したんだよね?どこまで?次はだれがマークされてる?俺は?俺のことも売った?」

話が読めない。まさか勘違いや人違いで私をつれてきたのではないかと思うほどに全く理解できない。私の知らない話をされても困る。何も答えない私に再び蹴りが入れられた。本気で蹴ってくるじゃん。めちゃくちゃ痛い。骨折してるのではないだろうか。お腹を数発蹴られた後、顔も蹴り飛ばされた。ひどい!口の中が切れて血の味だ。涎と一緒に血が口から流れ出ていくのを感じた。父親から顔を殴られたことはない。人生で初めてだ。ひどすぎる。

「しまった。顔はやめておけばよかった」

男が呟いた。そうだそうだ!もう顔はやめろ!と心の中で同意したけど、そのあとに聞こえた「値段が下がる」という言葉にぞくりと背筋が凍った。値段って。顔に傷がついたら値段が下がるって。私を売り飛ばす気満々のようだ。
ひどい!最悪の状況だ。今日が人生最悪の日と言っていい。ああ誰か助けに来てくださいと祈る。この場合の誰かは一人しかいない。安室さんだ。安室さん、どうかわたしを助けてください。きっと殴られて顔は腫れ、ビジュアルで言ったら最低のコンディション。恥ずかしいとか見られたくないとかすっ飛んだ。どんな無様な恰好をしていても助けてほしい。助けてくれる。安室さんは私を絶対に助け出してくれる人だと、私は知っていた。だから、どんなに殴られても、蹴られても、大声で問い詰められても、ただじっとあなたを待つことができるんだよ。